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1908年(明治41年)に開始された日米野球の試合結果等を写真付きで紹介しています。
Counter
S9 Bルース S9 Bルース S26 ディマジオ S30 ヤンキース
S31 ドジャース S43 カージナルス S46 Hアーロン S53 レッズ
S54 ニークロ S61 サンドバーク H2 フィルダー H4 クレメンス
日米野球の歴史 〜メジャーリーガー来日の歴史〜
チーム 成績  試    合    概    要
2006年
(H18年)
大リーグ
オールスター
0勝5敗 メジャー選抜が5戦全勝
メジャーオールスターとの対戦では、1934年、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックらの来日時以来となる72年ぶりのシリーズ全敗となった。
今回もメジャーの超一流選手が来日。特にMLB選抜打線は、長打力に関する限り、長い日米野球史上でも屈指の顔ぶれとなった。ラインアップの中心は、今季メジャー最多の58本塁打、149打点で二冠王に輝いたライアン・ハワード。そして、昨年51本塁打のアンドリュー・ジョーンズ(ブレーブス)だ。
さらに、昨年のワールドシリーズMVPで、今期44本塁打のジャーメイン・ダイ(ホワイトソックス)など、20本塁打以上のスラッガーが野手15人中8人、二ケタ本塁打13人という、超重量級打線だった。
メジャー3年目、ツインズの正捕手ジョー・マウアーは23歳。ジーター(ヤンキース)との熾烈なデッドヒートを制し、打率3割4分7厘で首位打者に輝いた。ア・リーグでは初となる捕手の首位打者となった。
日本人選手は、マリナーズの城島健司選手が日米野球通算打率0.167、また、と井口資仁(ホワイトソックス)が日米野球通算の打率0.286に終わった。
なお、MVPには、5試合で4本塁打、打率5割5分6厘をマークしたハワードが選出された。

NPBは有力選手が次々と出場を辞退していた。
2004年
(H16年)
大リーグ
オールスター
3勝5敗 今年のワールドチャンピオンに輝いたレッドソックスからは、ア・リーグ本塁打王マニー・ラミレス外野手にデービッド・オルティス内野手が出場。2年連続ア・リーグ盗塁王のカル・クロフォード外野手、通算328勝のロジャー・クレメンス投手、石井一久、大塚晶則の両日本人投手など豪華なメンバーが出場!
NPBは、4連敗後、岩隅・松坂・上原が好投し、3連勝!最終戦に敗れたが、見応えのあるシリーズだった。MVPには、シリーズ通算打率.407、2ホーマーと勝負強さをみせたバーノン・ウェルズ選手(ブルージェイズ)が選出された。
2002年
(H14年)
大リーグ
オールスター
3勝4敗 NPB3連勝後、4連敗。イチロー最終戦4for4で打率355。バリー・ボンズ4戦目で3号放つもその後不発。MVPは、好手連発のトリイ・ハンター(ツインズ)
2000年
(H12年)
大リーグ
オールスター
2勝5敗
1分
大魔神佐々木来日、9回登場しパーフェクトピッチング。MVPは4ホーマーを放ったボンズが、敢闘賞は打率444の仁志が選ばれた。
1998年
(H10年)
大リーグ
オールスター
2勝5敗 大リーグ選抜は、ソーサ、ラミレス、ボンズ、ガルシアパーラといった打撃陣に加え、投手陣はシリング、ホフマン、ゴードンが来日。2勝だったが大健闘といえる?
