現代社会論・(松原隆一郎助教授)

 

「近代」をつかさどるシステムをめぐって

アンソニー・ギデンス『近代とはいかなる時代か?』を読む

相関社会科学コースD1 阿部 勘一

 


1 《信頼》のシステムをめぐって・ 《専門家システム》

 ギデンスは,近代(Modernity)の帰結の1つに,「社会システム自体の脱埋め込み」を挙げている.この「脱埋め込みメカニズム」は,次のように説明されている.

 《象徴的通標》と《専門家システム》は,《信頼》を必然的にともない,《信頼》は根拠薄弱な帰納的知識にもとづく確信とは異なる.
 《信頼》は,リスクのある環境のなかで機能し,さまざまな度合の安心(危険にたいする防護)を得ることができる(Giddens,Anthony[1990:54=1993:73]).

 「脱埋め込みメカニズム」における《象徴的通標》と《専門家システム》は,近代において極めて重要な要素であると筆者は考えている.そこで,この両者と両者が必然的にともなっている《信頼》について議論することにしよう.
 ギデンスは,「信頼とそれに付随することがらを,ルーマンとは異なるかたちで概念化」(Giddens,Anthony[1990:34=1993:49])し,10の基本的問題に分けて議論している.その中でも,以下に示す項目は,実に興味深い.

3 信頼は,人やシステムが頼りになると信ずることではない.信頼は,そうした信仰に由来するものである.信頼とは,正確には信仰と確信とを結びつけるものであり,この働きこそが,信頼を「根拠薄弱な帰納的知識」から区別している.「根拠薄弱な帰納的知識」とは,その状況についてある程度精通していることで正当化できるような確信である.信頼は《すべて》ある意味で白紙委任なのである.
4 象徴的通標や専門家システムを信頼するという言い方は可能であるが,そうした信頼は,自分が不案内な原理の正しさを信ずることに基づくものであり,相手の「道徳的高潔さ」(誠意)を信ずることに基づくものではない.もちろん人間にたいする信頼は,つねにある程度システムにたいする信仰と有意関連しているが,その人達の実際にとる行動それ自体よりも,むしろその人たちの《本来とる》行動と関係しているのである(Giddens,Anthony[1990:33-34=1993:50],下線部筆者).

 現代社会では,実にさまざまなシステムが《信頼》というシステムによって動いている.それらは,ギデンスが指摘した《象徴的通標》と《専門家システム》を見るだけでも実感することが可能である.例えば,《専門家システム》について言えば,情報社会論においてしばしば見られる「電脳ユートピア論」は,このメカニズムを反映していると言える.佐藤俊樹[1996:179-181]は,コンピュータを使った株式投資システムのテレビCMで,最後にこのシステムの説明を受けていた女優が「よくわからないけど,すごい!」と感動しているという例を用いて,この点を指摘している.この例の他にも,情報技術に関してこの類の言説は多いのが事実である.情報技術そのものが,専門家にとっては「よくわかる」ものであるかもしれないが,専門家に対して「白紙委任」している人々にとってみれば,「よくわからないけど,すごい!」と言わざるを得ない.もちろん,技術を開発した人間も,自身が考えた技術が「よくわからないけど,すごい!」という使われ方(=商品化)をされる場合もあり得る.このような互いに「白紙委任」しあっているシステムが,共存しているのである.この意味で,「情報技術→情報社会の到来」というリニアな関係ではないと言える.ギデンスは,近代の帰結の1つに,彼の理論のキーワードである「再帰性(reflexivity)」を挙げているが,情報社会の到来というのも「再帰性」という「意図せざる帰結」なのかもしれない.この意味で,思想なき「技術決定論的言説」が,いわゆる「電脳ユートピア論」としての情報社会論を流通させていたと言うことができる(1)
 また,「白紙委任」的に言説が流通していく例としては,柳田国男が明治期の官僚語としての漢語の一般大衆への広まりもまた挙げられる.

