李元鐘(イ・ウォンジョン)韓国大統領秘書室長の発言が物笑いの種になった。先の国政監査で、朴槿恵(パク・クネ)大統領友人の崔順実(チェ・スンシル)氏が大統領の演説文を手直しすることは可能かと問われ、「封建時代にもあり得ないこと」と答弁したせいだ。質問をしたのは、現政権で大統領府(青瓦台)報道官を務めた与党議員だった。李室長は特別な意味を込めて「封建時代」という言葉を使ったわけではないだろう。ただ、常識が通じなかった昔を大げさに表現したのだと思っている。
本当なら、李室長は「封建時代ならあり得ること」と答えるべきだった。封建時代は国王、領主、家臣が主従関係を結んで分権していた中世を指す。だが、これは制度的な表現にすぎず、封建時代の本質は近代と比較して初めて明確になる。近代は国民主体の国民国家と産業化を中心に法治、合理、科学、自由という価値が具現されていく時代を指す。私たちが生きる今を「現代」と呼ぶが、実際はほとんどの人が近代に形成された価値を常識として共有している。封建時代とは要するに、今の常識が常識ではなかった時代といえる。
近代を構成する常識のうちで重要なのが、専門家による官僚制度だ。国王や「クローニー」と呼ばれる取り巻きが独断するのではなく、専門家で構成する官僚により政策が決定される制度を指す。朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領の維新体制を「独裁」とは呼んでも「専制」とは言わないのは、専門官僚による発展国家の体制を維持していたためだ。それゆえ、学者の中には維新体制を「官僚権威主義体制」と定義する人もいる。民主主義体制になって以降も同じような規模の官僚制が維持されているのは、もっと効率的な体制を誰も考えつかなかったためだ。そのため、国民は税金を納めて膨大な政府組織を運営する。