「ロックミュージック」、この言葉を目にしたとき、どんなイメージが思い浮かぶだろうか。
ロックミュージックのルーツは、米国において1940年から50年代にかけて広まったロックンロールである。その後ロックミュージックはブルース、フォーク、ジャズ、クラシック音楽など他の音楽ジャンルと融合しながら、幅広い年齢層に受け入れられるようになり、世界各国へと波及した。
今や世界で最もポピュラーな音楽ジャンルと言っていいだろう。誕生から半世紀が経過した現在でも、多様な音楽スタイルを取り込みながら変化し続けている。「ロックミュージックの代表的なミュージシャンやバンドは?」と聞かれて挙げていったら、それこそきりがないはずだ。
ロックという言葉が指すのは音楽だけではない。ロックミュージックによって育まれてきた思想も示している。様々な解釈や意見があるが、ロックが意味するものはやはり反骨精神であろう。
もはや機能しなくなった古いルールに立ち向かい、破壊し、新しいものを創造していく。このようなロックという言葉が象徴する“哲学”は、社会に対して疑問を持つ若者たちはもちろん、かつて若者だった年長者たちの心にも刻まれ、多くの人々の生き方に影響を与え続けている。
日本にロックが本格的に進出してきたのは1970年代である。多くの若者が楽器を持ち、ロックバンドが次々と誕生した。ただ、当時の日本の音楽シーンは、グループサウンズやロカビリーブームの残り香が漂っていた。さらには演歌やアイドルソングを中心とした、いわゆる「ザ・歌謡曲」がメディアを席巻していた。
そのためロックミュージックに対する認知度や理解度は極端に低く、ロックの過激な歌詞やステージパフォーマンスが話題になりそれだけが取り出して語られると、なじみのない人たちからは「ロック=不良」と単純化されて受けとめられてしまっていた。
そんな中、1つのバンドがデビューすることで、そのイメージはぬぐい去られてされていく。
世良公則&ツイスト。
当時の音楽誌は「いまようやく、日本のロックは世良公則&ツイストの手で、メジャーになろうとしている」という主旨のフレーズを書いた。つまり、“日本産ロック”をメジャーな存在へと押し上げた、最初のロックバンドが世良公則&ツイストだと言われている。
世良公則&ツイストは名曲「あんたのバラード」で世界音楽祭グランプリを獲得。その後も次々とヒット曲をリリースし、まだロックのことを知らない、あるいはロックのことを誤解している世間の人々に対し、正統派ロックバンドのイメージを提供していった。
このバンドのセンターにおいて、強力な歌声とそのパフォーマンスで日本中を魅了したのが、ヴォーカルの世良公則だ。
デビューから約40年。今でも精力的にオリジナル作品を制作し、ソロライブはもちろん、多くの後輩ミュージシャンたちとのコラボレーションライブを積極的に行っている。そして世良はミュージシャンだけでなく俳優としても有名で、活動内容は実に幅広い。
多彩な才能を見せる世良だが、その活動の根幹には、やはりロックが存在する。
英語のロックに対する“遠慮”が蔓延していた時代に、日本語でロックを歌い切った世良。ニューミュージック全盛で「ロックは売れない」と言われていた頃に、「売れるロック」で成功した世良。若い奴には負けないとばかりに意地を張りながらも若手を育てようとする世良――。取材を通して見えてきた、世良が持ち続けているロックのスピリット(精神)に迫る。
(本文敬称略)
1人の表現者にとっては、音楽も映像も同じ
音楽と映像は、遊園地で例えれば違う乗り物だ。
ひるがえって見てみると、今はミュージシャンが役者の顔を持つことも不思議ではない。
「自分が役者だなんて思っていません。基本は、いつでもロックミュージシャン、それだけです。俺は1人の表現者として演じている、“セッション”をしているんです」
世良はこう語る。
「要するに、セッションしている相手が映像の人たちで、俺がそっちへ行けば演じることになるし、あちらから俺のステージに上がってくれば音楽のセッションになるわけです。
言い方を変えれば『音楽と映像は、同じ遊園地の別の乗り物』なんです」
