金メダリストリレートーク
2016年11月30日・中日劇場
歴代五輪金メダリストが集結
一面キューバ強制収容所に日系人の名簿 第2次大戦中、350人分第二次大戦中のキューバで、当時の親米政権の方針によって強制収容所に入れられていた日系人約三百五十人の日本語の名簿が現存していることが明らかになった。収容日や出身県も書かれており、キューバの日系人収容の実態を伝える貴重な資料だ。 日系二世でハバナの日系人連絡会会長フランシスコ・ミヤサカさん(78)=日本商社勤務=の父、宮坂寛治(かんじ)さん(長野県更埴市=現千曲市=出身)の遺品から名簿が見つかった。 作成したのは広島県出身の日系一世で、自身も収容された故内藤五郎さん。一九八〇年代に全土に散っていた元収容者約百人を訪ね歩き、手書きの名簿を作り、共に移民史を取材していた記録作家、倉部きよたかさん(東京都在住)が整理してワープロで清書した。 収容者の出身県別でみると最も多いのが熊本県で五十九人、次いで沖縄県の五十六人、広島県四十二人。中部六県では愛知三人、岐阜五人、三重一人、長野七人、福井三人、滋賀三人。 四一年十二月に旧日本軍の真珠湾攻撃が起きると、親米バティスタ政権は米国に追随し、日系人約四百二十人のうち十八歳以上の男性約三百五十人を逮捕、キューバ南部フベントゥ島の刑務所に収容した。女性三人もハバナ郊外の刑務所に入れられた。拘束は戦後の四六年三月ごろまで続いた。 倉部さんの取材などによると、収容環境は劣悪で、粗末な食事にベッドもない状態。健康を害する人も多く、収容中に死者も出た。そんな中、日系人は収容所内で自治会を立ち上げ、生活改善を要求した。収容所生活が長引く中「演芸部」を結成し、歌や踊りの催しを開くなど、ささやかな娯楽で苦境を乗り切った。 名簿には収容番号や自治会委員の肩書、収容中に亡くなった人の死亡年月日も記録されている。 解放後、多くの日系人は財産を失っており、裸一貫で出直さざるを得なかった。さらに五九年にキューバ革命が起き、社会主義政権下で私有財産が国有化された。ミヤサカさんは「ブラジルやペルー、米国の日系人は成功して財産をなした人が多いが、キューバの日系人は質素に暮らしている」と話した。 (ハバナで、北島忠輔) PR情報
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