1996年
(H8年)
大リーグ選抜 2勝4敗
1分
ドジャース野茂が来日。松井、イチローと対戦した。選抜チームは、マイク・ピアザ、バリー・ボンズ、カル・リプケンと言ったスーパースターが揃った。
1993年
(H5年)
ロサンゼルス
ドジャース
2勝0敗 久しぶりに単独チームが来日。監督はトミー・ラソーダ。調整不足で連敗した。これ以降、単独チームの来日はなくなって、大リーグ選抜が2年おきに来日することになった。
1992年
(H4年)
大リーグ選抜 1勝6敗
1分
前回の屈辱戦。ロジャー・クレメンス、ケン・グリフィーJr中心に一気に大反撃。実力の差を見せつけた。日本チームは野茂もいたが打ち込まれた。
1990年
(H2年)
大リーグ選抜 4勝3敗
1分
ロベルト・アロマー、セシル・フィルダー、ケン・グリフィーJr、ボンズといった、現役世代の大スターが来日したが、選抜チームで日米野球史上初の負け越しを喫した。
1988年
(S63年)
大リーグ選抜 2勝3敗
2分
スパーキー・アンダーソン率いるオールスターチームが来日。アンドレス・ガララー、グレッグ・マダックス、ハーシュハイザーといった顔ぶれだった。日本チームは、桑田、工藤が登場した。
1986年
(S61年)
大リーグ選抜 1勝6敗 サンドバーク、ホセ・カンセコ、トニー・グイン、大リーグNo1強肩のペーニャ、リプケンと超大物が出そろった。均衡した試合が多かったが1勝に終わった。
1984年
(S59年)
ボルティモア
オリオールズ
5勝8敗
1分
1983年にワールドシリーズで優勝したオリオールズが来日した。鉄人カル・リプケンJr、マレー(今大会9ホーマー)が目立った。初戦は、広島の川口が6安打10奪三振で完封した。
1981年
(S56年)
カンザスシティ
ロイヤルズ
7勝9敗
1分
前年リーグを制したロイヤルズが来日。日本は原、篠塚、中畑、江川、落合が中心となり、ゲームは均衡した。
1979年
(S54年)
大リーグ選抜 1勝1敗 ドン・ベイラー・フィル・ニークロ・ロッド・カルーといった大スターが来日。日本で大リーグオールスターゲームも開催され、ニークロの大活躍でナ・リーグが優勝。全日本チームとの対戦では、2試合のみであったが、1点差1勝1敗という好ゲームだった。
1978年
(S53年)
シンシナティ
レッズ
2勝14敗
1分
なんといっても4000本安打のピート・ローズ。ビック・レッド・マシーンと呼ばれた打撃力を見せつけた。ピート・ローズは16試合連続安打を放った。
1974年
(s49年)
ニューヨーク
メッツ
7勝9敗
2分
トム・シーバーをはじめとした投手力に魅力のあったメッツは、前年のリーグ王者ながら、日本の投手陣に苦戦した。特別参加のハンク・アーロン(ブレーブス)と王貞治による世紀のホームラン競争などイベントにも注目が集まった。
1971年
(S46年)
ボルティモア
オリオールズ
2勝12敗
4分
ア・リーグ優勝のオリオールズが来日。20勝投手を4人を擁し、第7戦の巨人戦でドブソンがノーヒットノーランを達成した。ONのアベックホーマーもあり見所が多かった。
1970年
(S45年)
サンフランシスコ
ジャイアンツ
6勝3敗 春季キャンプに来日したジャイアンツだったが、寒さのため、体調を崩し負け越し。監督キングの解任騒動まで起こった。
1968年
(S43年)
セントルイス
カージナルス
5勝13敗 カージナルスは、盗塁・エンドラン・バンドを駆使し、機動力を全面に押した野球でファンを魅了した。ボブ・ギブソン、ルー・ブロック、オージー・スミスといった俊足選手が大活躍した。
1966年
(S41年)
ロサンゼルス
ドジャース
8勝9敗
1分
ニューヨークから本拠地を移転したドジャースが優勝を飾った上、来日した。後に日本でも活躍したデービスやラフィーバーもこのときのメンバーの一員だった。日本チームは王が5本塁打を放ち大健闘した。
1962年
(S37年)
デトロイト
タイガース
4勝12敗
2分
11月17日、後楽園球場で村山実(阪神)が2安打6三振と日本チーム初の完投を飾った。日本チームは、金田、長嶋、王、広岡などの名選手が活躍した。
1960年
(S35年)
サンフランシスコ
ジャイアンツ
4勝11敗
1分
ニューヨークからサンフランシスコに本拠地を移したばかりのジャイアンツがウイリー・メイズを擁して来日。初戦の巨人と第2戦の全日本選抜が連勝したが、その後は、実力を見せつけられた。。
1958年
(S33年)