 書物と文字文化の展開は,専門家,例えば書生と,そのエスタブリッシュされた形態としての官僚の成立と深く関わっている.柳田は「日清日露の戦役があってから(…)多くの生硬な公文用語までが遍ねく常民の口に上るようになった.」(田中,前掲書:129より)(2)とも述べ,「娘の子までが関係だの例外だの全然だの反対だのということを平気でいう(同)ようになった,つまり内実は問わないままに新語の口真似だけする機運が広がった世相を嘆いている.このように,専門家への「白紙委任」は確かに近代制度の根幹と関わっており,日本の場合,幕末以降受け継がれてきた現象なのかもしれない(祐成保志[1997]).

 いずれにせよ,この種の言説の流通は,近代において《専門家システム》というものが確立されており,各専門家に対する「白紙委任」としての《信頼》というシステムを土台としていると言える.ただ,ここで問題なのは,産業の発達と社会の複雑化につれて,《専門家システム》が分化し,各専門分野が《信頼》というシステムの名の下に,排他的になっている点である.
 このようにして形成された《専門家システム》は,現代社会においては限界に達している.《専門家システム》に裏打ちされていた《信頼》というシステムが音を立てて崩れているのである.事実,それを象徴するような出来事が,例えば近年の日本を例にとってみても噴出している(3).この限界の一番の原因は,専門分野が,お互いに「白紙委任」しているという状況にあると言えるだろう.つまり,(よく言われることだが)様々な組織や社会システムが階層的(hierarchy)になっているという状況にあると言えるのである.
 現代では,情報(=知識)が増すほど,不確実性が上昇し,より専門分化が進んでいくことになる.それを,分化する方向ではなく,ある種ネットワーク的に結ぼうという思想が,イギリスのマイケル・ギボンズ等(Gibbons,Michael,et al[1994=1997])によって,「モード論」という形で提唱されている.本稿では詳細は避けるが,彼らの言葉を借りると,これまでの階層的な知識体系(これをモード1と呼ぶ)を組み替えて,互いに「白紙委任」し合わず,むしろ互いの情報,知識を交換しあう体系(これをモード2と呼ぶ)にする必要がある.
 いずれにせよ,情報化社会が進むほど,我々はむしろ意思決定に際して,不確実な状況におかれるというある種のパラドックスが生じていることは確かである.ハイエクが言うように,意思決定に際しては,自己の周辺に存在している一部の情報しか実際には実行力を持たない.我々は,必然的に「白紙委任」せざるを得ない状況にさらされる.そして,この状況を逆手に取るのが,資本の言説としての(シニフィエ・ゼロの)「広告」であると言える.もちろん前述した明治期のように,「政治的」なファクターによって,シニフィエ・ゼロの言説を流通させられる(知らず知らずのうちにしている)こともあり得る.このような状況において,「白紙委任」という《専門家システム》をどのように脱構築すべきなのかというのは,まさに(どん詰まりに近代としての)現代社会の課題ではないだろうか.

