60年代の喧噪が終わり、混沌の中で幕をあけた70年代初頭のロック界でしたが、今回はその流れが1973年あたりからどう変わり、クイーンやKISSに代表される華々しい時代になったのか。今回はそれを語っていきましょう。
その変節は1973年にはじまっていた~洋楽
1973年頃というと、世界の怒れる若者たちにとっての火種となっていたベトナム戦争がそろそろ終結に向かう頃です。日本に目を向けると、72年2月の浅間山荘事件で学生運動の火が完全に消え、次の若い世代が「しらけ世代」などと呼ばれ始める時期ですが、この時期から音楽も変わっていきます。
まだ当時、東京のメインのラジオでは60s後半以来の「オールナイト・ニッポン」などの深夜番組(第4章参照)や、「9500万人のポピュラー・リクエスト」(第3章参照)を前身とする文化放送の「オール・ジャパン・ポップ20」などのランキング番組で洋楽がよく流れていました。ラジオ関東では本場アメリカのビルボードのTop40を紹介する「全米トップ40」も湯川れい子のDJではじまりました。またテレビでもNHKで大物アーティストの貴重なライブを放送する「ヤング・ミュージック・ショー」や、関西発で、日本で初めてミュージック・ビデオ主体の洋楽番組と言われる近畿放送(現・KBS京都)の「Pops In Picture」などが洋楽ロックを盛り上げていました。
また、都心の洋楽ファンはソウルイートやBYGといったロック喫茶にたまり、そこで駆け出しだった渋谷陽一や伊藤政則など、後のロックの紹介者の大物がDJをつとめていました。また、ドルの変動為替性への移行で輸入盤が安くなったことで輸入レコード店が登場しはじめます。そこでディスク・ユニオンやシスコなどのチェーン店、新宿レコードやメロディ・ハウス、パイドパイパー・ハウスなど、サウンド的な特色を持った店も登場して来ます。
当時の洋楽ヒットパレードに目を向けると、元ビートルズ勢の中でもポール・マッカートニーが頭一つ抜け出し、自身のバンド、ウィングスを引き連れ積極的にツアー展開を行ない、ヒット曲の数も結局70年代のアーティストでは随一のものとなります。そのポールのソロでの台頭と同じ頃にバッドフィンガーやギルバート・オサリヴァン、ラズベリーズ、トッド・ラングレンいった、ビートルズの影響を強く受けたアーティストがヒットを飛ばし、10CCやエレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)なども続きました。
Paul McCartney&Wings「Jet」
また、Tレックスとデヴィッド・ボウイで火がついたグラム・ロック人気は73~74年にかけて日本でさらに人気を拡大して行き、スレイド、スウィート、モット・ザ・フープル、ロキシー・ミュージックなどが人気を獲得しますが、特に女性ロッカー、スージー・クアトロはその美貌もあいまって日本でとりわけ熱狂的な人気を獲得します。
アメリカン・ロックでは、ファッションやサウンド面でヒッピーっぽさは残しながらもイーグルス、ドゥービー・ブラザーズ、ロギンス&メッシーナなどの西海岸系やサザンロックのレーナード・スキナードなどがより洗練された肩の力の抜けたロックでアメリカン・ロックの主役の座を受け継いで行きます。また、60年代後半以降の長期の隠遁状態を終えたボブ・ディランがライヴ活動を活発化させ、本格復活して行きます。
そして、当時爆発的人気の兄妹デュオ、カーペンターズが73~74年にオリコン・アルバム・チャートの1位を長期で続けるほどの支持を獲得しますが、 その「清純ポップス路線」での人気は次第にオーストラリアの美女カントリーシンガーのオリヴィア・ニュートン・ジョンに移っていきました。
その変節は1973年にはじまっていた~邦楽
