2015年05月27日
株の買い占めに踊らされた歴史/アサヒビール名誉顧問 元アサヒビール代表取締役副社長 中條高徳
企業家倶楽部2001年1/2月号 アサヒビール奇跡の真実 vol.10
十全会によるアサヒ株の買い占め事件が起き、これを切り抜けると、旭化成が大株主になっていた。旭化成は苦境にあるアサヒビールを強力に支援してくれたが、その背後には何があったのか……。そして、さらに衝撃的な事実が明かされる。
1927年、長野県生まれ、72歳。陸軍士官学校に学んだ後、52年、学習院大学文政学部卒業、同年アサヒビール入社。82年、常務営業本部長に就任。アサヒビール生まれ変わり作戦を企画立案、実施の指揮を執る。88年、代表取締役副社長、90年アサヒビール飲料代表取締役会長就任。96年アサヒビール特別顧問。98年アサヒビール名誉顧問。98年5月、朝日ソーラー販売の経営顧問に就任する。
*中條高徳氏は2014年12月24日、87歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
戦後、アサヒビールの苦しい歴史に、さまざまな株のトラブルがありました。
一番大きな事件は、京都の精神病院、十全会による株の買収です。十全会の赤木孝理事長は陽明学者で、正しくないことを許さない人でした。銀行は特定企業の株を五%以上持ってはならないという規則があったので、住友銀行はアサヒビールの株をそれほど多く持っていたわけではない。にもかかわらず、アサヒビールに歴代社長を派遣して、わがもの顔をしているのはけしからん。そういう論理で、アサヒ株を大量に買い占めました。
赤木理事長の行動は陽明学に裏づけられた正義の行動という面も持ち合わせていたので、私の心は微妙に揺れました。社員や特約店には住銀支配を快く思っていない者が少なからずいました。延命さんへのアレルギーも日増しに増加していました。しかし上場企業で株を買い占められるということは経営基盤の脆弱さを意味していました。
私の心は企業人として千々に乱れ、平重盛のような心境でした。社員や特約店の気持も痛いほどわかるが経営陣に参画している身で軽挙妄動は許されない。企業のイメージが崩れることは即商売が難しくなり、業績の低下につながる。これ以上の業績悪化は企業の破滅を意味します。
当時、延命社長はアサヒビールの幹事証券会社であった野村証券の福田康之さんに帯同してもらって赤木理事長を訪ねました。しかし、三千床もの大病院経営者としての自信、蓄積した富の大きさ、陽明学に裏付けされた信念などが重なり合った赤木理事長には「全く歯が立たず、位負けがあまりにもはっきりしていた」(福田氏)といいます。また総務担当の常務も赤木理事長を訪ねたが全く太刀打ちできませんでした。
入社時からアサヒの命運を担うという大それた考えを持っていた私は大阪支店長であり、末席といえども取締役。男たる者、たたずんではならず……と血がさわぎました。「葉隠」で説く「御家を一人して荷い申す志」のような気持で、生意気にも「赤木理事長のところへ私を行かせてほしい」と延命社長に申し出たのです。
延命社長は言下に「お前は当社の一番大事な大阪市場の最高責任者じゃないか。こんなことは俺に任せてお前はビールを売れ」と拒否されました。いまだに残念に思います。私みたいに心臓が強く、少々柄の悪いのが行ったら一発で解決したかも知れないとの自負を持っています。しかし私も気質的に陽明学派の方だから、あるいはミイラ取りがミイラになって、十全会と手を組んでしまったかも知れません。野村証券の福田康之氏の証言によると、赤木氏は亡き山本為三郎を思慕していたふしがあったという。歴史に「if(イフ)」はないけれど、今の現実と重ね合わせて考えると、唯々感無量です。
延命社長は、勘でこのことを見通したのかも知れません。今、こういうアサヒになれたことを見れば、延命さんがあのとき私を抑えたのは正しい選択だったともいえます。
