我が家の歴史 

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zoom RSS 大野家について

<<   作成日時 : 2012/10/31 00:40   >>

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「我が家の歴史」を調べる上で、重要な一族があります。
その家が大野家です。

 大野家は、千葉氏の流れを汲む一族で、大野家初代勘左衛門李昌(号休意)が旗本林信濃守忠勝、四代土佐守忠隆、五代備前守忠和の三代に仕え、大野家二代喜六胤宣(嘉兵衛、平右衛門)、そして三代喜十郎(勘平)胤壽と繋がります。

 大名林家は文政8年(1825年)4月に林忠英が若年寄に昇進、3000石の加増を受け、貝淵藩を立藩して諸侯に列したことに始まり、 嘉永3年(1850年)11月に2代林忠旭が、同郡請西村に陣屋を移し、以降請西藩と呼ばれます。

 林家の祖 林光政は「永享の乱」に敗れて流浪していた徳川家の遠祖世良田有親と親氏の親子を匿った際、貧しくて十分なもてなしが出来ず、冬の寒い中猟に出てようやく兎を射止め、吸い物にして供じました。後年、親氏が三河の国を支配した際、光政を招致し侍大将にして召し抱えました。徳川家の元旦の行事「献兎賜盃」はこの故事に因み、林家当主は元旦元日卯の時(午前六時)に江戸城白書院で、将軍から最初に盃と兎の吸い物を賜ることから「一文字大名」言われています。

 この故事が著すように林家は徳川譜代の家柄であり、特に将軍家への恩顧の強い家であったといえます。幕末期の藩主昌之助忠崇の行動に大きな影響を与えました。

 この貝淵藩/請西藩の資料に大野一族の名前を見出すことができます。

 まず、林忠英の用人として大野喜十郎(勘平)胤壽の名を見ることができます。勘平は、宝暦2年4月11日(1752年)に生まれで、藩の重職として重きをなしました。また、同藩槍術指南役伊能惣右衛門由虎(一雲)の娘を娶っています。勘平の子供たちの多くは他家に養子として迎え入れられ家督を相続しています。

 伊能惣右衛門由虎は、宝蔵院流槍術伊能派と称し、安永6年の生まれ、江戸牛込明神下に宝蔵院流槍術の道場を構え、上総貝淵藩の槍術指南となり,江戸藩邸で藩主林忠英につかえました。門弟に藤田東湖(とうこ),川路聖謨(かわじとしあきら)、西村造酒右衛門(音十郎)定賀らがいます。(武芸流派大事典:綿谷雪著)
 また神谷潤亭にならった一節切(ひとよぎり)尺八(小竹(こたけ))の名手で,その普及につとめています。

 四代喜十郎胤保は、三代勘平と妻伊能氏の間に生まれ家督を継ぎました。

 弟の谷十郎胤長が、丹南藩高木家家老西村定里の養子となり、西村定美と称しましたが早世した為、実弟の音十郎正胤が養子となり西村造酒右衛門定賀として西村家を襲家いたしました。
 造酒右衛門定賀は、宝蔵院流槍術を伊能一雲に習い、享和2年(1802年)宝蔵院流槍術目録を受けるなど武術に優れた武士として伝えられています。

 五代真平有胤は、請西藩士平石清右衛門の次子で喜十郎胤保の養子となった人です。
天保14年(1843年)6月に、天保の改革の一環として行われた印旛沼堀割の手伝普請を命じられた際、真平は広部良平らと普請役を勤めています。

 六代は、真平有胤の長男禧十郎胤程が襲家しましたが、品行不正による責めを受け蟄居となり真平有胤の次男ト三郎安胤が七代を継ぎました。しかし、安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震により倒壊した屋敷の下敷きとなる重傷を負い、急遽末弟(四男)の友彌禄胤を養子とし大野家八代を襲家させました。

 西村家との関係をひも解くと西村家六代定里の跡目として大野音十郎正胤が西村造酒右衛門定賀となり家督を相続しましたが、定賀の跡継ぎの音十郎定論が早世した為、急遽大野家出身の井出直十郎の子駒平を養子に迎え、西村駒平定保として西村家を継がせました。
 定保は、文化10年(1813年)の生まれ、、大野喜十郎(勘平)胤壽の孫で、定賀の甥にあたります。

