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真顔日記

三十六歳女性の家に住みついた男のブログ

ゼロという数字の特別なかっこよさについて

日々と思考

少年はゼロという数字が好きである。

その理由を考察したい。

ひとまず自分の子供のころのエピソードで始めるが、一般化できそうだと考えている。少年期の私がどのようにゼロという数字を好み、憧れ、惑わされていたか。まずはそこから始めよう。

子供のころ、ひとつ上の兄ちゃんが結成したヒーロー戦隊に加入していた。私のほかに二人の子供がいた。主な活動は「走り回る」だった。近所に悪はいないからである。これは仕方のないことだった。兄ちゃんに連れられて公園などを走っていた。

ヒーロー戦隊では、それぞれの隊員に番号が振られる。われわれも例外ではなかった。近所の小さな公園で、私とほかの二人がブロック塀の前に立ち、正面に兄ちゃんがいた。最初に兄ちゃんは「俺が1号」と言った。これは当然だった。それから私より年下の二人が2号と3号を与えられた。最後に私の番だった。兄ちゃんは私を指差して言った。

「おまえはゼロ号!」

これが私の「ゼロが嬉しい」という記憶の原点である。正直、私は不安だった。兄ちゃんが1号なのはいいとして、自分より年下の二人に2号と3号が割り振られた。まさか自分は4号にすぎないのか。そこに与えられたゼロ号の響き。これがものすごく嬉しかった。

すこし回想の時を進める。中学生のころは「零式」という表現が流行っていた。たとえば漫画『るろうに剣心』において、斎藤一が「牙突零式」という技を使う。これは斎藤の牙突という技のうちで最強のものだ。

ゲームに目をむければ、FF7には「バハムート零式」という召喚獣がいた。これはバハムート・バハムート改の2匹を経て、最強のバハムートだった。

一気に時を進めれば、漫画『ハンターハンター』ではネテロが最終奥義として百式観音の「零」を使う。こういう証拠があるから冒頭で私は「一般化できそう」と言っている。「奥義はゼロになる」という感覚は子供たちに共有されているのではないか。

数字の世界におけるゼロがかっこいいのは、はぐれものだからだ。

まずは増加の世界がある。そこでは1、2、3……と増えるほどに偉い。たとえば年収などがそうである。次に減少の世界がある。たとえばスポーツの順位であり、3位、2位、1位……というふうに減るほど偉い。そしてどちらもゼロとは関係がない。

序列がある時、その序列でトップを取るよりも、序列から外れるほうがかっこいいという感覚。これがゼロのかっこよさの理由だ。ピラミッドの頂点を目指すよりも、ピラミッドの構造そのものから外れることがかっこいいのだ。

算数の世界におけるゼロのかっこよさもある。

かけ算のゼロ。これはどんな数字もゼロにしてしまう。3×0は0である。15×0は0である。それどころか、35兆42億4321万5216×0も0なのである。これがゼロは増減の世界から外れているということの意味だ。数字が増えることが偉いという世界に、ゼロは冷や水をぶっかける。資産が35兆あると言われようがゼロには通用しない。

「んじゃ俺をかけてみるか?」

この一言で終わりである。

次に割り算を考える。ここではさらに怖ろしいことが起こる。まず、0を他の数字で割るとどうなるか? 0である。0を4で割ると0である。0を73で割ると0である。0を51兆で割っても0である。これは無敵である。柔術の極みである。

しかしそれだけではない。たとえば4を0で割ってみる。ここにゼロの真骨頂がある。4を0で割ると「計算不能」なのである。こんなにも胸をときめかせる結果があるか! 計算できると思うじゃないか。これまでどんな数字でも計算できたんだから。なのにゼロは「計算不能」なのである。

そのうえ、ゼロには出生の秘密まである。他の数字とちがい、一人だけインドで生まれたのだ。ゼロは数字界の私生児なのだ。だからゼロは秩序と無関係に生きる。常に例外として存在する。それが例外として存在したがる少年のマインドに合致するのだ。だからこそ、子供のころの私はゼロ号と言われて見事に舞い上がっていたんだろう。

最後に、むかし読んだ本を貼っておく。

異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

 

タイトルの時点で最高である。

「異端の数ゼロ」である。異端なのである。まさに少年の求める立ち位置である。そして副題も最高である。「数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念」である。ぞくぞくする。私だって、もっとも危険な概念として生まれたかった。