十全会事件が起きた時に住友銀行は、会長だった堀田正三さんが厚生大臣の園田直さんと懇意だったおかげで厚生省と監督官庁の国税庁、そして警察庁を動かして三者協議会を組織してくれました。アサヒビール株式奪還会議といってもいいでしょう。そして、たとえば十全会病院は入院患者に、おむつ三枚しか交換していないのに五枚交換したことにして請求したのでは、というような些末な部分まで徹底的に追求した結果、赤木さんはギブアップして株を戻しました。
今では、株の価値を上げるために償却したり、いろいろな操作ができる立法がなされましたが、当時は内部で持っているだけで違法行為でした。戻ってきた株をどうするかが問題になったちょうどその頃、旭化成工業はアイルランドの事業で損害を被り、土地等を処分する状況にありました。
旭化成は第一勧銀と住友銀行が並行メインの取り引きで、持ち合いの株式が第一勧銀より住友の方が余計に持っていた。その出ている分を売らせてくれませんかと、旭化成は住銀に頼みに行った。ちょうどそのとき住銀側では、アサヒ株の嫁入り先を探していた時だった。まさに飛んで火に入る夏の虫の感があったのでしょう。
住友銀行がその時どんな提案をしたのか、知る術もありません。旭化成の宮崎輝さんは長期政権で中堅の祖、別名ダボハゼ経営ともいわれ、葬儀業以外はなんでもやるといわれたくらいのたくましいリーダーでした。酒類部門も福久娘などをお持ちでしたが、酒類業界全体からいえばさしたる地位ではなかった。ですから想像すると、住友銀行は「宮崎さん、あなたの旭化成王国にビールを加えたら、完壁になるんじゃないですか」といった提案をしたのではないかと推察します。
旭化成はこの話に乗って、アサヒビールの株を引き取り、すぐにアサヒとの協力体制を作ってくれました。その責任者が現在の会長、山口信夫さんで、こちらの責任者が私です。私としては、そうした背景から考えて、相当の企みがあるのではないか、身売りをしているのではないのかと思いますから、緊張みなぎり警戒の気持ちで事にあたりました。ところが奇遇にも、山口さんは私の士官学校の二期先輩で恩賜の大変すぐれた方でした。士官学校の関係というのは、疑う余地なし。両者にとって幸いだったと思います。万全の協力がなされました。私も延岡に何回通ったかわかりません。旭化成発祥の地、延岡の支店長に八田君という総司令官がいて、彼もまた士官学校出身で私の一期後輩でした。十全会の株を回収したことによって、アサヒビールと旭化成の連合体に軍人のつながりができ、それがずいぶん役立ちました。
この時にしみじみ感じたことがあります。住友銀行もアサヒをずいぶん応援してくれました。応援してもらって言うのも失礼ですが、住銀の応援はいわゆる上品すぎたのです。たとえば居酒屋でアサヒビールを注文して「あんた住友銀行じゃないの」と言われるだけで「じゃあ、なんでもいいです」とすぐ退いてしまう。お義理の指名なんです。住銀の人たちはエリート過ぎたのでしょう。
一方旭化成の応援は百姓っぽいというか侍的でした。アサヒビールでなかったら絶対に嫌だと言って帰ってしまう。一番極端な例を挙げると、宮崎さんは延岡にあるサッポロビールの特約店をご自分の会社で買ってしまいました。
しかし、社員をアサヒビールに派遣すると言われたときは身構えました。プロパー指揮官としては警戒せざるを得ません。将来のために、そういう方程式はよくありませんと訴えました。山口さんを長とするアサヒビール推進協議会で、私は次のように提案しました。「何名よこしていただいてもけっこうですから、アサヒビールからも優秀な社員を同じ人数だけ、おたくに国内留学させてください。そうしたら占領されたという認識でなく、双方に暖かい理解が進むから」と。
それが受け入れられて、現在(アサヒの系列である)ニッカウヰスキーの専務をしている高橋達史郎さんやアサヒビールの近畿の総本部長をしている築山知明さんが一期生として行きました。むこうからは旭化成さんの食品部門の役員からJTに行った野村邦男さんをはじめとする優秀な人たちが来ました。歴史の綾というべきか、このご縁は今でも続いています。
