「ミスコンを主催する自由、参加する自由」があるというなら、こちら側の「見なくてよい自由」も保障してほしい。ただし、これは言い換えれば「見なくてよい自由」=「間接的にでもかかわらなくてよい自由」が保障されている限り、ミスコンには反対できないということでもある。大学主催のミスコンが「いちサークルの主催で行われる学園祭のいちイベント」であれば文句は言えない。こちらは、ただ黙って目を背けるだけである。
しかし、これが私たちの税金によって運営される団体によるものであれば、話は違ってくる。たとえば京都大学では度々、ミスコンが企画されては潰れるという「事件」が起きているが、国立大の公認サークルが企画するというのであれば、当然私たちの税金が一部でもミスコンに使われる可能性があるわけで、「関わらない自由」があやうくなる。国公立大学でのミスコンは基本的に反対だ。税金をつぎ込んで女性の外見を品評するくらいなら、奨学金の充実や研究費に充てた方がよほど社会のためになるであろう。
余談だが、この論理からいえば、地方自治体の実質的なミスコンである「何とか美人」「何とか大使」みたいなものもやめるべきだということになる。美しい女性が地方のPRになる、と言いたいのは理解できないこともないが、生身の人間を使うのはやめておくべきだ。どうしてもやりたいなら、2次元の美しいキャラクターに代わってもらえばよい。
筆者の主張は単純だ。民間団体が主催するミスコンには反対こそできないが、「見なくてよい自由」を保障してほしい。こちらが見なくてよいミスコンであれば、どんどんやればいい。成人雑誌のゾーニングのように、あちら側とこちら側を分かつものがあればよい。が、そんなミスコンがありえるだろうか。大学で開催されるミスコンはもはや年中行事と化しているし、特に首都圏のそれは週刊誌やネットメディアから注目を集め、大々的に報道される。
「ミス・キャンパスコンテスト」が、我々の視界から消えることはないだろう。つまりそれを見たくない人の自由は、ギリギリのところであやうい。ここまで肥大化したミス・キャンパスに、成人雑誌のようなゾーニングは難しいだろう。見たくない者は、鼻をつまんで目をそむけるしかない。自由という価値観が最上位にある限り、「ミスコンを廃止せよ」と叫ぶことの正当性は薄い。それでも我々には、「ある種のミスコン」に違和感を唱える権利があるし、女子学生を品評するその土俵がいつかまた、今回のような暴力事件と結びつかないことを祈る「自由」もある。