我が家の歴史 

アクセスカウンタ

zoom RSS 定中遺物 『急就章』 について

<<   作成日時 : 2015/02/04 17:06   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

西村定中の遺物の中に一冊の和本が残されています。
それには定中の自筆で本についての由来が書き付けてあり、当家に伝わった経緯を伺えるものです。
まず『急就章』とは、中国は三国志の時代「呉」の皇象(おうしょう)の作と云われ、「漢」の時代に学童が文字を覚えるために作られた古字書とされ、日用語を生命・衣服・飲食などに分類して、暗唱しやすいように三言または七言の句でつづられた韻文です。
さて、我が国へは奈良時代には伝わっていたようで弘法大師真蹟の『彩絹墨書急就章(附 護持院隆光記1巻・南谷筆急就篇加点1巻)』が、香川県観音寺市の真言宗大覚寺派の萩原寺に伝わっており、大正五年に重要文化財に指定されています。また、幕末の三筆の一人である貫名菘翁が、天保7年58歳のとき四国に渡り萩原寺に滞在し秘蔵される伝空海『急就章』を臨模し、後に墨拓としてこれを刊行しその跋を書くなど、広く知れました。
我が家に伝わる『急就章』は、定中の祖父造酒右衛門定賀の所蔵の物だったようで、添付されている由来書には「弘法大師真蹟登々菴所摸勒急就章一部是乃河内居醫生北山橘葊曽所贈于吾祖父仁壽亭君也蔵匣底既久埃今茲新制作帖以為家珎云爾」と記されています。
ここに記されている登々菴とは、江戸時代の文化文政期に眼科医で書家として活躍した武元登々菴のことで、彼の手により刷られた物と思えます。次に名前の挙がっている醫生北山橘葊は、河内国は丹南藩領一津屋の人物で明和年間に儒者・医師として活躍しました。丹南藩領出身と云うことで丹南藩との関わりも深く、八代丹南藩主高木正弼が京都の二条城の城代にあった時におきた「激しい腰痛」を見事に直したという逸話が残されています。正弼は大いに喜び、橘庵に衣服を与えて賞したといわれています。正弼の時代、西村家は六代傳兵衛定里の時代で、養嗣子として造酒右衛門定賀も出仕していたようです。当然、家老である定里もしくは定賀と橘庵は、知己の間柄だったと想像できるでしょう。
この和本が当家に伝わっていることが、その「裏付け」と云えるかもしれません。
 ここでこの『急就章」の出自について考えてみましょう。
貫名菘翁が墨拓としてこれを刊行したのは天保7年(1836年)ですが、
武元登々菴 明和 4年(1767年)〜文化15年(1818年)
北山橘葊  享保16年(1731年)〜寛政3年(1791年)
両名の先没年を確認すると貫名菘翁が『急就章』を刊行した天保7年には、既に鬼籍に入っているため、やはり由来書にある通り登々菴の手による物と判断できそうです。
 装丁を新しくしたのがいつのことかは、はっきりとしていませんが「久しく箱の底にあり埃だらけ」だったものを定中が整えたものでしょう。装丁が変わったことで古書としての価値は低くなったと思われますが、反面定中の愛着が感ぜられる物となり、我が家にこれからも伝えて行くものと云えるでしょう。
画像

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
定中遺物 『急就章』 について 我が家の歴史 /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる