いや、人間いつかは死ぬものだが、とうとうヘビースモーカーである彼が『背中が痛い+咳が止まらん+血痰』に加え『レントゲンの影』という要素を手に入れてしまったので、肺がん三面待ち状態に入ったのである。
それを母親から告げられた時「あぁ‥‥‥」と思いはしたものの、しかしながら私の内心は至極平静なままであった。
なぜなら私にとっての父親とは、俗に言うところの、「毒親」であったからである。
地方から出て、遠方の大学に進学するまで、私は自分の家庭環境を、そこそこ満たされたものだと信じて疑わなかった。
ただ、幸福かと問われるたび、私は答えに窮していたように思う。
選択肢のない人生、強制された行動、友人関係やプライバシーへの過干渉、恫喝、賞賛と感謝の強要。
今振り返ればそれらのことが鮮明にわかるわけだけれども、当時は魔法のワード、「うちはうち、よそはよそ」が絶大な威力を発揮していたから、極端に視野が狭くなっていた可能性は非常に高い。
普通の家庭では誕生日に「お父さんお母さん、私を生んでここまでお金を出して育ててくれてありがとうございます」と土下座することはないらしい、と知った時は、非常に驚いたものである。
その他にも笑えるようなエピソードは山ほどあるが、インターネットの海を探ればクソほど類似した事例は出てくるので割愛することにしよう。
そういう経緯もあって、今は父親に対し「許すことはできないだろう」という冷ややかな思いを抱えているわけであるが、唯一、本当に一度だけ、私は明確に父親に救われたことがある。
色々あって大学在学中に不眠症からのコンボで破壊的なほど精神をやられ、屹立する薬袋を中心にした爆心地のような部屋から一歩も動けなくなった状態のもとに、母親と共にやってきた彼は、何も言わずただ私の話を黙々と聞いて、一言「わかるぞ」と零したのだ。
これはなんというか、怒鳴られる、と身構えていた私にとってはまさに青天の霹靂というか、全くもって鬼の霍乱とはこのことか、と内心叫んだほどの事件であった。
春休みの直前であったことも幸いし、約2か月間の静養の後、実家から2時間かけて通学しながら通院もするというミラクルを経て、(ついでに良い先生に巡り合えたという幸運もあって)結果的に私は留年も中退もすることなく4年で大学を卒業できた。
後に父親も大学4年の卒業間際に色々あって2年ほど失踪した時期があったと聞いたので、もしかしたら自分と重ねて何か思うところがあったのかもしれない。良く分からない。
なお余談ではあるが、私は中学時代にも高校時代にも精神をやられたことがある。
が、その度に恫喝されたので家にいるくらいならと必死に学校に通っていたという、まあそれもそれで地獄だったという話があるから一層このエピソードの異常性が際立つのだ。真相は藪の中である。
ただ、その後も結婚の件でやたら口を出してくるとか、アル中からのうつ病コンボになってくれたりだとか、息子(=私の兄弟)の方から縁を切られたりとか色々ありすぎたので、やっぱり私の中での心象はどうしてもマイナス側だ。
不幸ではなかった。ただ間違いなく幸福ではなかった。
父親が死んだら私の頭の上にある大きな重しが、きっとボカンと外れるだろう。
その先には何が待っているだろうか。ひとまずは空虚が来るはずだが、そのあとで私は私として何をするかを探さなければならない。
と、そろそろ文章を締めようという間際になってもう一つ思い出した。父親が私にくれたもの。
「思っていることがあるなら口に出してものを言わんか。それが出来んなら紙に書き出せ」と机を叩きつけながら恫喝してくれたあの日から、私は自分の考えをゆっくり文章にしてまとめる癖がついた。
文章一本だけで大学に進むことができた私は、今も趣味として文章に親しみ、生活を彩る糧としている。
ルサンチマンの塊のような文章を吐き出すたび、私は父親の影を見る。
良くも悪くも、私はこうして内心を書きだすたびに、父親に縛られ続けるのだろう。
今は、未知に対する恐怖が、胸中に渦巻いている。