ニセ科学批判批判具体例による擬似科学Q&A
〜ナショナリズムへの対処〜研究レポートテーマ例〜
暁 美焔(Xiao Meiyan) 科学哲学研究家, 2016.10.25
ニセ科学批判の目的とは一体何ですか?
ニセ科学批判者の目的は人それぞれですのでハッキリと答える事はできませんが、
「正しいとされている言説が、実際には根拠が十分でない事を科学的方法に基づいて明らかにする事」ではないでしょうか。
ニセ科学批判者がニセ科学批判をする正当性の根拠は何ですか?
ニセ科学批判者がニセ科学批判をする正当性の根拠は、「知的な責任(intellectual responsibility)」という概念にあります。
ノーム・チョムスキーの言葉を借りれば「知識人は真実を追求し、嘘を暴く責任があります(intellectuals should make themselves responsible for searching for the truth and the exposing of lies)」。
知識人は皆、「知的なノブレス・オブリージュ」を果たすべきです。
「知的な責任」とはいわゆる「通俗道徳」とは異なり、時代や文化によって影響される事のない普遍的で規範的な概念です。
ニセ科学批判者にとって反証可能性が科学の本質ですか?
科学の本質とは科学的方法によって知識を獲得する事です。
科学的方法とは、疑問生成、仮説提案、検証のサイクルが機能して、現象に対する理解が確実に深まっていく方法です。
確かに科学的方法では検証が必須ですので、反証可能性が重視されます。
検証する方法が存在し無い仮説は知識であるかどうかを判断できないからです。
しかし、だからと言って反証可能性が科学の本質と言うわけではありません。
反証可能性の概念が提案されるずっと前から科学的方法は発展してきたのです。
「疑問を持つ」事こそが全ての科学的方法の原動力であるため、これが科学の本質であると言えるでしょう。
ニセ科学批判者が検証すべき項目とはどのようなものがありますか?
仮説を検証する場合、以下の項目をチェックする必要があります。
- 仮説が正しいと主張する根拠に誤りがないかどうか
- 両立しない他の仮説よりも、事実を広範囲に説明できるかどうか
具体的には以下のような項目をチェックします。
- 確証の説明に認知バイアスの影響がないか
- 論証の過程に誤謬が使用されていないか
- 仮説に実現可能性が有るか
- 仮説が他の事実と整合するか
- 仮説から演繹される結果が正しいか
自然科学においてはこのチェックには実験が重要となりますが、宇宙科学や恐竜研究のように「事実の観察」だけでも可能です。
科学的に正しいかどうかの検証方法は各分野において恣意的に決められていませんか?
一見すると、各分野において「科学的に正しい」とされる基準が恣意的に決められているような印象を受けるかもしれません。
これは前述のチェック項目が各分野において何を検証すれば良いかが異なるので、各分野において恣意的に決められているように見えるだけです。
ニセ科学批判者は人格批判をしても良いのですか?
人格の良し悪しは科学的に判定すべき対象ではありません。
それに人格批判は「人身攻撃」という誤謬ですので、誤謬を排除するためには人格批判など決してしてはなりません。
ニセ科学批判者が批判しても良いのは、
「主張の根拠には誤りがある事」、
そして「他の仮説の方が、より多くを説明できるという根拠を示す事」だけです。
具体的には「主張者の確証の説明には認知バイアスが疑われる事」、
「主張者の推論の過程には誤謬がある事」、
「主張には実現可能性がない事」、
「主張が他の事実と整合しない事」、
「主張が予言する結果が現実と合わない事」などを批判すべきです。
ニセ科学批判者にとって「科学的に正しい」とは絶対的な真理ですか?
「科学的に正しい」とされてきた主張でも、
誰にも考えつかないチェックすべき項目が存在したり、
チェック方法自体に誤りが存在したり、
その時代においては技術的に不可能なチェック項目が存在したりする可能性があります。
そのため「科学的に正しい」と検証されていた主張でも、将来において誤りが指摘される可能性があります。
「科学的に正しい」主張とは「絶対的」な真理とまでは言えませんが、
「現時点において誰にも誤りが見つけられない程度」の真理であるとは言えます。
ニセ科学批判をする事は倫理的に問題がありませんか?
怪しげな仮説を見た時に、どう対応するかは以下のように分けられます。
- その仮説に疑問を持たず、信じる(ニセ科学を主張する側の立場)
- その仮説に疑問を持たないが、放っておく(傍観者の立場)
- その仮説に疑問を持ち、間違いを正す(ニセ科学を批判する側の立場)
- その仮説に疑問を持つが、放っておく(傍観者の立場)
- その仮説に興味を持たず、放っておく(傍観者の立場)
道徳概念はそれぞれが所属する社会において異なります。
従って、どのような対応が倫理的に正しいかどうかは、科学的に断定する事はできません。
しかし、「疑問を持つ」という判断は科学的思考の基本であり、一般的に問題はありません。
また「間違いを正す」という判断にも一般的に問題はありません。
健康悪化被害事例がある場合や、疑似科学に税金を浪費する場合など「間違いを正す」方が一般的に社会貢献になります。
また、真相を明らかにする事によって未来の人間が同じ間違いを犯す危険性を防ぎ、やはり社会貢献になります。
従って、一般的に言えばニセ科学批判は社会貢献の一種であり、倫理的に問題はありません。
ニセ科学批判者は科学の物差しだけが真理であると考えていませんか?