今はだいぶ増資しましたから比率は落ちましたが、旭化成の持ち株比率は当時約三〇%ありました。その後にアサヒビールは復活しましたから、すぐに利益が出ましたよ。やはり儲けるためにではなく、人助けのためにやったことは儲けを生むものですね。
旭化成はアサヒビールにとって大切な命綱でした。住友銀行から亀岡さんという人がアサヒビール会長として来られました。住友銀行で旭化成にもっとも近く、よく知っていた人でしたから、専らこの問題の処理のために来られたのです。
亀岡さんがおられる取締役会で、私は一つの懸念を議題にしました。「はなはだ生意気な仮説を立てますが、もし私が旭化成の社長だったら、こんなボロ株、明日の命のわからないものを引き受けません。住友銀行と旭化成の間に、何か特別のお約束があるのではないでしょうか」と言いました。
亀岡さんは穏やかで誠実な人ですから、そういうお約束事はありませんと答えてくれました。私にしたところで、約束があったとしても答えてくれるはずはないと思っていたのですが確認し、取締役会の記録に残す必要があると思ったのです。残しておかないと、アサヒビールの役員はいかにおめでたかったかと、後々を引き継ぐ社員たちから思われてもかわいそうだと思い、記録だけは残すつもりでした。その後の社員派遣や延岡のサッポロ特約店買収などといった動きを見ると、私の推察はあたっていたと今でも思います。もう少し時がたてば山口さんは真実を語って下さると期待しています。
今のようにベンチャー企業家がどんどん株を上場している時代、上場についてはいい話ばかりが伝わりますが悪いこともあります。株を上場することは狙われる可能性があるのです。 大阪に松下商店と祭原商店があります。飲料流通業界の人なら誰でも知っている二横綱で、松下商店は松下が先かアサヒビールが先かというぐらいの大阪高麗橋の名門。内容堅固です。味の素やアサヒビールの株を大量に持っている、それだけでもすごいことでした。一方、祭原商店。最近は株式会社祭原になりましたが、こちらはかつてユニオンビールの大手特約店で、食品がメインで、これまた大変な名門でした。しかし、戦後取引先の破綻などで経営が不安定だったのです。メインバンクは住友銀行備後町支店でした。
話は昭和四十一年に遡ります。二月四日に山本為三郎が急逝しました。山為さんは祭原の相談役を引き受けるほどの深い関係にありました。しかし、山為さんが亡くなって後ろ楯がなくなった。その時の住友銀行備後町支店長が延命さんでした。山為さんが亡くなった後のアサヒビール新政権は中島正義さんです。
延命さんはアサヒビールに、祭原の経営安定化のため株を持ってほしいという要請をしてきました。ところが中島社長は名家の出(父は近衛師団長、兄は三菱の中島正樹氏)で、いい社長ではあるが決断力に乏しかった。うちに力がないのに、危ない祭原の株まで担ぎ込めないと、これを断りました。これが正しいかどうか、論じるべきではありませんが、延命さんは次に取引高の高いサントリーに行き、サントリーはこれを引き受けました。こうしてアサヒビールの二大担い手であった一方の祭原は、後にアサヒビール社長となる延命さんの取り計らいでサントリーの勢力下に入っていったのです。
もちろん延命さんにしたところで、その時はアサヒビールに来るなど一○○%夢想だにしていなかった。だから生意気な私は言いました。「延命さん、皮肉ですねえ」と(笑)。
延命さんは住銀では預金集めの神様といわれ、債券保全の銀行マンとしても優秀で、きちんと手は打っていた。延命さんがやっていたら住専問題など起きなかったんじゃないかとも思う。われわれにしたところで、読めないことですよ。しかし素朴な感情として、なんだよ延命さん、あなたのおかげでこんなに苦労する、と皮肉の一つも言いたくなるじゃないですか。私はいつもからかって、「延命さん、先見の明がなかったですなあ」と言っていました。事実は事実ですからね(笑)。
