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【社会】津波犠牲、大川小に過失 県・市に14億円賠償命令東日本大震災時に学校で最大の津波被害を出した宮城県石巻市立大川小を巡り、死亡・行方不明になった児童七十四人のうち二十三人の遺族が市と県に計約二十三億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、仙台地裁は二十六日、計約十四億二千六百万円の支払いを市と県に命じた。 学校側は津波襲来を予見できた上、助かった可能性が高い裏山を避難先に選ばなかった過失があると認定。全国の学校防災の在り方に影響を与えそうだ。 大川小は海岸から約四キロ離れ、津波の浸水想定区域の外だったが、高宮健二裁判長は判決理由で「津波到来七分前までに教員らは、標高一・五メートル前後の校庭にとどまっていれば、児童の生命身体に具体的な危険が生じると予見できた」と判断した。学校の前を通った市の広報車が、津波の接近を伝え、高台避難を呼び掛けたのを教員が聞いたことを理由とした。遺族が主張した通り、裏山を避難場所とすることに支障はなかったとも指摘。「被災を回避できる可能性が高かった裏山に避難しなかった結果、津波に巻き込まれた」と、学校側の過失と死亡との因果関係を認めた。標高約七メートルの堤防付近に向け移動したことについては「六〜十メートルもの津波が予見される中、避難場所として適していなかった」とした。周囲の津波の高さは約八・七メートルだった。 判決によると二〇一一年三月十一日午後二時四十六分に震災の地震が発生。教員は児童を校庭に避難させた。遅くとも午後三時半ごろ、広報車の避難の呼び掛けを教員が把握。同三十五分ごろまでに、児童は約百五十メートル離れた堤防付近への移動を始めたが、同三十七分ごろ、辺り一帯を襲った津波で被災した。 ◆襲来まで51分 「山へ」2度訴えたが あの日、大川小で何が起きたのか。地震発生から津波が襲うまでの五十一分間を、仙台地裁の判決や市の資料から再現した。 午後二時四十六分、各学年とも、帰りの会が終わるころだった。ガタ、ガタと大きな揺れが襲う。児童らは机の下に潜り、必死に耐えた。「怖い」「お母さん」。泣き叫ぶ声が響く。石巻市内の震度は6強。揺れは約三分間続いた。 「落ち着いて避難しよう」。揺れが収まって教師が呼び掛け、児童らは校庭に並んだ。二時五十二分、校庭の防災行政無線が大津波警報の発令を伝えた。 三時前、校舎内の見回りを終えた教務主任が校庭へ。「山へ行くか」。裏山への避難を提案したが「難しい」という判断になった。校長は不在だった。 校庭では地震直後から、集まった保護者へ児童の引き渡しが行われている。「山さ逃げよう」。そんな声は、児童からも親からも上がった。児童は手をつないで「大丈夫」「大丈夫」と励まし合っていた。 「松林から津波が抜けてきた。避難を」。市の広報車が大川小の前を通り、拡声器で呼び掛けた。時刻は遅くとも三時三十分。「津波が来ますよ。どうしますか」。再び教務主任が裏山への避難を提案したが、教頭らから明確な答えはなかった。 教員たちは三時三十分から三十五分ごろ、川沿いの通称・三角地帯(標高約七メートル)を避難場所に決め、避難を開始した。約百五十メートル先で、標高一〜一・五メートルの校庭より五、六メートル高い。 移動を始めて間もなく、教頭が叫んだ。「津波が来ている」。津波襲来は三時三十七分ごろ。波は次々と児童をのみ込んでいった。列の前の方にいた五年の児童は、偶然流れてきた冷蔵庫の中に入り山へ流され、奇跡的に助かった。そこで土に埋まった同級生を見つけ、手で掘って助けた。 校庭にいた児童七十人余りのうち、助かったのはこの児童二人を含む四人。教職員は十人が犠牲となり、「山へ」と訴えた教務主任だけが生き延びた。 (東京新聞)
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