そして、日本でも同様の変化が同時期に生じます。72年に吉田拓郎がメジャーのCBSソニーに移籍すると、ヒットチャートでフォークやロックが1位を取ることが相次ぎます。まずフォークでは、72年8月に拓郎の「旅の宿」がシングル1位となると、73年2月にGAROの「学生街の喫茶店」、10月にかぐや姫の「神田川」が続きました。アルバムでは73年12月に1位となった井上陽水の『氷の世界』が75年まで1位に度々返り咲く大ロングセラーとなり、日本で最初のミリオンセラー・アルバムとなりました。
この前後からフォークやロックをめぐりレコード会社の構造変革も起こります。72年にはキング・レコード傘下に初のフォーク/ロック系の専門レーベル、ベルウッドがURC(第4,5章参照)の移籍組を中心に作られ、早速、あがた森魚の「赤色エレジー」のヒットで注目されます。ベルウッドからはあがたと強い関係のあったバンドの はちみつぱい、その他に小坂忠などが輩出されていきます。また75年2月には吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの4人で、日本初のアーティスト主導によるレコード会社「フォーライフ・レコード」が設立されたことも話題を呼びました。
70年代中頃のフォークの人気は、アイドル(第2章参照)にも匹敵するほどの人気を誇りました。その象徴とも言えたのは75年8月の静岡県掛川市で行なわれた、吉田拓郎とかぐや姫による「コンサート・イン・つま恋」で、野外でオールナイトの開催で5万人もの観客を動員しました。この「つま恋」は後に「夏フェスの元祖」とまで呼ばれ、今日まで知られています
また、フォークほどではなかったものの、ロックでも元タイガースの沢田研二が73年7月に「危険なふたり」で、9月には“和製ビートルズ”の異名もとった福岡のバンド、チューリップが「心の旅」でオリコン・シングルの1位を制します。この頃には矢沢永吉率いるキャロルが7か月連続シングル・リリースで注目され、11月には元はっぴいえんどの細野晴臣や鈴木茂によるセッション・バンド、キャラメル・ママをバックに荒井由実もデビュー・アルバム『ひこうき雲』を発表し話題を呼びました。
チューリップ「心の旅」
また、日本人アーティストと欧米アーティストとの共演もはじまります。はっぴいえんどは73年に解散(第5章参照)しましたが、最後のアルバムはLAで録音し、ヴァン・ダイク・パークスやリトル・フィートのローウェル・ジョージなど、アメリカン・ロックの要人を迎えました。74年には元フォーククルセダーズの加藤和彦が組んだ本格的なグラムロック・バンド、サディスティック・ミカ・バンドがロキシー・ミュージックなどを手がけたプロデューサー、クリス・トーマスのプロデュースのもと、アルバム『黒船』を発表。また、元ミッキー・カーチス&サムライズのベーシスト、山内テツはそのテクニックを気に入られ、フリーやフェイセスといったイギリスの一流バンドに加入し世界的に注目されます。
サディスティック・ミカ・バンド「塀までひとっとび」
日本でのクイーン一大旋風
クイーンがデビュー・アルバム『戦慄の王女』の日本盤を発売したのは1974年3月のことでした。本国イギリスからは約半年遅れのリリースでした。本国での最高位は24位とパッとせず、しかも批評的に「グラムロックの最終ランナー」などとも呼ばれ酷評もされていたバンドでした。しかし、そうした状況は同年6月に早速日本盤発売された『クイーンII』でガラリと変わります。圧倒的な声域を誇るフレディ・マーキュリーの豊かな歌声を主体に、グラムロック的華やかさをベースにハードロック/プログレ的なスケールの大きな組曲形式のアルバムは、日本の従来のハードロック・ファンを魅了したと同時に、当時、「宝塚ロック」とさえも呼ばれたユニセクシャルな美貌で10代前半の女の子のファンを獲得するのに成功しました。ここから日本の洋楽ロックファンの世代交代が徐々にはじまっていきます。
クイーン「輝ける7つの海」