株には、そういう皮肉なところがあります。素敵であると同時に、恐ろしいものです。投資したり出資したりということは、大変なことです。だから経営者は、まず利益をあげるのが正義。集まっている社員の幸せの保証人ですから。次に、株主の信託に答える役割がある。だから株を上場すれば、即、株主への信託を問われるわけです。この点は国際的に見ても、今後さらに厳しく見られるようになるでしょう。
これはもうお話ししてもいいと思いますが、旭化成とのそういった関係があるのに、住友銀行がアサヒビールを売りにいったことがありました。東映の岡田茂社長(現会長)が、私とそのとき随行した山口桂二君(現アサヒプロデュース社長)に「君たち真剣にやっているけれど、住友銀行は君の会社を売りにいったよ」と言ってくれたのです。
ショッキングなことでした。まさに晴天の霹靂でした。
岡田さんの実家は東広島の岡田商店。アサヒビールの大特約店でした。そういうご縁でかわいがってくれたこともあって、ことの急を教えてくれたのです。腸が煮えくり返る思いでした。話を持ち込まれた先はダイエーの中内さんでした。中内さんに確認はとってありませんが、天下の岡田さんがいい加減な発言をなさることはないと思います。中内さんから岡田さんに相談があったのだそうです。
売りに行ったのは後にアサヒビールの社長となる樋口廣太郎さんです。当時住友銀行の業務本部長でした。安宅事件が面倒なことになったので売りにいったのかも…。それもあったと思います。樋口さんに直接確認したところ否定しませんでしたから、間違いありません。
銀行の発想として理解できます。冷静に考えれば銀行の最大の努めは「債権保全」です。最近の金融界の大揺れは債権保全が充分でなかったから起こった現象であることを考えれば、さすが住銀と評価すべきかも知れません。社長を何人派遣してもうまくいかない。ビールは難しい。日本一の売場を持っているダイエーに持ってもらえば、少なくともそこでは間違いなく売れるという、銀行の合理的な発想だったのではないでしょうか。
岡田さんは中内さんに断りなさいと進言したというのです。実家でビール戦線のことはよく知っている。明治以来ビールに参加して成功したためしがないと。それは岡田提案が正しかったんじゃないでしょうか。今のダイエーさんを思い合わせると、さらにその感を強くします。会社を売るということは、なるほど銀行(金融)の論理からすれば至極当然の行為です。特に最近、企業の離合集散や倒産の実例をあまりに多く目にしているので、常に冷静さを自分に求めているつもりですが、そこはそれ、修業の足らぬ身の故でしょうか。今でも思い出すとやりきれない義憤のような血が騒ぎます。心臓の凍るような情報です。ビールや飲料という大衆商品を扱う当社にとって致命的な情報です。
常日頃、企業のイメージを気遣っていた私は、その場で岡田社長に誰にも口外されないように懇願しました。社内に漏れたらそれこそ戦意喪失、大混乱が目に見えています。私は山口君にも死んでも口を割るな、上司にも部下にも絶対に口外してはならないと厳命しました。そして私と山ロ君は勝つ日まで、この無念さを塩漬けにしました。勝つ以外にこの恥辱を拭う日は来ないと深く心に誓ったのです。
株の移動で九九年七月一日、旭化成さんは食品部門をJTさんに身売りされました。旭化成さんも食品部門は黒字決算ですが、この事実は起きました。先述した通り、旭化成さんとの人事交流で第一次に派遣されてきた野村邦男さんがJTに行かれた中心人物です。過日、私は彼と運命のいたずらを語り合いました。さすが、旭化成の山口会長は直に来社され、「局地優勢」(得意な分野に戦力を集甲していく兵法の教え)の戦略のため涙を飲んで袂をわけられたとのことです。私は終生アサヒと共に生きていく。アサヒが日本一になった。結果よければすべてよし。しかし、十全会事件や企業売りはアサヒビールの歴史にとっても、私の人生にとっても大変な課題でした。アサヒの苦難の道程を知らない社員がほぼ七割になった今、「温故知新」を肝に銘じ、すべての社員が歴史に学んで進んでほしいものです。
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