北条かや(著述家)

 卑劣で難しい問題である。「ミス慶応コンテスト」を主催する慶応大の「広告学研究会」の男子学生らが、同大の女子学生に集団で性的暴行を加えたとされるニュース。被害にあった女子学生はどれだけ苦しかっただろう。

 「不祥事」というにはあまりにも卑劣な暴力事件のために、今年のミス慶応コンテストは中止になった。当然というほかないし、もし性暴力を楽しむような「伝統」が同サークルに受け継がれているとしたら、それが「ミスコン」という「女性を容姿(≒性的魅力)によってランク付けするイベント」の主催団体であることに、直感的な嫌悪を感じた人もいるのではないか。大学におけるミスコンが、そのような「伝統」と一切無関係であると言い切れるのか。
2006年、ミス慶応に輝いたテレビ朝日の竹内由恵アナウンサー
 個人的な立場を明らかにしておくと、筆者は大学で行われるミス・コンテストのすべてには反対していない。が、賛成でもないし、積極的にやるべきではないという立場である。どっちつかずの曖昧さを残しているのは、「自由」をたてにされると何も反論できないからだ。

 「ミスコンに参加する女性たちの自由はどうなる」「イベントを開催する学生の自由はどうなる」そのとおり。自由は最上位に置かれるべき価値観だ。やりたい人はやればよい。が、筆者は個人的な意見として、女子大生が容姿によって序列化される品評会がまるで「一世一代のイベント」のように報じられ、場合によっては景品や広告提供などの名目で巨額のスポンサーがつく現実は「あまり見たくない」と思う。

 これは好みの問題で、筆者はできるだけ、その喧騒に巻き込まれたくないのである。大学では容姿のことなど忘れて学問に集中したいから、という理由もある。冒頭で述べたように、今回の慶応大サークルのように「性暴力を当然とする風土」をもつ団体が、ミスコンを主催していたという現実もあまり直視したくない。性暴力とミスコンが、どこかでつながってしまう気がするからだ。見たくもないものを、無理やり見せられているような気分になる。

 「考え過ぎ」「そこまで言わなくても」という意見もあるだろうが、そういう直感をもつ人間もいるということだ。ミスコンが人気を集める一方で、「ミスターコンテスト」が圧倒的に少ないのは、外見による序列化が男性より女性に優位に働くことを示している。そして、その序列化を当然とする態度が、ときに性暴力を当然とする態度につながる可能性はある。そこに直感的な怖さを感じる人間もいるのだ。