 大野家と西村家は、二代に渡り血縁を結び、ともに家老職として藩塀を支える家で武門の家柄とし重きをなす、深き縁により結びついた同族と言えます。

 また大野一族からは、他家に養子に行った人が多々あり、武門の秀でた一族であることを周囲に認められていたものと思われます。
 大野喜六胤澄  菅沼家家士佐藤仲右衛門為養子
 大野嘉七親胤  林家木村氏に養子 木村半兵衛 子に木村喜三郎
 大野直十郎    井出氏に養子 子に駒平 丹南藩西村定賀為養子
 大野谷十郎    丹南藩士佐野七郎衛門養子 佐野谷十郎
 大野平八郎    筑後久留米藩士柴田半左衛門養子 柴田平八郎

 大野家の幕末は、幕府遊撃隊の人見勝太郎と伊庭八郎が真武根陣屋に藩主林忠崇を訪れたことにより始まったといえます。忠崇は、嘉永元年(1848年)7月28日、請西藩主忠旭の五男として生まれ、嘉永7年(1854年)に忠旭が隠居すると、兄忠貞はすでに早世しており、自らも幼少であったため、叔父忠交が家督を相続します。慶応3年(1867年)の伏見奉行として赴任中の忠交の急死により、幼少であった忠交の子忠弘に代わって家督を相続しました。忠崇は文武共に秀でた人物で、幕閣の覚えめでたく将来閣老になる器と評されていました。
 慶応3年(1867年)、大政奉還の報を受けた藩は洋式軍の調練を行なうなど有事に備え、戊辰戦争勃発にともなって藩論は恭順派と抗戦派に分かれて伯仲しました。同年閏4月に撤兵隊、伊庭八郎や人見勝太郎率いる遊撃隊など、旧幕府軍が来訪して助力を要請するや、自ら脱藩して藩士70名とともに遊撃隊に参加します。

 大野家では、友彌禄胤、禧十郎胤程(許され別家を立てていた)と共に遊撃隊に林家家臣として参加しています。この間の動向は、中村彰彦氏の『遊撃隊始末』(文藝春秋)や『脱藩大名の戊辰戦争 上総請西藩主・林忠崇の生涯』(中公新書、2000年)に見て取れます。
 禧十郎胤程は、遊撃隊として連戦中磐城國磐前郡新田峠の戦闘において大野静(この人の出自は不明)と共に戦死したことが記録されています。

 忠崇は、田安亀之助(後の徳川家達)が閏4月29日徳川家の存続が決定し、同年5月24日付で僅かながら、駿府藩主として70万石を与えられた旨との情報が伝えられたことにより、仙台で恭順、自首し戦いを収束させます。この時点で残っていた藩士は、大野友彌、伊能矢柄、長谷川源右衛門、中村三十郎、檜山省吾などわずか藩士19人でした。

 戦死した大野禧十郎胤程に、長女と喜六、三千三、男三という遺児がおり叔父にあたる友彌が三人を引き取り縁戚に当たる西村定中が末弟の男三を引き取り養育いたしました。この時、男三は文久元年十月生まれの七歳でした。
 
 後に、喜六たちは旧主忠弘が華族に叙せられたことにより、叔父友彌らと共に士族としての複籍願いを内務大臣に請願し、明治32年3月に認められるまでに30年の年月がかかっています。

 

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
昨夜は思わぬ出会いに感激しております。
呑みの席に御一緒させていただきまして有難うございました。
昨夜帰宅後より、再び「脱藩大名の戊辰戦争」を読み始めました。
史跡巡りでは まだまだ行きたいところが沢山あり困ってしまうぐらいです(笑)
私は歴史では幕末のほんの一部だけで、てんやわんやしております><
時間をかけて じっくりブログを拝見させていただきたいと思っております。
またお邪魔いたします^^
さくぞう(多摩のおなご)
2015/01/31 13:39
さくぞう(多摩のおなご)さま
ブログをご覧いただき有難うございます。「脱藩大名の戊辰戦争」を再読されたようですね。大野家の歴史を知って読んでいただくと、すこし感じが違うと思います。
西村定継
2015/02/04 17:14

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