●日本語学会秋季大会シンポジウム「文献資料の最前線─原本・出版・デジタル─」レポート○佐々木 勇(広島大学)【2016.10.30・於山形大学】
しばらく実験的に、各学会大会等で開催されたシンポジウムのレポートを掲載していきます。
ここに掲載されたテキストは、小社PR誌『リポート笠間』の最新号に再掲載いたします。
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日本語学会秋季大会シンポジウム
「文献資料の最前線─原本・出版・デジタル─」レポート
○佐々木 勇(広島大学)
日にち 二〇一六年十月三十日(日)
[パネリスト]
藤本幸夫(富山大学名誉教授・麗澤大学客員教授)
吉田祐輔(勉誠出版株式会社)
小野博(コンテンツ株式会社)
佐々木勇
[司会]小助川貞次(富山大学)
[企画担当]小助川貞次、江口泰生(岡山大学)
学会公式サイト
https://www.jpling.gr.jp/taikai/2016b/2016b_symposium/
日本語学会2016年度秋季大会シンポジウム「文献資料の最前線―原本・出版・デジタル―」が、去る二〇一六年十月三十日に山形大学で開催された。
このシンポジウムでは、「原本」を「近現代の複写技術によって取得した画像を可視化した複製物の元となった本」の意味で用いており、「著者自筆本」という意味ではない。
パネリストを見ると、藤本氏・佐々木は原本、吉田氏は出版、小野氏はデジタルの立場で話をする、ということがわかる。
しかし、原本対複製のように対立するシンポジウムにはしたくなかったし、そうはならなかった。司会の小助川氏が書かれた趣旨文(上記ホームページ参照)に記されるとおり、パネリスト全員は、「これまで様々な立場から原本に関わってきた」。出版・デジタル画像公開の仕事に携わる吉田氏・小野氏は、朝鮮本だけで四・五万点は見たという藤本氏には及ばないであろうが、多領域・分野の文献原本を、私よりも遙かに多くご覧になっている。
与えられた時間内で、「今なぜ古文献の原本調査が必要か」の題で、「原本では、複製物に加えて何がわかるのか」と「これからの日本語史研究に望むこと」とを、私は述べた。『日本語学会2016年度秋季大会予稿集』には、それ以外に、「古文献を研究に活用する環境整備の進展」について述べた。原本閲覧によって知られることについても、予稿集に具体例を記した。
以下、当日、予稿集を補ったこと、時間の都合で話せなかったこと、質問について回答したことを書きたい。
1 複製が無い文献
複製が作成され公開されている「善本」は、ごく僅かである。現時点で複製物が無い文献は、原本を見る外は無い。古文書・古記録・日記・抄物・手控え類などの多くは、複製が無い。宋版一切経東禅寺版・開元寺版は、両版混合の書陵部蔵本画像が公開された(宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧 http://db.sido.keio.ac.jp/kanseki/T_bib_search.php)。しかし、各帖がどちらの版であるのか、不明の点が残る。また、日本に最も大きな影響を与えたと考えられる(注)宋版一切経思渓版の複製は、未刊である。
複製が無い本の原本調査が許され、撮影も許可されたならば、原本調査での見落としを補う目的で、私も写真を撮る。その写真は、原本所蔵者に必ず収めるようにしている。
2 複製物でわからない文字
刻手(刻工)名が宋元版・朝鮮版の刊年特定に有効であることは、藤本氏の発表でも触れられた。宋版一切経研究も、一帖中の各板における刻工名を問題にする段階に入っている。ただし、思渓版の刻工名は、紙継で下になり、大部分が見えない。当日は、郡上市長瀧寺蔵宋版一切経(重要文化財)『玄応一切経音義』の刻工名を紙背から撮影した写真を、原本所蔵者の許可を得て、映写した。思渓版は、現存の目録二種に対応した前思渓版と後思渓版とが存し、後思渓版は前思渓版の補刻・追雕版である、とされるのが通説である。しかし、両者別版であった可能性が残る。刻工名の調査によって、この問題が解決する(上杉智英「思渓版大蔵経研究の回顧と課題」〈日本印度学仏教学会第67回学術大会(2016年9月4日)発表〉、参照)。