そして74年12月には日本でこの年3枚目の3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』が発表され、イギリスでアルバムが2位、シングルで「キラー・クイーン」がアメリカで12位にあがるヒットになりましたが、その最中の75年3月にクイーンは初来日。羽田空港には1000人を超えるファンが詰めかけ、初来日にして全国7ヶ所 公演で東京公演は武道館を売り切り、追加公演も武道館という、この時点で既に桁外れの人気でした。
そして75年12月には4枚目のアルバム『オペラ座の夜』を発表し、シングルで現在に至るまでの彼ら最大の代表曲「ボヘミアン・ラプソディ」も世に出ますが、もう、この頃には「世界のクイーン」となり、日本での人気もレッド・ツェッペリンやエマーソン・レイク&パーマーを抜きトップとなりました。そして77年1月に次作『華麗なるレース』が出た際には遂にオリコン・アルバム・チャートの1位に輝きました。ただ、この頃にはよりシンプルな楽曲志向となった彼らに不満を漏らす日本のファンも増えていました。
Queen「Bohemian Rhapsody」
怒濤のリリース攻勢による“ロック御三家”の成立
クイーンは80年代初頭まで日本でこの人気(欧米ではむしろこれ以降の方がビッグですが)を続け、「ミュージック・ライフ」の人気投票でも常時1位となります。彼らは日本でビートルズに次ぐ有名なバンドとなりましたが、面白いもので、ひとつそういうバンドが出ると「対抗馬」が登場します。
その一番手となったのはKISSでした。女の子に人気の王子様のようなバンドが主役なら、それに対抗するのは悪魔をイメージしたコスチュームのカブキ・メイクの謎の集団、というのはストーリーとしてあまりに出来過ぎでした。73年に本国アメリカでデビューした彼らは最初はキワモノ扱いを受けたためそれほどウケなかったのですが、75年に徐々にブレイクの気配を見せると日本でこれまで未発売だった3枚のアルバムが続々と世に登場し、さらにその年の後半に発表されたライヴ盤「地獄の狂獣~キッス・ライヴ」が世界的に大ヒット。76年にも2枚のアルバムがそれに続きました。わずか2年で6枚のアルバムが出た計算となる日本では人気が急速に上昇し、77年の初来日時には武道館3Daysを大成功させ、公演の模様がNHKの「ヤング・ミュージック・ショー」で放映され大きな話題となりました。
KISS「Detroit Rock City」
そして、そのクイーン、KISSの2つに、ローリング・ストーンズをハードロック的にヴァージョン・アップさせたようなエアロスミスが加わることになります。彼らも本国アメリカで73年のデビュー当時の印象が悪くセールスがふるわなかったのですが、人気が徐々に盛り上がってきた75年に3枚のアルバムが日本で登場することで注目度を一気に高め、76年4月発表のアルバム『ロックス』の大ヒットでクイーン、KISSに近づき遂には「ロック御三家」とまで呼ばれるようになります。アメリカでも76年から77年にかけて「ドリーム・オン」「ウォーク・ディス・ウェイ(当時の邦題は「お説教」)」が遅れてヒットしたことも重なり、77年にかけて人気を高め、同年11月のアルバム『ドロー・ザ・ライン』で初のオリコンTop10入りを果たします。彼らの場合、ドラッグのトラブルなどで自滅し、実力を発揮しきらないままクイーンやKISSに追いつけなかった印象もあったのですが、80年代後半以降にそれを埋めてあまりある復活を果たすことになります。
Aerosmith「Draw The Line」