セントルイス
カージナルス
2勝14敗 カージナルス初来日。メジャーでは下位チームであったが、圧勝した。西鉄の中西が3本塁打を放った。「ザ・マン」と言われたミュージアルの美しいスイングにも注目が集まった。
1956年
(S31年)
ブルックリン
ドジャース
4勝14敗
1分
ドジャースが優勝を果たして来日。初戦に川上(巨人)が2本塁打を放ち勝利した。黒人初の大リーガー、ジャッキー・ロビンソンやロイ・キャパネラ(捕手)、ドン・ドライズデール(投手)など、スター揃いであった。
1955年
(S30年)
ニューヨーク
ヤンキース
0勝15敗
1分
リーグ優勝チームのヤンキースがベストメンバーで来日。ステンゲル監督率いるチームは、23日間で16試合という強行日程にもかかわらず、ヨギ・ベラ、ビリー・マーティン、ミッキー・マントルなどを中心に1試合平均8.3と打撃力を見せつけた。
1953年
(S28年)
ニューヨーク
ジャイアンツ
1勝12敗
1分
読売新聞社は独自にジャイアンツを招き、巨人、セ・リーグ、日本オールスターが対戦した。同時期にオールスターが来日していたためスター選手は少なかったが圧勝した。
1953年
(S28年)
大リーグ選抜 1勝11敗 この年は、読売、毎日の両社がチームを招致。以降交互にチームを招くという協定が締結された。ヤンキースの名捕手ヨギ・ベラや12試合で12本塁打のサウアーなどが大活躍。毎日オリオンズが1勝したのみ。
1951年
(S26年)
大リーグ選抜 1勝13敗
2分
ジョー・ディマジオが外野手兼監督として大リーグオールスターチームを引き連れて来日。エド・ロパット、メール・パーネルといった豪華投手陣に、後にヤンキースの監督となるビリー・マーティンやディマジオ兄弟で弟のドミニクなど大物揃いであった。
1949年
(S24年)
サンフランシスコ
シールズ
0勝7敗 1936年にプロ野球が発足した日本であったが、第2次世界大戦の影響でアメリカ軍との対戦はストップ状態。戦後初めて来日したが、3Aのサンフランシスコ・シールズだった。
1934年
(S9年)
大リーグ選抜 0勝16敗 大監督コニー・マックがベーブ・ルース、ルー・ゲーリックなどオールスターチームを率いて来日。日本は初めてプロチーム「全日本軍」を作って迎え撃った。全敗であったが11月20日静岡草薙球場で17歳の沢村栄治が見せた力投は、今でも語り草に。
1932年
(S7年)
ロイヤル
ジャイアンツ
1勝23敗 1927年に来日したチームが再び来日。今回は、関西や中国、九州まで遠征して、地元の社会人クラブチームと対戦した。広島専売が一矢を報いた。
1931年
(S6年)
大リーグ選抜 0勝17敗 読売新聞社、正力松太郎社長の招きにより、Hハンターが大リーグ選抜チームを率い来日した。鉄人ルー・ゲーリックや超剛速球投手レフティ・グローブといった大物も登場した。8試合が完封負け。2桁得点7試合と完敗した。
1927年
(S2年)
ロイヤル
ジャイアンツ
0勝23敗
1分
1920年にできたニグロリーグが混成し、ロイヤルジャイアンツを構成して来日した。三田クラブ、同志社大学、関西大学など大学チームを中心に対戦した。
1922年
(T11年)
大リーグ選抜 1勝16敗 1920年に来日した。Hハンターが大リーグオールスターを率いてやってきた。東京6大学チームを中心に17試合を戦った。第7戦の慶応連合が9−3で勝利した。これが、日本チームの初勝利であった。
1920年
(T9年)
オールアメリカン
ナショナル
0勝6敗 3Aチームを中心として2人のメジャー経験者のチームであったが、惨敗した。Hハンター選手(Rソックス)は、翌年の1月中旬まで日本に留まり日本の大学チームを指導した。
1913年
(T2年)
世界周遊
野球チーム
0勝1敗 NYヤンキースとシカゴ・ホワイトソックスの2球団が「世界一周野球団」としてヨーロッパや東洋を回る一環として来日。日本では、3試合行われ、そのうちの2試合は、ジャイアンツ対ホワイトソックスでホワイトソックスが2勝。もう一試合が連合軍対慶応大学で16−3と連合軍圧勝であった。
1908年
(M41年)
リーチオール
アメリカン
0勝17敗 大リーガー6人を含むチームが来日。日米野球記念すべき第1戦となる、11月22日の早大戦を皮切りに、慶応、東京クラブ、横浜連合、神戸連合などと合計17試合を戦った。P.プラハティ(ボストンブレーブス)によるわずか40分もパーフェクト試合の記録(早大戦)も残っている。