戦国時代にも転職があった
※画像はゲーム「太閤立志伝5」から引用しました。
わが国にはかつて、長きにわたる封建時代がありました。
中国の儒教の影響で「忠義を尽くす」というのが、
武家社会では当たり前になっていたんですよね。
その伝統は近代にも受け継がれたようで、
高度成長期(1960~70年代)の労働現場では、
終身雇用制がいちばん良いものと考えられていました。
何回も転職するのは「意気地がない」とか、
いろいろな形でバッシングされたものです。
しかし誰が天下を取るかわからない戦国時代には、
そのような価値観はまったくなかったんです。
生き残るために主君を変える武将や、
自分の才覚を認めてくれる大名を探す武将もいました。
今日ご紹介するのは、
彼はなんと、7度(一説には9度)も主君を変えるんですが、
最終的には伊勢津藩32万石の大名となります。
では、高虎のプロフィールからお話してみましょう。
一文無しから将軍家の側近へ
元々は小領主をする家柄だったんですが、
高虎が生まれた頃は没落して、ほとんど農民に近い状態でした。
彼は天正元(1573)年に信長によって滅ぼされてしまいました。
そこで浅井氏の旧臣だった武将たちを頼るものの、
彼らのところでは満足の行く知行を得られなかったので、
高虎は別の家に仕官することを考えます。
しかし、なかなか良い大名家が見つからず、
食べるのに困って、無銭飲食までしたことがあったそうです。
高虎は思い切って故郷を離れました。
これがとりあえずは上手く行ったんですよ。
新しい大名家は信長の甥・信澄だったからです。
しかし将来安泰かと思いきや、
信澄とは相性が悪く、どんなに働いても80石しかもらえませんでした。
そこで高虎は秀吉の弟の羽柴秀長に仕えます。
秀長のところでは才能を発揮することができたようで、
高虎の噂は秀吉の耳にも入りました。
秀長の死後はいったん隠遁するものの、
秀吉に説得されて彼の家臣となり、
西軍の武将の寝返り工作などを行いました。
その功績で今治12万石を加増され、
合計で20万石の大名となったのです。
築城技術に秀でていた高虎は今治城の改築を行いました。
さらに江戸時代になると徳川将軍家のブレーンとして活躍し、
ライバルを悪く言う側近に激怒する
高虎は各地の武将と交流していましたが、
黒田官兵衛(如水)の息子の長政とは不仲でした。
ある日のこと。
高虎の側近のひとりが訪ねてきて、二人は歓談しました。
最初はとりとめのない話題だったんですが、
なぜか途中から側近は、黒田長政の悪口を言い始めたんです。
側近は高虎が黒田長政を嫌っていたので、
彼を貶めることを言えば、主君が喜ぶと思ったんですよ。
はじめは静かに話を聞いていた高虎ですが、
しばらくすると、烈火のごとく怒り出しました。
【そんな話を聞いてわしが喜ぶと思ったのか?
確かにわしは黒田殿とは仲が悪い。
しかし黒田殿の実力は認めておるぞ。
おまえは妙なゴマすりでわしの心証を良くしようとしたが、
人の悪口など聞けば気分を害するだけだ。
それがわからないのなら暇を出してやるぞ】
側近は高虎の剣幕に怖くなって、必死で謝り続けたそうです。
妙香のまとめ
この話、すごく共感しましたね。
誰にでも嫌いな人や相性の悪い人がいますが、
普通は関わらずにスルーしたいと考えるものです。
過去の経緯によっては、
二度と思い出したくない場合だってあるんですよ。
高虎と黒田長政の間に何があったかはわかりませんが、
どちらも秀吉や家康に仕えていましたから、
出世競争をしていたのかも知れませんね。
苦手なライバルの悪口なんて、
自分が言うならまだしも、他人の口から聞きたくはないですよ。
でも、高虎がすごいのは、
仲の悪い黒田長政の実力をきちんと評価している所なんです。
度量の大きい人じゃないと、
なかなかできないことじゃないでしょうか。
高虎とて人間ですから、黒田長政に嫉妬したこともあったはずです。
でも、それでは自分が卑屈になるだけで、
何のプラスにもならないと感じたんだと思います。
それならば、「嫌いな奴だけど実力は認めてしまおう」と、
発想の転換を試みたんですね。
だからこそ、他の人間が黒田長政の悪口を言うのは、
許せなかったのかも知れません。
いつの時代でも、
誰かをディスっていいことはないということです。
藤堂高虎は他にもいいエピソードがありますので、
また機会があったら紹介したいと思います。
※ご注意
名将言行録等の逸話に基づいた記事ですので、
内容は史実と異なる場合があります。