アニメ『舟を編む』の第3話、よかったですねえ。見どころがたくさんありました。もちろん、辞書マニア的見どころもてんこ盛り。今週も感想と解説を雑多に述べてまいります。
※以下、アニメ本編の画像はAmazonプライム・ビデオ『舟を編む』第3話「恋」*1をキャプチャしたものです。
用例カードを鑑賞する
これまでのように一つ一つ出典を特定してもあまり意味が無さそうなので、今回は重要なポイントだけ味わうことにしましょう。
第1話の感想で、玄武書房の用例カードは転記によるものが主で、見坊豪紀が実践していた「切り抜き法」は行われていないようだと書きました。しかし、今回の放送で、実物の切り抜きによるカードも多数あることが判明しました。こちらの方が資料としては正確なものになりますから、結構なことです。
「木偶(きでこ)」は『日本国語大辞典』初版の見出し語をカード化したものですが、さすがに『日本国語大辞典』そのものを切り抜いたのではなく、コピーした上で切り貼りしているのだと思います。
ITと辞書
今回、ライトモチーフ的に扱われていたのが「IT」でした。「IT革命」がユーキャン新語・流行語大賞の大賞に選ばれたのは2000年のこと。時代設定がよくわかります。
辞書とITの話をするなら、デジタル辞書の議論は避けて通れません。原作では一切触れられず、映画版でも少し話に上った程度でしたが、今後アニメ版で電子辞書の話題が取り上げられることはあるのでしょうか。注目すべき点の一つです。
恋と辞書
夏目漱石『明暗』の「距離」の用例に対峙して、香具矢との距離のとり方をしくじったことに思い当たった馬締に対し、西岡が突きつけたのが『三省堂国語辞典』(以下、三国)第4版の「恋」でした。
〔男女の間で〕好きで、あいたい、いっしょになりたい、いつまでもそばにいたいと思う強い気持ち(を持つこと)。恋愛。
――『三省堂国語辞典』第4版(1992)
なんということでしょう。原作では、辞書の一般的なイメージとはかけ離れた「面白い」語釈で有名な『新明解国語辞典』(以下、新明国)の「恋愛」を引いて思案に暮れる馬締が描かれていましたが、ここでは比較的シンプルな語釈が売りの三国のお出ましです。
原作で引用されていた新明国5版の「恋愛」はこんなのです。
特定の異性に深い愛情を抱き、その存在を身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が昂揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態。
――『新明解国語辞典』第5版(1997)
三国の「恋」とはずいぶん印象が違います。
そもそも、「恋愛」と「恋」は別語ですし、原作では馬締自らが辞書を引いていた一方、アニメでは西岡が引いているというのも違います。恋は人に言われて初めて気付くもの、ということかもしれません。私は恋には疎いのであまり多くは語らないことにします。西岡も「言葉の理解っていうのは、実体験がないと身に付かないんじゃないのかな」と言っていることですし……。
ちなみに、三国は最新の第7版で男女の限定を取り払った語釈に改めています。
人を好きになって、会いたい、いつまでも そばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)。
――『三省堂国語辞典』第7版(2014)
馬締と西岡の恋もあり得ますよ。
大辞泉にしかない「ヒレカツ」
辞書をキャラクター化したコーナー「おしえて!じしょたんず!!」で、泉くんが「自分のとこにしか載っていない自慢の見出し」として「ヒレカツ」を挙げていました。これに対し、リン太は「ヒレカツなんて、『ヒレ』の項目に例を出せば十分だ」と反論しています。
「泉くん」は実在の辞書である『大辞泉』が、「リン太」は『大辞林』がモデルになっているのは、みなさんよくご存じのとおりです。「ヒロシ」は『広辞苑』ですね。
実際にこの3冊を引いてみると、たしかに「ヒレカツ」は『大辞泉』にしかありません。
ヒレ-カツ《和 filet(フランス)+cutlet》豚のヒレにパン粉をまぶして揚げた料理。
――『大辞泉』第2版(2012)
『大辞泉』が「ヒレカツ」を立項したのは第2版からなので、彼らが最新の版であることも明らかとなりました。
『大辞林』も、ちゃんと「ヒレ」の例に「ヒレカツ」を挙げています。
ヒレ[0]【フランス filet】牛や豚の、背骨の内側の左右にある脂の少ない上等の肉。テンダーロイン。フィレ。「―カツ」
――『大辞林』第3版(2006)
「ヒレカツ」のような単純な複合語は、紙面に制約のある紙の辞書では、立項の優先順位が低くなります。「ヒレ」の意味と「カツ」の意味がわかれば、「ヒレカツ」の意味も難なくわかるからです。『大辞泉』と『大辞林』『広辞苑』の姿勢の差は、単純な複合語にすぎない「ヒレカツ」が日本語の中でどれほど重要な地位を占めているかという見解の差ともいえるわけです。