世良に、その考えを教えてくれた人物がいた。
2011年に惜しくもこの世を去った名優、原田芳雄だ。
バンド「世良公則&ツイスト」が人気絶頂を迎えていた頃、世良をはじめとしたバンドのメンバーは、その行く末に対して少しずつズレを感じていた。
「その頃、原田芳雄さんも松田優作さんも俳優の傍ら、ライブハウスなどでブルースを演っていました。
そういう音楽の集まりみたいな飲み会があったんですね。その飲み会に参加していた時に、ある方に『芳雄さんと一緒に、北海道の原野でロケをやるんだけど遊びに来ない?』と誘われました。
バンドのこともいろいろ考える時期だったので、少し環境を変えてみようかと思い、その北海道のロケに遊びに行ったんです。そうしたら、毎朝5時半ぐらいに、隣の部屋で芳雄さんがブルースを大音量で流すんですよ(笑)。
ミュージシャンの俺でもそんな朝からガンガンに音楽かけていないのに『世良ちゃん、おはよう。やっぱ、ブルースだよな』とか言いながら……。すげえ人だなと思いましたね」
バンドを解散するかもしれないという話を打ち明けた。すると原田は「まあ、しょうがないね。そんなことよりも、お前が何をやりたいかだよ」と応えたという。
そして世良はこう続ける。
「ちょうどドラマに出演しないかというオファーももらっていた頃です。芝居をしたこともないので、ドラマでどんなふうにやっていいか分からない。こう伝えたら『そんなもの扉を間違えているわけじゃなくて、動物園で言ったら違う檻(おり)、遊園地で言ったら違う乗り物。そこに来ている人を楽しませればいいんだ。だから、自分のやりたいように、思うようにやってみたらいい』と言われたんです」
世良は自分の考えの幅がいかに小さかったかに気づいた。それと同時に、不思議と腑に落ちる感覚に包まれたという。
「そのロケには桃井かおりさんも一緒でした。かおりさんも一人芝居をやっていたり、その中でシャンソンとかも歌っていました。
そんな芝居と音楽を行き来している2人を通して、『この人たちは、こんなに自由なんだ』と思うと同時に、音楽や芝居の世界を区別することを止めました」
楽器でも、芝居でも、表現する側がその方法を選択できるのであれば、1つの方法に自分を無理やり押し込める必要などない。そう考えていくと、実は表現者をその表現方法で無理やり区別しているのは、観る側や聴く側の勝手な判断なのかもしれない。
「音楽と映像の世界の人たちは、“キャッチボール”ができるんです。有名な映画監督はロックミュージックが好きだったり、現場の人たちがロックバンドのTシャツを着ていたりします。ロックが好きだったけど、職業としては照明マンになっていたり、逆に、映画を死ぬほど観たけど、バンドをやっている人もいるでしょ。
(マーティン)スコセッシ監督がローリング・ストーンズを撮るのはいい例ですよ。それだけ、音楽も映像もとても近い存在です。映像を感じない音楽って、大した音楽じゃないですしね。
大切なのは、音楽でも一緒にプレーして楽しいと思う人もいれば、そうでないと感じる相手もいるのと同じように、映像の人たちとも楽しくキャッチボールができないと、それを観ている人だってつまらなくなってしまうでしょ。つまり“セッション”なんですよ」
音楽は、写真や絵画、ファッションとも相性がいい。音楽がなければどこか殺風景な物になりかねない。特に、映像の世界には、音楽はなくてはならない存在だろう。
しかし、世良がロックミュージックに出会った頃は、まったく違っていた。
「今はPVもあればいろいろな映像もあって、YouTubeなんかで動くミュージシャンが簡単に観られるけど、俺がロックに目覚め始めた頃は、ロッド・スチュワートも、ミック・ジャガーも、ビートルズも、動く映像は世界のニュース的なフィルムで撮った来日風景というものが主流で、音楽として映像を観ることがほとんどできなかった。
おそらくNHKの『ヤング・ミュージック・ショー』という番組で1年に1~2回程度、しかもそれが5~6年も前のコンサート映像だったり。あとは本当に限られたロックマニアのための5分くらいの番組で、ほんの少し流れてくるくらい。動くミュージシャンを見たのは70年代に入ってからですね」