こうした「ロック御三家」の活躍を支えたのは、60年代後半以来となる久々のアイドル登場ということで力の入った「ミュージック・ライフ」を筆頭に、TBSテレビで72年からはじまった若者向けバラエティ番組「ぎんざNOW」の洋楽コーナー、そしてNHKのAMで74年からはじまった若者番組「若いこだま」のDJをつとめた大貫憲章や渋谷陽一などでした。また、「明星」「平凡」のようなアイドル誌や学研や旺文社の中学生雑誌に掲載されることも珍しくなく、鴨川つばめの「マカロニほうれん荘」のような漫画でも描かれたことで、ローティーン以下の少年少女にまで浸透したほどです。
この頃には、社会への不満を訴えた歌詞やフリー・フォームの長尺演奏よりもよりも、個人的かつ享楽的な言葉とコンパクトな楽曲指向が主流となり、ライヴもローティーンや女の子にウケやすいものになっていました。こうした状況を60年代後半以来のアメリカン・ロックやブリティッシュ・ロックファンは嘆いたし、欧米でも抵抗が強かったからこそ、ロック御三家の評価がことごとく遅れたようにも思われます。ただ、この3バンドの後の伝説化を考えるにこの変化は必然だったように思われるし、後から振り返るに、クラシックやジャズの要素を取り入れるといったハードロックやプログレの手法が既に形骸化しはじめていたことを暗示していたようにも思われます。いずれにせよ、当時の日本の洋楽界の先見性には驚くべきものがあります。
時代を先んじていた洋楽メディアのアイドル・バンドへの眼力
そして77年くらいになると、日本の洋楽メディアの「アイドル・バンドへのアンテナ」にはさらに磨きがかかります。この年は“ロック御三家”の全盛に加え、ベイ・シティ・ローラーズの空前のブームに日本が包まれます。
ローラーズは1974年頃からイギリスでは人気のアイドル・バンドでしたが、75年から本格的な国際進出を図り、76年初頭に「サタディ・ナイト」で全米1位となり、日本でも大ヒットしました。ただ、日本での反応は想像を大きく超えました。メンバーの1人1人が大人気の、まさに後のヴォーカル・グループ系アイドルばりの人気が出てしまったのです。それは文化放送ではじまったローラーズ専門の番組で拍車がかかり、76年の初来日の時点で大ブームとなりました。77年になると、ローラーズ本体に加え、元メンバーのイアン・ミッチェルやパット・マグリンのソロ関連、さらにバスターなど同系バンドも弟バンド的扱いで紹介されブームの幅を広げました。このローラーズ・ブームで洋楽ファンになった小・中学生も多かったのです。
このローラーズのブームに関しては国際的かつ歴史的な収穫があったとは言いがたいものはありますが、77~78年に生まれた他の日本独自のロック・アイドルは後世にかなり高い価値を残すこととなります。77年はアメリカのティーンの女の子たちによるロックンロール・バンドのランナウェイズ、そしてイリノイ州が生んだブリティッシュ・ビート狂のイケメン2人とブサイク2人のチープ・トリック。そして78年には「遅れて来たグラムロック」とも称されたジャパンが登場します。この3つはいずれも本国でのデビュー時に全く相手にされなかったバンドです。ジャパンに至っては、本国イギリスで契約がなく、ドイツのレーベルから作品を出していたのをルックスの良さと日本人にとっての名前の親しみ易さで独自に売り出していたものでした。
ただ、蓋を開けてみると、ランナウェイズは「下着姿が話題のバンド」どころではなく、今や「ガールズ・パンクの元祖」と呼ばれ、メンバーのジョーン・ジェットはロックの殿堂にまで入りました。チープ・トリックは78年の日本武道館でのライヴ盤が逆輸入で世界に紹介され、そこでアメリカの人気バンドとなりました。その影響力は90年代以降のグランジやパワーポップのバンドにも至っています。そしてジャパンは80年代に入る頃には、イギリス国内でも評判のニュー・ウェイヴ・バンドとして尊敬され、デュラン・デュランなどに強い影響力をもたらす存在にもなりました。
The Runaways「Cherry Bomb」
Cheap Trick「I Want You To Want Me(Budokan)」