ところで、『大辞林』は「ポークカツ」を立項しています。
ポークカツ[4]ポーク-カツレツの略。
――『大辞林』第3版(2006)
『新解さんの謎』風に言えば、リン太はヒレカツよりポークカツが好きなようです。
この『大辞林』、デジタル版になって物理的制約から解放されると、タガが外れちゃったのか、やけくそ気味に新しい食べ物を立項しています。最新のバージョン*2では「海老カツ」も見出しになっていますし、「生クリーム大福」「プリンパン」「ツナマヨ丼」など、紙の辞書ならまず立項できないような語をばかすか見出しにしています。これらはデジタル版『大辞泉』の最新版にもありません*3。
しかし、なぜか『大辞林』には未だに「ヒレカツ」が立項されていません。紙のとき載り損ない、デジタルになった頃には忘れられたまま「海老カツ」以下になってしまった悲しいカツ、それがヒレカツなのです。
なお、デジタルの『大辞林』は、食べ物のみならず「手動シュレッダー」「ご褒美ランチ」「ネット旅行予約サービス」など、単純にもほどがある複合語を大量に立項しています。これこそ「用例として出せば十分」な語だと思うのですが、リン太は何を考えているのでしょうか。
資料を精査しよう
編集会議の場面で、実在の辞書名が一覧になっていました。
下から4つ目の『学研現代申告後辞典』は『学研現代新国語辞典』のミスタイプですが、これ、『新国語辞典』と名のつく辞書名を入力するとき、『深刻語辞典』と並びよく変換をしくじる候補の一つですから、わかります、わかりますよ。
さて、『学研現代新国語辞典』のタイプミスの他にも、さらに数箇所の間違いがあるのではないかと睨んでいます。
それぞれの辞書の発行日を見てみますと、上からおおよそ古い順に並んでいることがわかります。版の記載がない『集英社国語辞典』は初版、『岩波国語辞典』は第5版だとすると*4、以下の通り、位置はぴったりです。
コンサイス外来語辞典4 | 1987.4.1 |
学研国語辞典2 | 1984.1.20 |
大辞林1 | 1988.11.3 |
新明解国語辞典1 | 1972.1.24 |
デイリーコンサイス国語辞典1 | 1991.3.15 |
広辞苑4 | 1991.11.15 |
旺文社国語辞典8 | 1992.10.25 |
三省堂国語辞典4 | 1992.2.10 |
現代国語例解辞典2 | 1993.1.1 |
集英社国語辞典(1) | 1993.2.25 |
新選国語辞典7 | 1994.1.1 |
学研現代新国語辞典1 | 1994.4.1 |
コンサイスカタカナ語辞典1 | 1994.9.1 |
岩波国語辞典(5) | 1994.11.10 |
デイリーコンサイス国語辞典2 | 1995.4.1 |
このルールから大きく外れているのが、『学研国語辞典』第2版(1984年)と『新明解国語辞典』初版(1972年)です。怪しいですね。
『新明解国語辞典』は、1989年11月10日発行の第4版ならこの位置で問題ありません。正しくは4版なのでしょう。
『学研国語辞典』は、今やマイナーな学習辞書で、表の辞書の中では少々浮いています。これは中規模の辞書『学研国語大辞典』の間違いではないかと思います。『学研国語大辞典』第2版の発行は1988年2月10日で、位置的にもばっちりです。
あと、細かいですが、発行日でいえば『旺文社国語辞典』と『三省堂国語辞典』の位置は逆です。
別の場面で、この資料の名前が「国語辞典各種の刊行年」であることがわかります。上の画像の右側にも、年月日が羅列されたプリントアウトが映っていますが、これも同じ資料のようです。一つ一つ特定するのはみなさんの楽しみとしてとっておきたいと思いますが、たとえば「1972-1976」は『日本国語大辞典』ですね。
タイアップ辞書
タイアップで登場したのは角川書店の『新字源』改訂版(1994年)でした。改訂してくれ。
まとめ
リン太が心配。
関連エントリ
前回
次回
(11月6日頃予定)
*1:舟を編むをAmazonビデオ-プライム・ビデオで https://www.amazon.co.jp/%E8%8C%AB%E6%B4%8B/dp/B01MEDFUNK/ref=sr_1_1?s=instant-video&ie=UTF8&qid=1476365243&sr=1-1&keywords=%E8%88%9F%E3%82%92%E7%B7%A8%E3%82%80+%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1 2016/10/28閲覧
*2:物書堂版iOSアプリ「大辞林」Version 4.1による
*3:2016/10/30現在
*4:アニメの舞台と推測される2000年に『集英社国語辞典』の第2版が刊行されます。『岩波国語辞典』に版の記載がないのは単なるミスだと思われます