柔術家 大竹森吉 幕末から明治中期かけて一派をなしていた柔術流派に戸塚派楊心流(楊心古流)がある。 旧沼津藩水野出羽守家の柔術指南役戸塚彦右衛門英澄が唱えた流派で、各藩旗本麾下の士が多く学んでいた。 楊心流は、三浦楊心を開祖とした流派で、古流柔術各派が乱立していた幕末期に一大勢力を誇っていたという。 その中の高弟の一人に大竹森吉がいる。 大竹森吉は、沼津藩の上士大竹儀八の長男として嘉永5年(1852年)に生まれた。実姉に都賀がいる。都賀は、始め子爵祐乗坊玄斎に嫁ぎ三子をもうけていたが故あって離別し、のちに弟森吉と同門であった西村定中に嫁ぎ一女豊をもうけている。(豊が私の祖母になる) 我が家にも森吉について逸話は、数多く残されている。しかし、彼自身についての基本資料が少なく、彼の人生を追うことはできずにいた。特に、森吉の幼少時や少年時の逸話は、一切残されていない。 しかし、僅かではあるが、いろいろな文献の中から彼の姿を見いだすことができる。 明治初期は、武術家として生計を立てることは困難な時代であり、著名な武術家が見世物的な興行により糊口を得ていたという。かく云う森吉もその一人であり、浅草奥山で飛び入り勝手の柔術興行を友人の柔術家起倒流奥田松五郎や天神真楊流の市川大八らと開催したと伝えられている。この時の逸話として、力士と柔術家の乱闘事件が伝わっているが、これには講道館の西郷四郎も加わっていたという。 明治16年、警視庁柔術世話掛りが創設され、多くの柔術家が柔術世話掛として警視庁や各警察署に奉職し巡査らの指導に当った。柔術家が再び必要な時代が訪れたのである。しかし、嘉納治五郎が創始した講道館柔道が台頭し、古流柔術と覇権を争うことになる。当時のことは、嘉納治五郎が半生を語った『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』に、第五代警視総監三浦通庸が主催した明治18年からの「警視庁武術大会」についての記載があり、「古流柔術対講道館柔道」の試合の様子が書き残されている。当時、柔術界を代表する一派であった戸塚彦介が率いる戸塚派楊心流は、古流柔術を代表する立場であった。師範格であった森吉は、義兄西村定中とともに名を残している。西村の相手は、講道館の佐藤法賢だったと伝わっているが、残念ながら大竹の相手は言い残されていない。 この大会は、講道館側の勝利となり、それまでの柔術界を一変させた。 この勝利によって「講道館柔道」は警視庁の武術として採用され、古式柔術は衰退の一途を辿ることになる。 明治後期以降、森吉は安田財閥安田善之助の後援を受け日本橋浜町河岸に楊心流柔術と笹沼流(のちに大竹流)水術を指南する道場を構える。文豪芥川龍之介の随筆『追憶』に、「僕は中学で柔術を習った。それからまた浜町河岸の大竹という道場へもやはり寒稽古などに通ったものである。中学で習った柔術は何流だったか覚えていない。が、大竹の柔術は確か天真揚心流だった。」と書いている。 芥川のいう「天真楊心流」という流派の名は、他ではいまだ見つけられずにいる。 戸塚派楊心流は、彦介英俊のあとを彦九郎英美が継ぎ、「戸塚派楊心流」の名を彦介の遺言により「楊心流」に戻している。英美は、明治41年没し、森吉が楊心流を継承したとの言い伝えも残っているのだが、英美の没した年を考慮すると彦介の死後、森吉が独立して「天真揚心流」という流派を称したとも考えられる。 森吉については、浅草での力士との乱闘事件や彼の高弟の亀崎忠一の素行の悪さから、彼自身も無頼漢のように描かれることが多い。子孫としての弁護にはなるが、安田財閥の安田善之助の後援を受け、日本橋浜町に柔術と水術の道場を構え、門人三千名を超えたと伝えられている人物が、唯の無頼漢であるはずがない。 彼の清濁併せ呑む性格と多少山師的な言動が、世間に誤って言い伝えられたのであろう。 また、女性関係も華やかであったという。 晩年、見事に禿げ上がった頭に立派な髭を蓄え壮士然とした風貌であった。甥にあたる高野栄蔵の元にも、よく顔を出していたそうである。高野は、姉都賀と前夫玄斎とのあいだに生まれた次男で、高野家の養子となった人物である。日本橋住吉町に「住吉ビアホール」を開き地元の名士に数えられていた。 また、森吉は義兄西村の死後、一人残された豊の後見人となり、豊を本郷の茶商「三吉園」杉浦善助の次男杉浦忠兵衛に嫁がせている。ちなみに、豊と忠兵衛は当時としては珍しい恋愛結婚であったという。この縁には、やはり姉都賀と前夫玄斎とのあいだに生まれた長女まさ正が関係している。正の嫁ぎ先は、江戸七宝焼きの名工といわれた平塚茂兵衛の子金之助であり、金之助の姉糸が杉浦善助の妻であった。この様に大竹家と杉浦家、平塚家は強い縁に結ばれた家柄であった。 森吉のあと、大竹家を正の子である誠之助が継いでおり、義兄定中のあと、西村家を同じ正の子で誠之助の実兄敬が継いでいる。残念ながら敬は早世したため西村家は敬で断絶となった。 森吉が柔術界を引退したのは大正の末期である。彼の引退披露は、後援者安田財閥が主催し、隅田川の畔にある安田庭園で行われた。政財界、武道関係者等朝野の名士一万余人が出席し、頗る盛儀であったと云う。 昭和五年、森吉は七十八才で隠棲の地千葉県猪之鼻台(現在の県庁近く)市場町の浄土宗胤重寺の前方一千数百坪の敷地内の自邸で没した。 柔術家であり大竹流泳術の開祖大竹森吉の墓は、千葉市内日蓮宗本敬寺に現存する。 |
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はじめまして。 |
しえみ 2014/08/22 23:30 |
しえみ様へ |
西村定継 2014/08/23 08:47 |
西村さま |
しえみ 2014/08/25 08:23 |
返信ありがとうございます。 |
西村定継 2014/08/25 09:05 |
しえみ 様 |
西村定継 2014/08/25 09:54 |
しえみ 様 |
西村定継 2014/08/25 09:54 |
こんばんは。 |
しえみ 2014/08/27 00:48 |
しえみ様 コメントありがとうございます。 |
西村定継 2014/08/27 08:12 |
西村様、おはようございます。 |
しえみ 2014/08/28 09:23 |
西村定継様 |
カッパ 2016/07/29 17:00 |
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