このように、日本で70年代半ば~後半に起こった洋楽のアイドル・ロック・ブームは他の国にも影響を及ぼし、特に当時のアメリカでの華やかなアリーナ・ロックともリンクするものとなりました。アメリカだと、“ロック御三家”やチープ・トリックのほかに、イーグルスやフリートウッド・マック、ピーター・フランプトンにボストン、ELO、さらにフォリナーやハート、ヴァン・ヘイレンが加わる印象でしたが、この時代のこれらアリーナ・ロックは今日でもアメリカでは非常に好まれています。日本で「70年代」というと、学生運動のあった前半の方が「熱かった激動のあの頃」などと銘打たれて団塊の世代に愛されていますが、実際にベトナム戦争を戦い、戦士も反戦運動家も傷ついたアメリカでは積極的に振り返られることは少なく、むしろベトナム終戦後を好む傾向があります。それはこの当時に生まれた「スター・ウォーズ」や「チャーリーズ・エンジェル」といった華やかなカルチャー・アイコンが今も根強い人気であることとも無関係ではなく、今でもこの時代の楽曲がハリウッド映画で重用される傾向もあります。
1977年、日本のロック・アーティストも華やかに
また、同じ77年頃、日本でもロックはメジャー化し華やかになります。まず、この年の日本レコード大賞を制したのは沢田研二でした。この頃には中性的なメイクを施すことも珍しくなく、1曲あたりの演出もシアトリカルとなり、それは翌78年にはじまるTBSの「ザ・ベストテン」でも発揮されることとなります。また、音楽だけにとどまらず、75年のドラマ「悪魔のようなあいつ」や79年の映画『太陽を盗んだ男』の演技でも注目され、ロック界だけにとどまらず日本のカルチャー全般に活躍する彼のその姿はいつしか「日本のデヴィッド・ボウイ」とも呼ばれるようになっていました。
また、77年は日本にも「ロック御三家」が登場した年でもありました。それがCHAR、原田真二、世良公則の3人でした。いずれも当時、年齢にして大学生くらいの彼らが、いずれも高い表現力を持ちながらアイドル化することで、ロックの魅力を洋楽を聴かない低年齢層にまでアピールしました。また、78年にはこの流れの中から当時青山学院大学の学生バンドだったサザンオールスターズが台頭します。こうした国内の若いロック・アーティストたちの後押しにも「ぎんざNOW」が彼らを多く出演させることで貢献しました。
沢田研二&CHAR「憎みきれないろくでなし」
この頃になると、「ポプコン」「イーストウェスト」などのロック、フォーク系のコンテストが盛んとなっていましたが、そこから中島みゆきや長渕剛などが登場したことでさらに注目度があがっていきました。また、 ライブハウスの文化も出来上がりつつあり、東京では荻窪ロフトや渋谷屋根裏、新宿ルイードなど、ロックどころの京都では拾得や磔磔、福岡では照和やぱわあはうすなどの活動拠点地が多くのアーティストを生み出します。
70年代の半ばになると、クリエイション、四人囃子、カルメン・マキ&OZ、BOW WOWといった国産のハードロック/プログレ系のバンドがそれぞれマウンテン、ディープ・パープル、グランド・ファンク、KISSといった大物バンドの来日公演の前座をつとめ注目を集めます。また、後にラウドネスに発展したアイドル・バンド、レイジーが活動したのもこの頃です。
また後半になると、TVや広告業界が日本のロックの可能性に目を付け、ドラマ主題歌やCMソングのタイアップを行なった結果、キャロル解散後にソロに転じた矢沢永吉やゴダイゴ、柳ジョージ&レイニーウッド、甲斐バンドなどがオリコンのアルバムを制するほどの人気バンドとなりました。また、元来フォーク系だったアリスや浜田省吾、アルフィー、長渕剛、チャゲ&飛鳥、安全地帯などがアリーナ・ロックの手法をライブや楽曲に持ち込み、80年代にかけて人気を築いていきました。
参考文献
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