激動の時代を生き抜いた皇族が亡くなられた。昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父の三笠宮崇仁さま。日本軍参謀として中国・南京に赴任した経験から、戦争への悔恨を抱き続けた生涯でもあった。
三笠宮さまの南京赴任は陥落から約五年後の一九四三年。軍紀の乱れを知り、現地将校を前に「略奪暴行を行いながら何の皇軍か」などと激烈な講話をしたという。
当時を回顧した著書に「内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」と記している。非難する文書が三笠宮さまの周辺に配られても、批判的な視点を変えることはなかった。
国民により親しみがあるのは歴史学者として古代オリエント史の研究に情熱を注いだ姿だろう。
戦後、東大文学部の研究生としてヘブライ史を学んだ。五四年には日本オリエント学会の会長に就任。東京女子大や青山学院大の講師として二十年あまり教えた。大学には電車で通い、学食でうどんを食べることもあったという。
「紀元節」復活の動きには、五七年に歴史学者の会合で「反対運動を展開してはどうか」と呼び掛けた。歴史学者として、学問的根拠のあいまいな「歴史」には異を唱えざるを得なかったのだろう。
反発した復活賛成派が三笠宮邸に押しかけるなどしたが、自らの見解は曲げなかった。
しかし、戦後の皇室の在り方を振り返ると、国民とともに歩み、国民に寄り添う存在であってほしいというのが国民の願いであり、皇室自身も目指してきた姿ではなかろうか。
つい先ごろ、天皇陛下が生前退位を望まれ、ビデオメッセージで静かに、また力強く、その胸中と意思を述べられたのは記憶に鮮やかであり、陛下の人間としての魅力と存在感に、聞く者は深く胸打たれもした。
同時に、日本の皇室の在り方について、国民一人ひとりが考える機会ともなっている。
三笠宮さまの率直な発言や親しみにあふれた行動を振り返る時、そこに皇室・皇族のひとつの理想像を思い浮かべてもいい。
昭和天皇の兄弟がすべて亡くなられ、昭和は遠く離れるが、戦争の時代を含め、皇室が私たちに語りかけるものは少なくない。
この記事を印刷する