請西藩林家の槍術指南役に伊能一雲・伊能矢柄親子の名前が記録に残されています。 伊能一雲(惣右衛門)由虎(1777〜1854)は、宝蔵院槍術伊能派を称えた槍術家で、牛込筑土五軒町に道場を開き、旗本や諸家の家臣を多く門弟にしていました。 初代貝淵藩藩主林忠英に槍術指南として仕えました。 清水礫洲著の『ありやなしや』では、「牛込築土明神下伊能惣右衛門(後一雲斎。始永見氏の家来、後浪人、後林肥後守家来となれり)宝蔵院流槍術、愛洲影流剣術を教ゆ。はやく槍の相面の試合をなせり。御旗本に数百人の門弟ありき。一雲近年七十餘にて死す。」 と記載されています。門弟には、水戸藩の藤田東湖、幕臣川路聖謨らがいます。 私が伊能一雲・矢柄親子に注目したのは、先祖の一人西村造酒右衛門定賀が一雲の高弟であり、我が家に「宝蔵院流十文字槍」の槍術免許が残されていたことによります。 西村造酒右衛門定賀は、寛政から文政年間(1789〜1820年)に、一雲の下で「宝蔵院流十文字槍」を学び、印 可を受けています。造酒右衛門定賀は、請西藩林家の用人大野勘平胤壽の三男音十郎正胤として生を受けました。実兄の谷十郎胤長が丹南藩高木家家老西村定里の養子となっていましたが、早世したため弟である音十郎が、西村家に養子として入り、西村家を継承致しました。 伊能家とのつながりですが、音十郎の父である勘平の妻が「伊能惣右衛門女」とあり、音十郎の母と見られます。一雲斎にとって音十郎は、孫にあたることになります。 伊能家の血筋が、大野家および西村家に流れていることが伊能家を調べる切掛けとなりました。 伊能一雲斎由虎の墓は、文京区の願行寺に先代・先々代の墓とともに現存しています。 一雲斎の祖父由常の墓の刻文には、下総國香取郡に由来のある一族と刻まれていました。また、新人物往来社が発行した『三百藩家臣人名事典』の請西藩の記述の中に伊能一雲・矢柄親子について記されていました。そこには、伊能氏は、緒方氏の出で、祖伊能景能が下総國大須賀荘の地頭として同地に住し、伊能氏と称したことに始まるとされています。下って鎌倉時代に千葉氏の勢力が拡大し、大須賀荘も千葉氏の勢力に飲み込まれ、伊能氏もその傘下に組み込まれてしまいました。さらに、下総國に関係する伊能氏を調査したところ千葉介常胤の五男胤通から発した国分氏の家臣で、矢作城の城将として伊能景信の名前を見出しました。 また、千葉一族を紹介した「千葉氏顕彰会のブログ」では、伊能氏を大須賀一族としています。大須賀氏は、千葉常胤の四男胤信に発する一族で、下総に本拠を置き勢力を張りました。戦国時代、伊能朝辰が伊能の地に伊能城を築き本拠としました。朝辰の後、その三代景信(信月)は、国分氏の後見として国分氏の本拠である矢作城に拠っていました。戦国末期のこの時代、幾度となく安房里見氏の攻撃を受け、ついに永禄8年(1568年)里見氏の将正木正憲により、攻め滅ぼされます。景信は、子の景久と孫の景常を幼主武若丸とともに脱出させ、自らは壮絶なる討死を遂げます。その後も、国分氏の重臣として主家を助けていましたが、景常の代に国分氏に請い香取郡佐原郷に帰農します。 江戸時代には、佐原郷名主の豪農として名を残しています。この家系より、測量家として「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬が出ています。 伊能家と大野家の関わりを調査する中で、両家とも千葉に本拠を構えていたことが分かってまいりました。大野家の初代と云われている千葉治武大夫経胤(1469〜1542)は、室町時代中期に上総国市原の畑木郷に土着して大野を称します。その後については、江戸時代中期に旗本林伊勢守忠勝に大野勘右衛門李昌が仕えるまでの家伝は残されていませんが、千葉氏の凋落により千葉氏諸流の多くが上総・下総國の各地に土着しました。大野家も、その中の一家であったと推察されます。伊能一雲斎の家も大野家も武士として家を存続させた家系であったのではないのでしょうか。 江戸時代中期、伊能由常は宝蔵院流槍術伊能派を称えた槍術家として武道史に名を残します。由常、由𦾔、由虎(一雲斎)、矢柄と相伝され、由虎より貝淵藩(後に請西藩)林家の槍術指南役として藩に仕えます。同様に、大野家も林家の重臣として勘左衛門李昌、嘉兵衛胤宣、勘平胤壽、喜十郎胤保、真平有胤、禧十郎胤程、ト三郎保胤、友彌禄胤と続き幕末維新を迎えております。 幕末期の林家の動向は中村彰彦氏の『脱藩大名の戊辰戦争 上総請西藩主・林忠崇の生涯』中公新書に詳しく紹介されていますが、伊能矢柄と大野禧十郎及び友彌は請西藩藩主林忠崇に従い、共に小田原から白河までの戊辰戦争を戦っております。 大野家についての記述は、丹南藩家老西村定中の『備忘録』に記載されていたもので、定中の祖父定賀及び父定保は、ともに大野家より養子として西村家を継いだ人物です。そのため、大野家の出自が比較的詳しく書き残されました。 この様に両家は、それぞれの時代の中で多少の関わりが見受けられます。明治時代になり、それぞれ立場の変化がみえますが、家史の中で定中の母円智院が明治22年に亡くなった際の葬儀参列者の中に、伊能矢柄、大野友彌、大野喜六(禧十郎遺児)男三兄弟の名前を確認することが出来ました。 尚、伊能家については、願行寺の方よりご子孫の方もご健在でいらっしゃいるとお聞きしております。 このブログを御覧になることがありましたら、是非「伊能家の歴史」についてご教授いただければと思っています。 |
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一雲の子孫です。 |
一雲の子孫 2015/04/18 11:42 |
一雲のご子孫様、コメントありがとうございます。 |
西村定継 2015/05/01 08:48 |
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