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元コンサルタントな歴史家―ドイツから見た日本

大学で近代日独軍事史を研究する伊藤智央のエッセイ。ドイツと日本に関する批判的な評論を中心に海外生活(留学や移住)の実態をお伝えしています。その際には元戦略コンサルタントとしての経験も踏まえてわかり易くお伝えできればと思います。

【体験談】バラ色とは限らない、海外留学の1つの現実

ドイツ ドイツ-生活一般 語学 語学-ドイツ語

「留学」という言葉を聞いて、「素敵な海外の街での生活を楽しみながら、大学では外国人と対等にディカッションでやりあっている」というきらびやかなイメージを思い浮かべるかもしれません。留学して帰ってきたら、別人のように外国語がペラペラになると思っている人もいるかもしれません。

実際の留学生活とはどのようなものなのかの一例として、私の経験を挙げてみます。*1あくまで、一個人の体験として捉えてください。

以下挿入している写真は、当時私がとったものです。

フランクフルト空港(ドイツに到着したときの空港の様子*2

準備期間

大学(院)への入学が認められるためには現地語のレベルがある程度まで達していることを証明する必要があります。私の場合は、すでに日本で上級レベルの試験*3に合格していたので、特別な試験を受ける必要はありませんでした。

そのため、ドイツに4月ごろに来て、のんびりと観光したり、ドイツ語を勉強したり、完全にリラックスしきった生活を送っていました。何ら義務もプレッシャーもなく、解放感に満ちていたともいえます。何もかもが幸せでした。

海外旅行をすると、日本でもっていた悩みをすべて日本に置いてきたかのように、解放感を味わえるのと同じです。

ホーエンツォレルン城から見た風景

気持ちはこの写真のように晴れやかなものでした。

しかしこれが海外生活ではありません。単なるプー太郎生活です。そのときの幸せを例えると、土・日曜日よりも金曜日の夜のほうが、仕事からの解放感を感じられるのと同じでした。本当の地獄は大学とともに始まりました。

本当に田舎だった

今まで大阪と東京にしか住んだことのない私にとって、大学のあったドイツの町は田舎でした。本当に殺風景。しかも山だらけで平地が少なく、移動に一苦労です。車が欲しいとあのころほど思ったことはありません。

10月に引っ越しをしましたが、田舎の殺風景さに追い打ちをかけたのが、最悪の天気です。冬季に太陽を見ることは数えるほどしかありませんでした。

こうした環境要因が精神的に参らせる1つの原因となることすら、東京と大阪の天気しか知らない私には衝撃的でした。

下を見ても白(雪)、空を見上げても白(雲)。

環境が衝撃的とはいえ、初年に関しては、まだ耐えられる限度でした。これが、ボクシングのジャブのように効いてくるのは初年度以降です。

ちなみに寮は森の中にあり、窓から見える景色は、木、雪、雲でした。寮は丘の上にあり、谷を挟んで反対側の丘の上に大学がありました。そのため、大学まで行くのに一苦労です。雪が何メートルも積もった日には、大学までの何百段とある昇り階段は滑り台のようになっていて、毎日大学に行っているのか、雪山登りしているのかわからない状況でした。

どんよりとしたジーゲンの空模様

絶望の本当の意味を知った初年度

さて学業のほうはどうかというと、こちらも絶望的でした。

初めに出た授業(ゼミ)では、講師が方言なのか、癖のある話し方をしていたためなのか今となってはわかりませんが、話していることの10%ほどしかわかりませんでした。他の授業ではよくわからないままに、何か発表しなければならないということだけわかりました。

とりあえず、初週でわかったのは、一学期目で5-8個ぐらい発表が必要ということでした。もちろんこれに加えて、別の授業では筆記試験やレポートの提出もあります。

50人とか100人のドイツ人学生の前で発表・・・しかもドイツ史。いや・・・不可能でしょ。

「無理」というネガティブな考えが支配的となりましたが、とりあえず、絶対必要な授業だけに絞ることにして他は捨てることにしました。

ラテン語と、近代史の授業3つぐらいだったと思います。もう現実からの逃避でした。

何よりもつらかったのは、右も左もわからない環境の中、友達も出来ず、全く孤独だったことでした。誰も助けてくれない、先生の言ってることも虫食いのようにとぎれとぎれにしかわからない。しかも、試験や発表に合格しなければ、この地獄は終わらない/卒業できない、と思うと絶望を感じました。外から見ると死相が出ていたのかもしれません。

