日本一の興行師と呼ばれた男 野呂藤助 江戸時代が終わり、明治時代の幕が挙った。 新しい時代を担った人々の中に、多くの外国人がいたことが知られている。開国と同時に外国人商人や軍事顧問などが日本を訪れていたが、明治時代になると技術者や教師など日本の近代化に寄与した外国人の姿を確認することが出来る。 そんな中、日本で公演する外国人曲芸師や曲馬団などが頼った一人の興行師がいる。 日本一の興行師と評判をとった人物、野呂藤助である。伊勢国松坂の生れ。紀州藩にて町会所詰を勤めた武士であったが、安政3年の将軍家世継問題で臣下が2派に別れて争った際に藩を退身した。安政5年(18589)住居を本所小泉町に移し、町人交際(づきあい)をしながら、興行師として身を立てることを決意したと云う。 万延元年(1860)5月 京都嵯峨の釈迦如来が両国回向院境内に出開帳の際に「傀儡師の大人形」の興行を行い、大当たりを取ったのが興行師としてのスタートだったという。 【参考】蹉跎庵主人さんのブログ『見世物興行年表』によると 「京都嵯峨清涼寺釈迦如来開帳」が江戸両国回向院で催されたのは万延元年5月15日より 60日間。境内には「傀儡師の大人形は坐像」の見世物を出ていたことが確認できる。 図1)表題下に口上文(八行)太夫元(読解不可)道具細工人長谷川(勘兵衛)」。 (袖)「来ル申の五月上旬より両国回向院ニ於て興行仕候」。 左枠外に口上云の名前あるも読解不可。画面は十コマに区切られ、左上に傀儡人形が描 れている。その大人形の右上に女太夫が並び、前に西洋人の男女が数人描かれている。 この成功を皮切りとして芝居興行も手掛け、今の国技館あたりに芝居小屋を建てた。当時の歌舞伎役者の市川喜升、尾上多見之助、岩井松三郎らによる興行は、毎回の大入りを取ったと伝えられている。 興行師としての彼は「損をしても愚痴をこぼせし事なく、地方の芸人などが東京で失敗した時は旅費まで持たせて帰さしむるなど義侠に富めりと」と称されていた。 明治時代には、外国の曲馬団の来日公演がたびたび開催されている。初めて来日した曲馬団は、元治元年(1864)のアメリカのリズリー・サーカスで横浜で興行した。次に明治4年(1871)フランスのスリエ曲馬団、つづいて明治19年(1886)イタリアのチュネリ曲馬団である。興行師として藤助の名は高くなったのは、明治25年(1892)のイギリスのアームストン親子曲馬団の興行を打ったときであろう。アームストン親子の興行は「アームストン大曲馬」と名し、両国回向院で執り行われたと記録されている。 また、奇術の第一人者松旭斎天一一座の興行も手掛けており、名実ともに日本一の興行師として興行界を席捲した。彼の人脈は、相撲界にもおよび年寄春日野の中田家とも縁を結んでいる。 相撲茶屋「大和屋」は、野呂家が経営し中田家に引き継がれ今に繋がったものである。 晩年の藤助は、伜辰之助に興行を任せ、自分は隠居し本所区緑町一丁目四十二番地の宅で過ごした。明治42年(1909年)8月24日、持病の腎臓炎の悪化より病没。享年83。 彼の死は、8月26日の都新聞に「野呂藤助死す(西洋に知れた興行師)」と題し掲載された。 プロ野球にかけた天才興行師 野呂辰之助 藤助の倅辰之助の名は、明治後半から昭和初期まで興行界で大成功した女流奇術師松旭斎天勝の敏腕マネジャーにして夫として知られている。父藤助の跡を継ぎ興行師として、「天才興行師」として名を業界に轟かせていたという。 明治38年(1905)松旭斎天一一座が世界巡業の旅より帰国したのち、父藤助との関係から辰之助が一座の興行を手掛け、支配人として行動を共にしている。 その後、松旭斎天一の引退により、一座は天一の養子で後継者とされた松旭斎天二と松旭斎天勝が袂を分け分離独立する。 