広島市長だった秋葉忠利さんは、かつて「原爆の日」の平和宣言で憲法の条文をまるごと引用したことがある。

 9条ではない。

 盛り込んだのは99条である。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」

 そこに「国民」の文字はない。憲法は、国家権力が勝手な行いをするのを国民が縛り、個人の自由や権利を守るためにあるという近代立憲主義の精神が、条文には込められている。

 秋葉さんが生まれたのは1942年11月3日。憲法が公布されるちょうど4年前だ。

 中学で憲法を学んだ。留学先の米国では、大統領が就任式で「憲法を維持し、擁護し、防衛する」と誓うと知った。市長3年目に米同時多発テロが起きた。99条の引用はその翌年だ。

 世界が憎しみと報復の連鎖に満ちていても、為政者は平和憲法に従う義務がある。この国を戦争ができる国にしてはならない――。安保法制が具体的に動き出そうとしているいま、当時の訴えはいっそう重く響く。

 ■「国民主権」の誕生

 70年前、天皇に主権があった明治憲法を改正する形式をとって、日本国憲法は生まれた。

 憲法を定めた者として、前文でその理念を説くのは「日本国民」である。冒頭で高らかにうたいあげる。「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」

 だが46年6月に政府が当時の帝国議会に提出した案に、「国民主権」の言葉はなかった。天皇を中心とする国であることは変わらないとの立場から、「ここに国民の総意が至高なものであることを宣言し」と、あいまいな表現がとられていた。

 そのころ政党や民間がつくった憲法草案の中には、国民主権を明確に打ち出したものもあった。だが政府はその考えをとらず、主権者は誰なのかという議員の追及をけむにまき続けた。

 政府の担当大臣はこう答弁している。「天が動いておったか地が動いておったか。議論がいずれにあるにしても、動き方は古(いにしえ)より変わっておりませぬ」

 ■奥平さんの遺言

 それが今の姿になったのは、連合国軍総司令部(GHQ)が国民主権の明記を指示したからだった。「国民主権という言葉をはっきり出さぬと具合悪いのだ」。議事録に残る議員の発言に、本音がかいまみえる。

 「日本は立憲主義を語らずに立憲主義を実行した」

 昨年亡くなった憲法学者の奥平康弘さんは、こうした経緯を念頭に、憲法の出発点には禍根があると語っていた。

 だが同時に「憲法は未完のコンセプトだ」とも訴えていた。その意味するところを、一人ひとりがかみしめたい。

 憲法それ自体は一片の文書にすぎない。自由・平等・平和という憲法が掲げる普遍的な理念にむかって、誕生時の重荷を背負い、時に迷い、時に抵抗を受けながらも、一歩ずつ進み続ける。その営みによって、体全体に血が通い、肉となっていく。

 プライバシー、報道の自由、一票の価値、働く場での男女平等、知る権利……。社会に定着したこうした考えも、憲法という土台のうえに、70年の年月をかけて培われたものだ。

 「憲法はつねに未完でありつづけるが、だからこそ、世代を超えていきいきと生きていく社会を作るために、憲法は必要なのだ」。奥平さんの言葉だ。

 ■先祖返りを許さない

 この歩みを否定し時計の針を戻そうというのが、自民党が4年前に発表した改憲草案だ。

 冒頭で日本を「天皇を戴(いただ)く国家」と位置づける。西欧に由来する人権規定は、日本の歴史や伝統を踏まえて見直す必要があるとして制約をかける。家族の互助の大切さを打ちだし、憲法を尊重する義務を負う者として「国民」を書き加えた。

 いずれも、70年前の帝国議会で、敗戦前の日本への思いを断ちがたい議員らがくり広げた議論と驚くほど重なる。

 草案を支える人たちの根底に流れる考えを示す話がある。

 案の発表後、自民党議員らの政策集団・創生日本の会合で、元法相が国民主権、基本的人権、平和主義の3原則を挙げ、「これをなくさなければ本当の自主憲法にならない」と発言した。のちに金銭トラブルで離党する若手議員は、3原則が「日本精神を破壊する」とブログに書いた。創生日本の会長は安倍首相その人である。

 憲法に指一本触れてはならない、というのではない。だが、長い時間をかけて積みあげた憲法の根本原理を壊そうとする動きに対し、いまを生きる主権者は異を唱え、先人たちの歩みを次代に引き継ぐ務めを負う。

 憲法12条には、こうある。

 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」