映画『徳恵翁主』が公開からわずか2カ月で観客550万人を動員し、人気を集めている。そのおかげで、徳恵翁主の墓が11月30日まで臨時公開されている。徳恵翁主の墓は、父・高宗と兄・純宗が埋葬されている洪裕陵にある。翁主の墓も、近くにあるほかの皇族の墓(英親王・義親王)も、亡国の子孫とあって貧弱だ。
19世紀末における朝鮮・日本両国の陵墓の風水観からは、両国の興亡において、互いに異なる方向を指し示していることがうかがい知れる。朝鮮最後の君主・純宗と生没年代が近い日本の君主は大正天皇だ。純宗は1874年、大正天皇は1879年に生まれ、二人とも1926年に世を去った。大正天皇は、東京都心から西におよそ40キロ離れた八王子市の多摩御陵に葬られた。地震に強い地を探し求めた結果だった。地震に強い地とは、どういう場所なのか。それは風水に合った場所だ。地脈(竜)が節度を保って伸びてきて、最後に威厳ある山峰(主山)を一つ起こし、その麓に大正天皇の墓が造成された。左右の山(青竜・白虎)がバランスと調和をつくり出した。
どうやってこんな良い場所を押さえたのか。それは、戸田忠至という人物のおかげだった。戸田は1862年、朝廷に建議書を送った。「日本を世界の強国として実現させるためには、陵の整備が重要です。これまでの歴代の陵はきちんと保存されておらず、万乗の玉体が荒蕪(こうぶ)の地に放置されており、これは実に畏れ多く、かつ胸を痛めるべきことです」。建議書は採択され、中世以来の「火葬後石塔方式」を捨てて初期の陵制、すなわち風水に従った埋葬を復活させた。日本の陵制における革命的な事件だった。これは単なる陵制の変化にとどまらない、天皇家と国運を大いに振作した事件と評されている。中国と日本の陵を研究した考古学者の来村多加史・阪南大学教授はこう語る。