2 《信頼》のシステムをめぐって・ 《象徴的通標》

 前述したように,ギデンスはまた近代の脱埋め込みメカニズムの1つとして,《象徴的通標》を挙げている.《象徴的通標》の典型的な例は,貨幣である.「貨幣は,人々が貨幣と認識しているからこそ貨幣である」という貨幣の特徴からも明らかなように,貨幣もまた,《信頼》というシステムに裏打ちされたシステムである.しかし,現代社会では,貨幣は様々な形態を持つ.現金はもちろん,小切手,キャッシュカード,そしてクレジットカードと,貨幣は姿形を変えている.最近では,電子マネーの実験などからも分かるように,あらたな形式を貨幣は持とうとしている.このような貨幣の変貌の流れを見ていると,我々の日常生活における貨幣というものがどんどん抽象化,形式化されているように感じられる.例えば「現金」という実感的なものから,カードや預金などのような数字の増減だけで表現されてしまうようなものへの流れと言ったらよいだろうか.
 ジラールの<欲望の三角形>をもとにすると,欲望は「主体−客体の二項関係」ではなく,「主体−媒介−客体の三項関係」(西垣通[1991→1997:228])であると言える.この場合の「媒介」の典型的例は貨幣である.欲望が,本来「肉感的な(sensual)」な存在であると仮定するならば,貨幣は,主体が持つそのような欲望を吸収し客体へ希求する存在であると言える.人間が,「ものごとを記号化・形式化する烈しい希求」(西垣通[ibid:203])を持っているとするならば,人間は欲望を吸収した貨幣そのものに対して,烈しい希求をする可能性が出てくると言える.
 前述したように,現代の貨幣は,より形式的な《象徴的通標》である.すると,貨幣そのものへの希求は,貨幣の示す「数字」に対する希求となって現れることがある.例えば,株式市場における数字の上下は,じつは貨幣の価値の上下であるにも関わらず,本来内在していたであろう「肉感的な」側面の欲望ではなく,むしろ数字としての「富のゲーム」を表現していると言えないだろうか.貨幣が数字という表象という側ハを強めるほど,我々は貨幣の本来のシステムを離れた「富のゲーム」を営むことになっていく.
 貨幣に関する形式的な「富のゲーム」が破綻したとき,人ははじめて貨幣が「肉感的な」欲望に裏打ちされていたことを知る.バブル経済の崩壊は,このことを実感させたはずである.また,数字という(操作しやすいという意味で)「デジタル」な形式で表象された貨幣は,その操作を誤ったりして行き詰まると,とてつもなく大きなダメージを社会というシステムに与えてしまう.最近相次いでいる銀行や証券会社の倒産劇は,この点を物語っている.銀行や証券会社は,貨幣の取扱に関してはいわば「専門家」であったはずである.我々は,これらの専門家達に「白紙委任」という《信頼》をおいていたし,本来,これらの業種は「白紙委任」するかどうかは別として,《信頼》というシステムの上に成り立っていたはずである.もちろん貨幣も.しかし,ある銀行や証券会社は,近代における「白紙委任をともなう《信頼》というシステム」の上にあぐらをかいて,結局,まさに「意図せざる帰結」として,破綻を迎えてしまったと言える.
 ギデンスは,貨幣のシステムの中でも「支払機能」の重要性を指摘している(Giddens,Anthony[1990:22-27=1993:37-42]).支払機能というのは,貨幣が国家が管理する通貨であるということを示唆している.これは,商品から国家への信頼に移行とも考えられる.しかし,現在の日本を見ていると,国家が貨幣に関するシステムを本当に管理してきたかと考えると難しいものがある.実際,民間の金融業者の行動が,国家の管理できる範囲を超えてしまっているとも考えられる.しかし,民間の金融業者の「やりたい放題」は,国家がある程度抑制できるはずである.日本という国家は,この「やりたい放題」を野放しにするということをしてきたのではないだろうか.
 いずれにせよ,貨幣というシステムもまた,《信頼》というシステムに裏打ちされており,このシステムを逆手に取る専門家達の欲望と,貨幣の形式化という方向性は,まさに貨幣に関する「デジタルなゲーム」を加速させることになる.そして,そのゲームが破綻したとき,それは「どん詰まりの」近代の帰結なのである.

3 「再帰性」をめぐって

 最後に,ギデンスの理論のキーワードとも言える「再帰性(Reflexivity)」について,簡単に言及しておく.ギデンスは,これまでの社会学における議論において「再帰性」についての考慮が欠如していることを指摘している.以下に,この点についての指摘を引用しよう.

 社会学と社会学の研究対象−近代という時代状況のもとでの人間の行為−との関係は,むしろ「二重の解釈学」の問題として理解する必要があるからである.社会学的認識の発達は,一般の行為者のいだく観念にいわば寄生しているが,他方で,社会科学のメタ言語のなかで作り出された概念は,社会科学がもともと記述対象なり説明対象としてきた行為の世界のなかに,日常的に再参入していく.しかし,それによって,すぐに社会的世界が透けて見えるようになるわけではない.《社会学的知識は,社会生活の世界にらせん状に出入りし,社会学的知識のみならず社会生活の世界をもそうした再参入の過程に不可欠な要素として再構築していくのである》(Giddens,Anthony[1990:15-16=1993:29]).

