終戦から10年の1955年、子ども向けに出版した「憲法と君たち」が先月復刻された。筆者は10年前に亡くなった佐藤功氏。内閣法制局で日本国憲法制定に携わり、その主張は今も色あせない。本では子どもたちに身近な生徒会やクラスの規則を例に、やさしい言葉でつづる。
<君たちのおとうさんや、おにいさんや多くの日本人が、あの戦争で命を捨てた。原子爆弾で二十何万の人が死んだ。平和のために、あの犠牲があったのだ。こう考えれば、今の日本の憲法をどんなふうに変えてもいいということにならないのが、君たちにもわかるだろう>
きょうで憲法公布70年を迎えた。改正発議に必要な衆参議席の「3分の2」がそろい、改憲が現実味を帯びる中、あらためて憲法とは何か考えたい。
第一に戦後の日本社会を形づくったことだ。自由が抑制されて多くの犠牲を払った戦前のような時代に戻らないという、国民の決意と希望から生まれた。
とりわけ9条が定める戦争放棄と平和主義である。戦地に赴いた経験がある佐藤氏はこれこそ他国の手本となると訴えた。
だが現代の日本は逆の方に向かいつつあるのではないか。
安倍政権は集団的自衛権の行使を巡って無理な解釈改憲に踏み切り、さらに強引に安全保障関連法を制定した。
自主憲法制定を掲げて自民党が誕生したのは、この本の出版の年である。<へりくつをつけて、憲法がつくられたときとは別のように憲法が解釈され、むりやりにねじまげて憲法が動かされるということがある>。こう記す佐藤氏は将来を予見していたのかもしれない。
憲法の本質は権力を暴走させないための縛りとされる。言い換えれば、国民の自由を守るとりでである。多くの民主国家では常識だ。わが国も99条で天皇や国会議員、公務員らに憲法擁護を義務付ける。為政者が憲法を軽んじる現状を考えると、その縛りが危機に直面していると言わざるを得ない。
むろん憲法には改憲発議の規定がある。不磨の大典とはいえまい。国際社会における日本の立場は変わり、国民の意識や価値観も多様化する。とはいえ1強政治の下、数の力で押し切る今の政治手法で改憲論議を前に進めることは許されない。
特に憲法11条をはじめとする基本的人権への向き合い方だ。野党時代の4年前に発表された自民党の改憲草案を読む限り、個人の自由や権利より「公益や公の秩序」を優先させているように映る。野党などの反発で草案は「棚上げ」の扱いになったが、党としての主張のベースにあることは変わるまい。
自民党にとって本丸のはずの9条改正論議を避け、さまざまな「お試し改憲」の案がある。国民が今すぐにと望むものなのか。改憲ありきで前のめりになる前にやるべきことがあろう。雇用不安や格差拡大が深刻化する中で、憲法で定める基本的人権の確立が道半ばであることを忘れてほしくない。
10日から衆院で憲法審査会が再開され、追って参院でも開かれる。各党で意見の隔たりを抱える中、「憲法制定の過程」などを話し合う。まず憲法の意義に向き合い、国民本位の議論を求めたい。主権者たる私たちも無関心であってはならない。