天一の引退について辰之助は、明治45年(1912年)京都日出新聞3・17/大阪朝日新聞京都付録3・17に下記のコメントを寄せている。 「明治座の奇術 松旭斎天一病に冒されて隠退し、天二、天勝の二人はどんな事情があつたものか、各々分離して旗幟を翻した。昨年夏、天勝は独立後始めて歌舞伎座へかゝつて稀有の入りを占め得た。天勝の一座と天二の一座を比較してみれば、舞台面に於て天二一座は天勝一座に劣つてゐる。△何んといつても天勝一座は大将が既に響いた人気である上に、座員が何れも派手で、従つてその舞台は何んとなく花やかである。天二一座は此点に於て数等劣つてゐるのは、興行としては甚だしく損であらう。今の世の中は独りよがりでは迚も駄目である。暖簾の估券がものを言ふ世ぢや。」 ここには、興行師としての辰之助の冷徹に眼が注がれており、天勝を選んだ理由が述べられている。結果として天勝が辰之助を獲得したことは、その後の興行において成功を収めた要因とされている。 天一の死後、天勝は辰之助との結婚を望み二人は夫婦となっている。天勝の奇術師としての立場が強くなかったこの時代、100名を越す『天勝一座』の座員と座長天勝を守るために、辰之助と天勝は夫婦となったとされ、この結婚は野呂が考慮した便宜上の入籍だといわれている。 しかし辰之助の「天勝を守る」という思いは、天勝に対する愛情であったのではないだろうか。 また辰之助は、日本のプロ野球黎明期に異彩を放つ「天勝野球団」の代表としての顔も持つ。天勝野球団は、1921年(大正10年)から1923年(大正12年)まで存在した日本で2番目のプロ野球チームである。慶大OBを中心としたクラブチームである「三田倶楽部」に所属していた小野三千麿をコーチに迎え、選手は大学出身者が中心であった。 球団の結成理由について、天勝は後に『天勝一代記』の中で一座の広告塔が目的だったように書いているが、当時のスポーツ雑誌『野球界』の中で天勝野球団の鶴芳生(野呂の変名と見られている)は、「広告本位のチームではありません(中略)商売と野球の試合は別問題です。ボールに負けた故に見物に来ない人は、そんな狭い量見の人は来て頂かなく共結構です」と記しており、天勝はともかく辰之助は、広告塔としてではないチームを志向していたと評されている。 辰之助は、新しい興行の可能性をプロ野球に見出していたのかもしれない。また、狂の呼ばれるほどの野球好きでもあったという。 天勝野球団は、全国を巡業し野球の試合をしている。 1923年(大正12年)6月21日には、京城(現ソウル市)で遠征してきていた日本で最初のプロ野球球団日本運動協会と対戦した。この試合は、日本初のプロ球団同士の試合とされている。 こうして日本プロ野球は産声を上げたが、同年9月1日に発生した関東大震災により、天勝一座は本部が全焼し衣装や道具を全て失うなどの深刻な被害を受け、球団は自然消滅してしまった。しかし、天勝野球団に所属したとされる中野英治は、関東大震災後に辰之助に「月給を百円やるから来い」と言われ、天勝野球団に入り巡業し試合もこなしたと語っている。 その後、中野は※雑誌のインタビューで、天勝が渡米することになり、野球は置いていくことになってチームが解散したと話している。 つまり1924年(大正13年)1月頃までの約半年間、天勝野球団は存在していたものと思われる。 ※「エスクァイアマガジンジャパン」1988年6月号、164-170頁 もし、天勝野球団がそのまま存続していたら、どんなプロ野球を 辰之助は見せてくれたのだろうか。 昭和2年8月17日 野呂辰之助は、堀切別邸にて生涯にピリオドを打った。 辰之助は、父藤助と同じ両国回向院で眠っている。 |
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