杉浦大輔画 「本郷もかねやすまでは江戸の内」の江戸川柳で名高い雑貨商「かねやす」のある本郷の大通り、湯島よりの一角、本郷一丁目にあった葉茶商「三吉園」杉浦善助は、江戸期より数代続いた商家である。旧幕の頃は、元加賀藩前田侯御用の商人で町人ながら苗字帯刀御免の格式だった。関東大震災まで、本店は三戸前土蔵造りのドッシリとした老舗構え、本店だけで番頭・手代・丁稚・小僧八十数名。家族を含むと百人余の大世帯で、小石川春日町・日本橋薬研堀の他、旧市内に三十七店の支店を擁し、茶商界の重鎮・斯界の雄として、得意先も帝国ホテル、井上眼科、順天堂病院など一流の所が多かった。前記かねやす・藤むらの羊羹で有名な藤村(菓子商)、三吉園(茶)は本郷を代表する老舗で親族同様の交際があったと伝わっている。 主人杉浦善助は、性豪腹で商略奇才に富んだ江戸商人で宇治・静岡・狭山産の銘茶を、彼独自な製法で巧みに混合し「三吉園の名茶葉」として売り出し、大いに産をなした。「宇治の香り、静岡の色、味の狭山」の長所の結合させたものと評された。また、リプトンの紅茶の初期代理店であり、日本橋薬研掘り支店には「宮内省御用達」の看板を掲げていた。(父大輔の回想より) 今は知る人もない「三吉園」ですが、ここが我が家の出自です。代々の商家でだったと伝わっていますが詳しくはわかりません。大正12年9月に発生した関東大震災により、本郷の本店及び多くの支店が多大な被害を被り、昭和10年ごろに家業は破綻したと伝わっています。 この杉浦家の次男忠兵衛の妻は豊と云い、旧丹南藩高木家家老の堺県士族西村定中の娘です。豊は父である定中が没した後、母都賀の縁戚である押上の古刹最教寺の養女となっていました。当時、豊の異父姉正は、江戸七宝焼の名工二代目平塚茂兵衛の跡継金之助に嫁いでいました。そして金之助の姉いとは、杉浦善助に嫁ぎ、忠兵衛の母となっていました。このような縁戚でつながる忠兵衛と豊は、すでに顔見知りであったそうです。杉浦家については、忠兵衛の死後家業が破綻し、一家離散したため墓所も不明の状態です。 父の回想以外の情報はありません。 |
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