明治から昭和にかけて蜻蛉子と號する江戸七宝焼きの名工がいます。 彼の手になる七宝焼きは『透明七宝』と称され、国内外に高く評価されたと伝えられています。 このブログに彼をとりあげるのは、平塚茂兵衛の子金之助(三代目茂兵衛)の妻であるまさ正が、西村定中の妻都賀の娘ということによります。政は、都賀と先夫祐乗坊玄斎との間にうまれ、義父西村定中に養育され、平塚金之助に嫁ぎました。 私の祖母とは、異父姉妹になります。 この『平塚茂兵衛傳』は、亡父が生前書き残したものです。 若干手を入れましたが、内容はほぼそのまま記載いたしました。 明治の初期に加納夏雄、尾崎一美、市川一則、高橋一久、伊藤一延、佐藤一秀、長谷川一清、船田一琴と名家輩出して、百花繚乱たる我国伝統工藝界の中に平戸七宝の名人と謳われた弐代平塚茂兵衛敬之がいた。 彼は、平戸七宝の制作技術抜群で研究心が強く、ある時創作の構想を練りながら餅を焼いていたが、夢中になり、餅網が真っ赤に焼けて自然に瑯着した。彼はこれを見て一つの着想を得た。 従来の七宝工藝品は、実に華麗ながら衝撃に弱く、すぐに文様が剥離する欠点があった。彼は昼夜研鑽を重ね、その欠点を改良する法を思いついた。それは、金銀の極めて細い針金状の線を、彼独自の秘法によって文様上に瑯付けし、その枠内に特殊な薬品と秘伝なる陶土を幾重にも上塗りして、ある温度によって焼く製法であった。彼の制作になる七宝は、堅牢優美で極彩に色取られ、精緻な文様図柄の縁に細い金銀の線がキラキラと輝いた。そして、かなりの衝撃を加えても剥離損傷することなく、世人に大いに賞美されたという。 また、彼は古代エジプトのピラミットの王侯の棺より出土された「トンム玉」を見てその美しさに打たれた。その製法を日夜研究し、遂に古代エジプトの秘法たる「トンム玉」の模造に成功し、これを「トンボ玉」と名付けた。 「トンボ玉」は、その名のごとくトンボの目玉状の玉で、特殊な陶土によって焼かれ、渋さの中に七彩の光を放った。人々は好んで煙草入れの根付けや婦人の緒締め、簪などの装身具に用いた。 東都浅草橋の美術商大関貞次郎を経て市販された「トンボ玉」は、絶大な人気を博し飛ぶように売れたという。 世人は、彼を称して「緒締めや茂兵衛」と云って賞賛したと言われている。 茂兵衛は、平戸七宝の名人であったが、単なる工藝家にあらず、非凡な見識と商才に優れた者であった。 明治十年参議兼内務卿にして、飛ぶ鳥を落とすがごとく権勢のあった大久保利通が会長で、政府主催の内国勧業博覧会が開催された。彼の七宝も出品され、審査の結果「絶品」として当時最高作品賞たる竜紋褒章の栄を受けた。また、明治二十年、米国シカゴ市で開催された万国博覧会にも彼の力作が出品され、数多の海外第一級の作品とその優劣を競った。彼の七宝焼は、識者の絶賛を浴びて堂々金賞の栄を勝ち取って、全世界の美術界に日本平戸七宝の名が喧伝された。名人平塚茂兵衛の名は、不朽に留め日本工藝美術界のため大いに万丈の気を吐いた。その他、内外数多の博覧会にも殆ど最高賞を得て賞状感状の数は、山をなしたと伝えられている。彼の優作の数点は、皇室御物として宮内省にお買い上げの光栄に浴し、その内の一点が長く上野国立博物館に展示されていた。 彼の作品の多くは、富豪の蔵品や海外美術愛好家の手に渡り、ほとんど巷間見られるものを知らない。 彼は、東都向島押上に三千坪の豪壮な邸宅を構え、常時40〜50人の門下生を養成し、外出には当時流行の人力車を用い頗る権勢があった。現在の東武電車押上駅付近(東京スカイツリー)が、彼の旧宅跡である。 七宝の名家として、名人弐代平塚茂兵衛敬之の名は、後世伊藤櫟堂『墨東奇人傳』にも載せられたが、明治三十三年十月に没した。六十五歳であった。 彼の祖は、美濃垂井一万二千石を領した平塚因幡守為廣である。 関ヶ原西軍石田三成にくみし、越前敦賀六万石を領した盲目の知将大谷刑部少輔吉隆に属し、前備え360人を率い戦った。豪勇を以て天下に隠れもなき武名を残している。為廣は、「名のために捨つる命は惜しからじ、ついにとまらぬ浮世と思えば」と吉隆にあて辞世の歌一首を彼自身が打ち取った敵方の首に添えて託し、関ヶ原松尾山に死闘奮戦し壮烈な討ち死にを遂げた。この様子は、戦国史談として有名な『常山記談』にも彼の活躍が記されている。 遺族は、後に郡上郡飛騨高山に隠れ住んで土着し、後十代を経て、初代平塚茂兵衛の折に江戸に出て、平塚家再興のため士族を脱し、工藝家足らんと平戸七宝を習得し、家業としたと伝えられている。 茂兵衛敬之の長子金之助は、参代目平塚茂兵衛を襲名し、その技術は亡父の名を辱しめぬ名人であった。 金之助の妻正は、士族西村都賀の長女で美人の誉れ高く、気丈で賢き夫人であった。 夫参代目茂兵衛が大正期に没すると、長子茂を初め八子に余る大勢の遺児を訓育した。 茂は、幼に母を助け辛酸を味わい家運の衰徴を嘆き、父の遺弟子山口某につきて平塚七宝の技を磨き家業再興を志した。しかし時流に恵まれず技藝の道を断念して、中島飛行機会社社長中島知久平の知遇を得て、家技として伝わる金銀細線の瑯付け技術が、航空機の特殊部品に利用されることに着目し、その製作を思い立ち 平塚製作所を起こし奮闘した。これが成功の因をなし、その後の太平洋戦争中は、日本電気株式会社に協力して大垣精機株式会社と改称し、平塚氏の祖先の地岐阜大垣に工場を設け、社員実に三百余名を数えるまでに成長した。また、茂は大磯に本邸を構え、傍ら七宝技術を後世に残さんとしたが成らず、昭和二十年終戦に鑑み事業を縮小し、東京芝白金台町に移譲してミナト電気と改称した。事業は、長子一男に継がせ、自らは余生を港区在住中小電気関係製造会社四百社の長老として又、司法省保護司として社会公共に老骨を捧げている。 茂は、祖父茂兵衛敬之の遺言を慕い、英風を敬愛して、身を持するに堅固で、諸人を授け義気あり。豪気闊達で理財の造に長じ、老妻と共に悠々自適の生活を送っている。けだし豪勇平塚因幡守為廣の末流として七宝平塚茂兵衛以来の平塚氏にとって近世に於ける中興の人と云うべきであろう。 父は、生前茂氏と親交を持ち、上記の『平塚家史』を聞き取りました。 一職人の業績は忘れ去れ作品だけが世に残って行きます。 書き残すことで子孫はじめ関係各位の記憶となることを願っております。 平塚茂兵衛作 「龍鳳凰菊桐文七宝銀香炉」 |
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