現在、私とうんこの関係がこじれてきている。
過去に前例のないほどに、こじれてきている。
いや、真面目な話なんですが。
この記事では、「うんこをこじらせる」とはどういうことかを説明したい。はじめに言っておくと下ネタではない。「笑い」というものに関する、わりに真面目な考察である。
「うんこをこじらせる」の意味を理解するためには、私とうんこの関係を時系列で整理する必要がある。お付き合いいただきたい。
うんこ期(赤子~幼児)
オムツをしていた。うんこが出ると不快だから泣いて、母親にオムツをかえてもらっていた。そもそもうんこという言葉を知らない。
うんこ面白い期(幼稚園~小学校)
うんこの存在を発見する。実物としてのうんこが面白い。たとえば道で犬のうんこを見つけてキャッキャと笑う。「うんこ」と言うだけでも笑う。うんこを擬人化したマンガで笑うのもこの時期。幼年向けマンガにはうんこの絵があふれている。
うんこ否定期(中学校~高校)
思春期を迎えた。
子供っぽい部分を切り捨てたくなり、ベタな笑いを嫌いはじめた。そしてベタな笑いの筆頭としてうんこが槍玉にあげられた。「うんことか面白くねーし!」という時期。かわりに、ひねった笑いや分かりにくい笑いを好みはじめた。シュールの台頭。
このあたりまでは、なんとなく共感してもらえる気がする。「まあ、言いたいことは分かる」というふうに。しかしここから話がややこしくなる。「こじらせ」が始まるからだ。
「あえて」うんこと言う時期(高校~二十代前半)
うんこの再発見。
あるいは、シュールによるベタ(うんこ)の回収。
うんこを「あえて」笑い、「あえて」の部分まで含めて受け手と共有する。「うんこが面白い」ではなく、「いい年してうんこを面白がる俺たち面白い」という形。男たちの小規模な集団では、しばしばこの現象が起こる。男たちのひそかな楽しみ、それは気心のしれた者同士で密室にこもり、記号としてのうんこにじゃれつくことなのだ。
私にとって、うんこという記号とのじゃれあいは十代の後半にはじまり、二十代前半に黄金期をむかえた。もはやうんこと言えば問答無用で面白いわけではなかった。いかにうんこと言うか? いかなる文脈で言うか? うんこに至るコンテクストを操作することで、ベタな下ネタにすぎなかったものを、コンセプチュアルな笑いとして再提示することはできるか?
これを競い合うのが、あえてうんこと言う人々だった。
文脈を共有していない人間には「単なる下ネタ」にしか見えないのも特徴だった。だからこの時期の自分は、うんこと言った瞬間に「はい下ネタね」と片付けられることに憤りを感じていた。それは小学生の段階だ。我々はちがう。うんこで笑うことを否定したうえで、「文脈」という概念によって、うんこを再導入した。うんこという言葉に素直に反応するな! うんこという言葉がいかに扱われているかを見ろ! うんこに至る文脈を読め!
お気づきだろうが、これが「うんここじらせ男子」である。
「現実のうんこ」の再発見(二十五歳)
あらゆる帝国が黄昏の時を迎えるように、私とうんこの蜜月にも終わりの時がやってくる。きっかけは二十五歳の夏のことだった。当時、私はオモコロというサイトのライターとして活動していた。
ご存知の方も多いかもしれないが、オモコロというのはくだらないことを全力でやる集団である。当時の企画に「犬のうんこのにおいをかぎながら白米を食べる」というものがあった。といっても食べるのは私でなく他のライターだった。私はスタッフの一人として撮影に同行していた。
当日、現場にはタッパに入った犬のうんこがあった。誰かが公園から拾ってきたらしい。撮影前に、みんなでにおいを嗅いでみようという話になった。その場にいた数人のスタッフで一人ずつ嗅いでいった。自分の番が回ってきた。スッと息を吸いこんだ。
「アヴォッ!」という声が出た。
この瞬間だった。この瞬間、自分がうんこをいつのまにか記号化し、本来の暴力性を切り離して、もてあそんでいたことを思い知らされた。十代後半の「あえて」による切断。「普通にうんこが面白い」から「あえてうんこを面白がる」に変わったとき、無意識のうちに私は、うんこのもっとも危険な部分(くさくて汚いところ)を切り捨て、それを「記号」にしたのだ。戦争から死体を取り除いて映像化するように。
この事件を境に、うんこじゃれつき帝国は黄昏を迎えた。もちろん今でも私はうんこという記号を面白いと思うし、その記号にじゃれつくことはある。だがそこに全盛期の無邪気さはない。それは一種のノスタルジーとさえ言える。私とうんこの関係は老年期を迎えたのだ。
ゴリラという記号について
ここですこし脱線して、ゴリラという記号について書きたい。
私がこのブログで使うゴリラという言葉もまた記号化されたものなのだろう。おまえは本当のゴリラを知らない。たまにそんな声が頭のなかで響く。私は実物としてのゴリラに出会うことなく、ゴリラという記号と、そこから喚起されるイメージにじゃれついている。
記号ではないゴリラ、実在としてのゴリラを私が知るとしたら、街にゴリラが解き放たれた時だろう。ノッシノシと歩く野良ゴリラが日常的な光景となり、野良犬に噛みつかれるかのように野良ゴリラにブン殴られるようになったとき、私は記号としてのゴリラに別れを告げ、実在としてのゴリラの暴力性を知ることになる。砕かれたアゴ、したたり落ちる鼻血、いまだ焦点の合わぬ視界、全身に痛みを感じながら呆然とする私の前で、野良ゴリラはドンドンと胸を叩き、ノッシノシと歩き去ってゆくことだろう。
むろん、分かっている。
今このように記述していること自体、まさにゴリラという記号へのじゃれつきなのだ。白状するならば、私は「野良ゴリラ」という言葉の語感、とくに野良とゴリラが「ラ」で韻を踏んでいるところを楽しんでいるし、ノッシノシという非日常的なことばの響きも楽しんでいる。記号としてのゴリラに記号としてのうんこを投げさせる。そこに暴力も不快もない。あるのは記号化された楽しみだけだ。
原初へ
まとめよう。
うんこを素朴に笑っていた幼児の私は、思春期におとずれた「ベタな笑いの抑圧」によって、うんこを否定した。ここに「こじらせ」の種は蒔かれていた。欲望を無理に否定するところに、こじらせは始まるからだ。
数年後、幼児性への未練から、私は「あえて」という形で、うんこを笑うことを復活させた。「うんこをこじらせる」の本格化だ。私は文脈操作によるコンセプチュアルなうんこで少数の男友達と笑っていたが、二十代半ばに犬のうんこの実物を間近で嗅ぐ体験をしたことで、「コンセプチュアル」が切り捨てていたものに気づかされた。
現在の私は、「あえて」まで含めてうんこを否定したい時期に差しかかっている。「こじれたうんこをさらにこじらせる」と言えるのかもしれない。私はもうどんな形だろうとうんこを笑いに結びつけたくない。強いて言うならば、「ただうんこしていた時期」に戻りたいということだ。こう書くとただのおもらし野郎だが。