馬鹿にされているのを聞いたこともありました。私の隣で「日本人はバカだ」と。もしかしたら私のことを言っていたのかどうかはわかりません。ただ、当時の私にとっては、その時の雰囲気から、私のことを指して言っているとしか思えませんでした。

こうした「仕打ち」を受けて、家で泣きました。屈辱やら恐怖やら情けなさが入り交じり、精神的につらかったことを覚えています。

とりあえず、絞って取った授業だけは必死に食らいついて行って、何とかこなしました。

第2学期目も同じように過ぎました。つまり、無理に授業を取らずに、ゆっくりと自分のペースでやっていきました。

転機となった3学期目

転機が来たのは第3学期目からかもしれません。

ラテン語でドイツ人に「勝った」

今から思えば、強制的にとらされたラテン語の授業でいい成績をとったことが自分の成功体験となったのかもしれません。

ラテン語は、歴史学での卒業要件に含まれていました。多くの学生は学校でラテン語をやっているので免除となっていましたが、一部の学生はラテン語をやっておらず、彼らと一緒にラテン語の授業をとりました。ラテン語の単位は卒業単位に合算できるのですが、それは単位の一部で、卒業だけを考えると割に合うものではなかったので、半分不平を感じながらでした。

受講生が200人以上のマンモス授業で、始めは、「ドイツ人ばっかりで嫌だな」としか思っていなかったのですが、授業が進むにつれて多くのドイツ人はあまりの課題量に脱落者が続出。

冬学期+夏期補修+夏学期+冬季補修にわたる授業のうち、半分を過ぎた頃には受講者は3分の1になっており、理解度の点でも、私は1,2を争うほど上達しました。授業中に先生にも何度も褒められ、ドイツ人から見ると「アジア人なのに、何でラテン語が出来るんだ?よくわからん奴」と思われていたことと思います。

筆記試験と口頭試験を終えて、無事にラテン語資格*4を取ることができました。

このようにして、1年にわたるラテン語の授業で「成功」を体験した私は、それまでの私とは少し違っていました。何かふっきれたというか、落ち着いたというか、ドイツ人に対しても自信が出てきたのです。

スイッチが入った3学期目

ラテン語試験が終わる、ちょうどこの3学期目の始めに、「もうどうなってもいいから、発表でもなんでも来い」と思って、授業をかなり詰め込みました。

発表の課題でも、このテーマについては自分のほうが知っていると思い込んで、何とか乗り切りました。確かこの時期は、2週間に1回くらいの頻度で、何かしたらのテーマについて30分ほど発表したと思います。

そして学期末には筆記試験。学期が終わって休みがくれば、レポートのための調査、執筆と休んだ日はほとんどないくらい、大学の課題に没頭していきました。

何かに没頭することで、大勢のドイツ人の前で発表することに対する恐怖を忘れようとしたのかもしれません。それともあえて、怖いと思っていることをすることで、恐怖に打ち勝というと思っていたのかもしれません。

この第3学期目があったからこそ、卒業できたのかもしれません。というのもこの学期を境に、かなりの単位をとっていったからです。

ドイツの大学院は日本の大学よりも3倍大変?