複製が出ると原本閲覧が許可されなくなるのではないか、という質問が当日出た。しかし、複製物を見た上で、複製ではこの点が未詳であるからと申請すれば、原本閲覧が許可されることが多い。
3 文字・言語を使用の場に戻す
「どのような場で、いかなる人物によって、誰に向かってその言語が使用されたか」を考慮することは、時代・地域を越えて、言語研究では必要なことであろう。
だが、言語の歴史的研究の場合、それを知ることは難しい。
しかし、原本閲覧で、「いかなる素材のどこに、何を用いて、いかに書かれているか」を見ることによって、言語を使用現場に戻すことが僅かでもできる、と考える。たとえば、『御堂関白記』道長自筆本の裏書きは、表に書ききれない場合に続きを裏に書くというものではなく、和歌・参列出欠者記録などが集中することを倉本一宏「古記録の裏書について ―特に『御堂関白記』自筆本について―」(倉本一宏編『日記・古記録の世界』〈2015年、思文閣出版〉所収)は、指摘している。
4 これからの日本語史研究
① 多様な文献の活用
これからの日本語史研究は、これまで使われなかった資料をも活用したものになろう。この度の日本語学会における研究発表でも、その兆しが見られた。これまでに複製が作成された「善本」には、「善本」に記されているが故に、近い相の言語が反映されており、それらからは、過去の言語のごく一部しか知ることができないのかもしれない。
② 多様な視座の設定
福島直恭「日本語の歴史的研究における「視座の転換」の可能性」(「学習院女子大学紀要」15、2013-3)等が指摘するように、「下層階級の人々の言語使用、女性の言語使用、こどもの言語使用などを中心的記述対象とする」など、従来用いられてきた資料を扱う場合であっても、異なる「視座」からの研究がなされることが期待される。また、日本語史研究に用いられてこなかった資料に見られる言語から、古典文学全集等収載本の言語を観ることで、新たな研究が生まれることであろう。
5 原本の保存と活用
原本から知られた情報を公表することが、原本の長期保存に繋がる。研究者は、原本を活用した研究成果を公刊し、その論文等を原本所蔵者にお送りすることが大切である。
われわれは、「資料を保存・伝承する」と言う時、古典籍を保有しているかのような錯覚に陥る。しかし、千年を生き続けている文献は特別に珍しいものではなく、古典籍から見れば、現代人は一通過集団に過ぎない。ただ、その時々の集団が次の集団へと伝えてきたからこそ、現代に原本が有る。原本に接する時、先人達の人間力を感じる。そうして今ある本物に触れた感動が、新たな研究の推進力となる。
研究環境や研究目的・研究方法がいかに変化しようと、原本に触れなければわからない事柄は残る。また、複製物の有る古典籍も、新技術によって複製され直す時が来る。
研究者も、複製作成を含め、古文献を後世に伝える努力をしなければならない。
(注)佐々木勇「坂東本『教行信証』引用「日蔵経」「月蔵経」の依拠本について」(「仏教史学研究」57巻1号、2014年11月)、同「尊氏願経と宋版一切経思渓版」(「MUSEUM」第659号、2015年12月)、同「春日版『五部大乗経』の底本とされた宋版一切経(一) ―刻記の比較による検討―」(「広島大学大学院教育学研究科紀要」第二部第64号、2015年12月)、同「足利尊氏発願一切経の底本」(「かがみ」第46号、2016年3月)、同「春日版『五部大乗経』の底本とされた宋版一切経(二) ―本文の比較による検討―」(「広島大学大学院教育学研究科紀要」第二部第65号、2016年12月刊行予定)、同「春日版「五部大乗経」本文と底本選択理由」(「日本古写経研究所研究紀要」第2号、2017年3月刊行予定)、参照。その他、鎌倉大仏一切経(和泉市池辺家蔵)・北野社一切経も、思渓版を底本としている。
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