 社会学に限ったことではないが,これまでの社会科学は,ポパーの言う「疑似科学」を脱しようと,さまざまな試みをしてきた.また,知識産業の隆盛にともなって,知識が政策に直接結び付くことが求められてきた.その結果,その都度ある種のモデルが提示されてきたのである.しかし実際には,モデルという「言説」が,社会そのものに影響を与えることが多々ある.経済学では,ケインズの「合理的期待形成」というのが典型的な例である.
 「科学」としての社会(科)学を確立しようとする試みは,このような影響という要素をそぎ落としてきた.その結果,これらの知識は,社会(現象)を説明するのではなく,むしろ社会によって消費されることで,社会そのものを創り出していく要素であったとも言える.この意味で,社会に関する知識,科学という活動そのものが,近代という社会システムの中に埋め込まれてしまっていると言える.
 これまでの社会(科)学は,社会に対して外的な枠組を規定し,一つの組織として理解する方法が多かったように思われる.これに対して,近年,社会に内包している要素を,いわば「解釈学的」に理解する方法の必要性が主張されているようである.カルチュラルスタディーズは,その典型的な例かもしれないし,法社会学者ドヴォーキンも,『法の帝国』の中で,このような問題意識に触れていると言える(4)
 ギデンスの「再帰性」という概念は,イギリスの社会学に多大なる影響を与えている.それは社会を外から見てきたであろう,ヴィクトリア朝におけるジェントルマン学者という限られた世界の人々のものであった学問的知識,方法論に対して否定的な要素を持っている.その意味で「再帰性」という概念そしてギデンスの理論は,現代イギリス特有の学問(カルチュラルスタディズ)に影響を与えていると言えるだろう.

 


 

(1) 本来,情報技術は,人々が実現したいと思っていることを実現させるというある種の「思想」のもとに開発され,実現されてきたものである.だから,情報社会論とて今日的問題では決してない.「技術決定論的言説」の問題点は,言説のみが一人歩きし,まったく新しいパラダイムの開始あるいは社会の大規模な変化という短絡的な帰結に落ちていくことである.この点をパソコンの歴史をもとに指摘しようとしたものとしては,西垣通[1997]が挙げられる.

(2) 田中克彦,1975,「言語学としての柳田学」『現代思想』Vol.3-No.4,pp124-133,青土社

(3) 薬害エイズ問題,危機管理問題など.

(4) ただ,いずれの理解方法においても,「社会」は「一つの全体」という前提を超えてはいない(内田隆三[1996:125])いうのが実際なのかもしれない.

 


【参考文献】

  1. Gibbons,Michael et al,1994,The New Production of Knowledge:The Dynamics of Science and Research in Contemporary Societies,SAGE Publication.=1997,小林信一監訳,『現代社会と知の創造』,丸善(丸善ライブラリー).
  2. Giddens,Anthony,1990,The Consequences of Modernity,Polity Press.=1993,松尾精文・小幡正敏訳,『近代とはいかなる時代か?:モダニティの帰結』,而立書房.
  3. 西垣通,1991,『デジタル・ナルシス』,岩波書店.→1997,(同時代ライブラリー).
  4. 西垣通(編著訳),1997,『思想としてのパソコン』,NTT出版.
  5. 佐藤俊樹,1996,『ノイマンの夢・近代の欲望』,講談社(講談社選書メチエ).
  6. 祐成保志,1997,『阿部勘一氏「欲望・メディア・資本主義」へのコメント』(内田ゼミ97/12/5).
  7. 内田隆三,1996,「現代社会論のために」『社会学がわかる.』,朝日新聞社.

 

これまでの演習内容一覧にもどる
レポート一覧にもどる


Ryuichiro MATSUBARA