幕末の動乱期、勤王の志士として活動し、明治維新後は柔術家として市井に棲みひっそりと去った人物がいます。 彼の名は、西村定中伴久敬。 弘化3年(1848年)河内国丹南藩高木家の家老西村定保(改久富)と妻壽の長男として青山の高木家下屋敷に生まれました。幼名は継太郎。 若年より柔術・剣術などの修業を積み、特に柔術では沼津藩の柔術指南役である戸塚派楊心流戸塚彦助の指導を受けたと伝えられ、元治元年(1864年)には中免許を授けられています。残されている『戸塚派揚心流初傳』には、楊心流の系譜が記されており江上観柳武経・戸塚彦右衛門英澄・片山彌次郎國備・高木織人とあり好平の花押が記されています。この『初傳』から当初継太郎の指導は、同じ丹南藩家老の高木好平だったことがわかりました。『初傳』を授けられたのち、直接戸塚彦助の元に通ったのでしょう。彦助からは柔術のみならず算術も教えられ、「一番辛かったのは算術の修業だった」と回想しています。継太郎の人間形成に戸塚彦助が大きく係っていたと想像できる逸話の一つでしょう。 父久富は、万延元年(1860年)に没します。 定中は若干13歳で跡目を継ぎました。当時の丹南藩は井上五郎兵衛や高木好平ら先任の家老重臣たちが藩政を担っており、家督を継いだといえ定中が藩政に携わることはなかったと思われます。 幕末動乱の時代を迎えた文久3年(1863年)定中は、勤皇の志篤く少壮ながら藩を脱し変名にて国事に奔走いたします。薫陶を受けた藤本鉄石や伴林光平らが挙兵した天誅組の変や足利三代木像梟首事件に関与した野城廣助の行動が彼の心を熱くしたようです。特に義兄弟の契りを結んだ野城廣助の存在は彼を勤王の志士へと強く導いたのかもしれません。当時の様子を野城廣助が記した日記に「文久三年五月二十三日に、混乱を避けるため西村家の女人(叔母と妹二人か)が岡田喜吉宅を訪ね、身を寄せていた」との記述があり ます。また、翌日には定中母が佐野多司馬に伴われて岡田家を訪れ、長泉寺に先祖の源左衛門の墓にお参りしたとあります。(『野城廣助関連資料集』市原地方史研究・第16号谷島一馬著 平成2年発行)この「混乱を避け」という意味が定中の脱藩を指していると考えると、藩邸から家族が退去し丹南藩の領地の一部である上野国足利の岡田家に身を寄せたということでしょうか。定中不在の中、西村家の家族と親しく交わる廣助の様子は、「義兄弟」を裏付ける証跡の一つと云えそうです。 また、松尾多勢子や品川弥次郎、海江田信義らとの交友が伝えられており、京都にあって長州藩邸や薩摩藩邸にも出入りしていたと伝えられています。 残念ながら当時の志士としての活動は、詳しく書き残されていません。 明治元年5月20日、新政府は丹南藩に京都市街の警備を命じます。また、同年11月3日丹南藩の京都留守居役が井上五郎兵衛から西村継輔に交代する旨が辨事御役所に高木伊勢守を介して届けられました。この西村継輔は、西村定中と同一人物と考えています。定中は、この明治元年に藩に復籍し藩政を担う立場についたと思われ、翌明治2年藩公儀人を命じられ大参事の宣下を受けています。定中の記した『備忘録』には、「藩屏を守った」と記されており、彼の奔走によって譜代大名丹南藩高木家は、新政府に咎められることなく明治維新を迎えたと自負しています。 さて、明治の世となり明治4年7月の廃藩置県で、西村家は東京に一族で移住します。定中は、一時新政府の内務省地理局に出仕し官僚の道を歩みましたが藩閥政治と相いれず、すぐに辞職します。その後、明治10年頃東京市の職員として採用されたとの記録が残っています。また、明治17年には、師戸塚英美(戸塚派楊心流二代目)の世話で千葉監獄の看守に奉職し柔術指導をしています。明治22年警視庁に奉職し、巡査を命ぜられおもに柔術指南役として羅卒の指導に当たったと伝えられています。 この時期のことは夢枕獏氏の小説『東天の獅子』に、警視庁武術大会における講道館柔道と戸塚派楊心流を中心とした柔術各派との対戦が取り上げられています。興味のある方は、一読されることをお勧め致します。 ここで少し定中の私生活を見てみましょう。 東京に移住した時の家族は、実母の円智院(壽目)に叔母の菊、二人の妹千勢と縫(のちに乕)、そして縁戚にあたる大野男三で、隅田川の畔向島の地に居を構えました。明治21〜22年頃に大竹都賀と婚姻し、23年豊を設けています。都賀の弟は、大竹森吉と云い旧菊間藩士で戸塚派楊心流の高弟の一人でした。当時定中は既に40歳を越えた初婚で、都賀は、定中より二つ年下の38歳、既に三子を設けていた再婚でした。都賀の子たちは、旧菊間藩士の寺尾親愛の籍に入り、長男元吉は寺尾家を継ぎ、次男栄蔵は同じく旧菊間藩士の高野千太郎の養子となっています。また、長女で栄蔵の姉にあたる正は、当時江戸七宝工として名高かった平塚茂兵衛の子金之助に嫁いでいます。 さて、晩年の定中ですが、母円智院は明治26年に没し、妻都賀も明治32年に先立ってしまいます。二人の妹も亡くなっており娘豊と二人の暮らしでした。 明治37年巡査部長。翌38年9月に発生した日比谷焼打ちの暴動鎮圧のため出動しますが、負傷し療養に努めます。しかし、長年の大酒がたたり中風を発し、翌39年3月1日、一人娘の豊に看取られ波乱の生涯を閉じました。享年60。 彼の死後に残された物は、愛刀左文字の大刀と相州廣次の短刀のほか数冊の書籍と身の回りの僅かな物とだけだったといわれています。 激動の幕末期に青春を迎え、一柔術家として清貧の内に一生を終えた西村定中という人物に最後の志士の矜持と意地を見たように思われます。 |
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