映画「The End of Evangelion」について



はっきり言って、私、この映画大好きです。
テレビ版25、26話のリメイクということで製作されたこの映画、もうエヴァの結末はこれしかない、というくらいの素晴らしさです。
エヴァという巨大な謎を孕んだ物語性をかなぐり捨てて、碇シンジくんの内面に焦点を絞ったことで、すっきりとした構成を得ました。
テレビシリーズでは、複数のテーマが錯綜して様々な局面を見せてくれましたが、こと映画版に関しては、とてもわかりやすいと思います。
映画の終盤で、LCLの海の中で一体に溶け合った綾波の手を握って「ありがとう」というシーンなんか最高ですね。

でも、この映画公開当時大方のファンの気持ちを裏切ったような、そんな印象がありました。
たしかにアニメらしい、ある意味明るいエンディングを望んだ人たちには、口の中に異物を突っ込まれたような、暴力的な話かもしれません。
テレビシリーズで垣間見せた魅力的な謎や伏線を、ほとんど無視した無責任な結末かもしれません。
それでも、「碇シンジくんの物語」としては、これが最良だったのではないでしょうか。

どうも庵野監督は損な性分ではないかとおもいます。
性分ってのも、変な言い方ですが、アーティストとしての感性が、ポジティブなものを肯定的に表現するよりも、ネガティブなものを否定的に表現する技術に長けているのではないか、言ってみれば、物事を「陰画」で表現したいのではないか、と、少なくともこの映画に関してはそんな風に受け取ってしまいました。
人と人はお互いに分かり合えるんだ!、という明るい場面で映画を終わらせず、分かり合う素晴らしさを描くために、分かり合えないつらさを対比として強調するわけです。シンジくんの心の中にいるカオルくんと綾波は、他人と分かり合えるという「希望」を体現しています。一方、「気持ち悪い」とシンジくんを拒絶するアスカは、他人に拒否される「絶望」を体現しているわけです。
先に「希望」を描写して、そのあと「絶望」を思いっきり強調するというのは、この物語にリアリスティックな彩りを与えるという監督の選択でしょうし、感性なんだと思います。

(2002/2/1)


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