卒業に必要な単位数を比較してみると・・・

ちなみに、某国立大学の(文系)修士課程では、修士論文以外に必要な単位は30単位となっています。

必修単位12単位及び選択科目18単位以上を履修し、(中略)、修士の学位論文審査及び最終試験に合格することによって、修士課程を修了*5

それに対して私がドイツで卒業に必要だった単位は、90単位です。これとは別に修論も書く必要があります。*6

確かに同じ単位数でも、単位取得に必要な課題内容は違うかもしれません。その場合、同じ2単位であっても、大学や国が変われば単位のもつ意味が変わってきます。

しかし、ドイツの2単位と、上に挙げた某国立大学の2単位の大変さを比べると、ドイツ語のハンデを除いても、ほとんど同じくらいの課題量です。

ですので、ドイツで私がこなさなければならなかった勉強量が日本とは比べ物にならないことは理解できると思います。

ドイツ人学生のデモ

この課題の多さは、ドイツ人にとっても大変だったので、学業負担の理不尽なほどの大きさに反対して、大学制度の改革を求める学生デモもよく起きていました。

通常、出席を確認するために、授業中に出席簿を回してそれに一人ひとりがサインをしていくのですが、学生「活動家」はその出席簿が回ってくると盗んでいました。講師側もそのうち対策として、出席簿のコピーを事前にとるようになりましたが、この作戦は当初、講師側をかなり困惑させました。

他の抗議形態としては、大講堂を占拠して授業ができなくなるようにしたりということもありました。

1960年代の日本の学生デモのように、物を壊すというようなことはありませんでしたが、主張しないと誰も自分たちのためには動いてくれないという自主性が感じられて、貴重な体験だったと思います。

ようやく卒業が見えてきた4学期目以降

4学期目も3学期目と同じように、疲労困憊になるほど授業をとって、休みなく単位をかき集めていきました。そのかいもあって、2年目が終わるころには単位をすべて取り終わって、あとは6ヶ月ほどかかる修士論文に取り組むだけになりました。

結局2年強かかりましたが修士課程を卒業しました。同じ時期に修士課程を始めた人は、卒業までに例外なく3年以上かかっていたので、やはり大学システム自体に問題があったのではないかと思っています。

部屋に迷い込んできた野鳥。脳震盪を起こした様子(寮の部屋に迷い込んできた野鳥。窓ガラスに頭を打ったのかよろめいていて飛べない状態でしたが、介抱してあげるとすぐに飛んでいきました。寮が森の中にあったので、こういう思わぬアクシデントもありました)

結論:苦しさとは?

3学期以降に自分のペースがつかめてきてからも、本当に卒業できるかどうかはいつも疑っていました。卒業とは遠い遠い先にあることのように常に感じていたからです。しかし無事卒業できました。短い人生でしたが、精神的に一番苦しい時期でもありました。

ただ苦しい時期というのは、自分を変えたり、新しい環境に適応したり、新しい経験をしたりするから「苦しい」のだと思います。新しいことをしたり、自分を変えるというのは簡単なことではありませんし、外からの強制がなくては誰も進んでしたいと思うことではありません。

もし、単位もとる必要がなく、卒業もする必要もなく、いつでも日本に帰っていいという状況だったら、観光だけして、日本に理解のあるドイツ人とだけ交流して、プレッシャーもなく過ごしていたのではないかと思います。しかし、その分、必死に勉強することもなかったことから、ドイツに対する理解度も今とは違ったものとなっていたと思います。

しかし、苦しみとは、自分のしたくないこと、できないことをしていることから生まれる結果でしかありません。

もし、したくないことをすることで、今まで知らなかったことを知ることができたり、できないことをする努力によってそれが出来るようになったりというように、今まで見えなかった景色が見えるようになるのであれば、その苦しみはポジティブに捉えることができるのではないでしょうか。

私の場合、この大学院時代に頑張った恩恵を今に受けていますが、当時の自分にこのことを言っても伝わらないほど、つらい時期でした。*7

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*1:ちなみに私は2000年代後半からドイツの田舎にある大学院に留学してドイツ史を勉強しました。これはあくまで正規留学の例なので、語学留学や交換留学は事情が異なるかもしれません。加えて、文系の話しが中心となります

*2:今から考えると、この美しい夕焼けの空は、次に来る夜を予感させることから、その後の留学生活を暗示していたのかもしれません

*3:ZOP。C2レベルに相当

*4:Großes Latinum

*5:引用元:総合法政専攻について(修士課程) | 総合法政専攻のご紹介 | 大学院総合法政専攻 入学・進学希望者 | 東京大学法学部・大学院法学政治学研究科

*6:あくまで文系の例です。以下、同様

*7:留学生活は個人によって差があります。以上は、あくまで個人的な感想です。ただ、他の人に同じような体験を勧めるかと言えば、私はためらってしまいます