ポケモンGOで事故。少額4年生の児童が死亡。事故はつねにいたましい。ご冥福をお祈りいたします。
ポケモンGOを運転中に操作して事故を起こした責任の所在をどこに求めるか。運転手か?ポケモンGOか?自動車メーカーか?などと話題になっている。
めずらしくツイッターなんか見ているとポケモンGOが悪いのではなく運転手に責任を求めるべきでポケモンGOを問題としてニュースの見出しをつけるのは間違っているなんてコメントを散見した。これに関しては僕は反対で人間が悪いという意見には意味がないと思っている。なぜかといえば「人間は何者にでもなれるから」。僕だって戦時中に生まれて戦地に駆り出されれば人を殺しただろうし場合によっては強盗だって働くかもしれない。人間は可変的でたまたま生まれてきた境遇、たまたま産み落とされた時代の条件や環境で何者にでもなれる。そうした前提がある。
だから前述のポケモンGOに責任を求めるのではなく運転手に責任を求めるべきという意見は今この2016年現在の価値観にかなっていない行動をする人間は悪いという意見であろう。しかし人間は可変的で外部の条件づけでいかなる行動もするのだからポケモンGOをしながら運転する程度の危機感で生きている人間がいても不思議ではない。その危機感のなさが良い悪いと断罪することは簡単であるが環境が無限であるかぎり人間のリテラシーも無限であるからポケモンGOをやりながら運転する人間は絶対にどこかには存在してしまう。つまりそれがどんなものであれ事故が発生することは避けようがないという結論になる。
じゃあどうするのか?メディアがポケモンGOをやりながら運転してはいけないと流布して事故の発生率を限りなく0に近づけていくしかないのか?ナイアンティックと任天堂は今回の事故にかんしては一切責任をとらなくていいのか?
行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用(功利、有用性)(英: utility)によって決定されるとする考え方である。帰結主義の1つ。「功利主義」という日本語の語感がもたらす誤解を避けるため、「公益主義」や「大福主義」といった訳語が用いることが提案されている
ここではポケモンGOと車の望ましさを主題として考えてみる。ポケモンGOをやりながら車を運転していたから事故が発生した。外部の条件はこの2つであって功利主義では事故が起きる可能性がある両者に共にマイナスの評価を与えそこに便益を足して望ましいのか望ましくないのか決定する。
車は毎年およそ4000人を殺しているが移動、宅配、運搬、物流などで便益をあげているので車は人を殺してでも存在すべきだと今の社会ではそういうことになっている。ポケモンGOはどうだろうかというとゲームをプレイする人が得る享楽は公園をうろうろするなどの運動から得る健康、プレイヤー同士をつなぐ人間関係などが便益として考えられる。デメリットは死亡事故、お台場のようにマスが無作為に急に集まること、または深夜徘徊、平和記念公園の静謐を壊す問題も見方によってはそうかもしれない。じゃあポケモンGOも車のように人を殺してでも存在していいのか?これは功利主義的に考えればかなり微妙だ。僕は死傷者がでたりこれだけあらゆる問題が噴出した時点でサービスを中止すべきだと考えているが微妙なところである。
車は凶器であり毎年たくさんの人を殺しているが車は車に代わるものがない。代替可能なものがないのだ。いっぽうポケモンGOはいうまでもなく娯楽であるが今の日本にはポケモンGOで得ることができる快楽を代替するものなどいくらでも存在する。運動の便益はウォーキングで代替できる。コミュニケーションは飲み屋に行けばいい。前述にしたように人間はなんにでもなれる。ポケモンGOが人を殺すのは避けようがない。そして人を殺す可能性のあるサービスをつくる必要などどこにもないのだ。
その意味で最大多数の最大幸福をテーマとする功利主義ではポケモンGOの便益はその代替可能性のぶんだけ差し引いて考える。するとおそらくポケモンGOはうーーーーんまあなくなったほうがいいんじゃないかという気が僕はしてくる。
まとめると人間は環境の動物なのでポケモンGOが殺人の着火剤であることは否定できないしポケモンGOの便益は代替可能だからたいしたことない。ゆえに功利主義ではポケモンGOを全面的に禁止すべきだと結論づける。もちろんこれは資本主義の原理に反するしカント主義にも反するので議論の余地は当然ありますね。