人類が追求する「真理」には、科学が求める「客観的真理」の他にも以下のような種類があります。
- 客観的真理: 誰が検証しても正しい主張
- 政治的真理: 政治的に信じるべき主張
- 道徳的真理: 道徳的に信じるべき主張
- 実用的真理: 真偽はともかく、信じると役立つ主張
客観的真理は科学的方法によって確定されますが、政治的真理や道徳的真理、実用的真理は社会における合意や強制などによって確定されます。
確かに疑似科学批判者は「政治的真理」、「実用的真理」、「道徳的真理」などのその他の真理を求めてはいません。
従って科学の物差しだけが真理であると考えている、というのは間違いではありません。
ただ、疑似科学批判者が対象にしている主張とは「客観的真理」を主張している仮説であるはずです。
「聖母マリアが処女のまま受胎したという話は、科学的に間違っている」などと教会を批判する科学者はいないのです。
ニセ科学批判者は科学だけが絶対の真理だと考える傲慢な人達ではありませんか?
「客観的真理」を追求すべきでない主張に対してニセ科学批判の対象にした者は、このように批判されても仕方ありません。
しかし、ある仮説が「客観的真理」であると主張されている場合、「政治的真理」、「道徳的真理」、「実用的真理」など、その他の真理を追求する必要はありません。
ニセ科学批判者は科学的方法だけが真理を追求する方法だと考えているかもしれませんが、それは「傲慢な思考」ではありません。
但し「絶対の真理」であると考えている場合には、「傲慢な思考」であると言えます。
何故ならば、科学的思考を持つ者は常に「疑問を持つ」という姿勢を忘れてはいけないからです。
「科学的に正しい」とされている主張にも、誰にも考えつかなかったような誤りがある可能性を忘れてはいけません。
ニセ科学批判者は自分達が生殺与奪権を握っていると考える自己尊大な人達ではありませんか?
ニセ科学批判者が追求するのは「客観的真理」だけです。
実際に生殺与奪権を握っているのは、マスコミや学校教育などの社会的影響力の強い者たちです。
ニセ科学批判者がどれだけ真実を叫んだところで、社会から無視されれば何も変わる事はありません。
血液型診断のファンなのですが、ニセ科学批判者を撃退する方法はありませんか?
血液型診断が真偽はともかく人生に役に立つ「実用的真理」であるため、ニセ科学批判が対象とすべき「客観的真理」ではないと主張すれば良いでしょう。
実用的真理は、漢方薬や風水のように根拠がハッキリしていなくても多数がその効用を信じていれば主張しても良いのです。
血液型診断は話題に困った時に、とりあえず話題にしても良い「実用的」な機能があり、これをニセ科学と批判すれば、その場は白けるでしょう。
即ち「真偽などどうでも良いのだから放っておいてくれ」と言明する事です。
そうすれば「ニセ科学批判者は社会的要請を無視している」、「ニセ科学批判者は社会の空気を読まない非常識な人達である」、「ニセ科学批判者は科学だけを絶対の真理とする傲慢な人達である」などの主張が有効になります。
それに人間の性格を決定する要因は科学的にはまだ解明されていないので、「そんなに批判するのなら科学で人間の性格を説明してみろ」と言えば黙るかもしれません。
ニセ科学批判者は科学を過信していませんか?
「科学を過信する」という行為は、「言説を疑わない」という事です。
ニセ科学批判者は科学的方法の本質である「疑問を持つ」という姿勢を常に忘れてはいけません。
即ち、科学を過信する人間とは科学的思考を持たない人間であり、その者は「ニセ科学批判者」とは言えないでしょう。
ニセ科学批判はサブカルチャーではありませんか?
これは「サブカルチャー」とは一体何かという議論になります。
ウィキペディアでは「ある社会で支配的な文化の中で異なった行動をし、しばしば独自の信条を持つ人々の独特な文化」であると説明されています。
科学的思考とは「真理とは何か」を探求してきた人類の英知であり、世界的には独自の信条というわけではなくサブカルチャーではありません。
しかし、「日本社会とは科学的思考を重視しない社会である」という前提で考えるのであれば、「ニセ科学批判はサブカルチャーである」という主張は間違いではありません。
ニセ科学批判者とはXXXX教授の科学観以外の科学観を持たない、多様性のない人達ではありませんか?
科学は完成されていませんが、科学哲学についてはこれから革新的な思想が出る見込みはあまり無いため、科学観に多様性が無い人達だという指摘は間違いではありません。
しかし主張の間違いを指摘するためには科学観の多様性は不要ですので、問題ではありません。
いずれにしろ科学的思考とは人類が歴史の中で試行錯誤して積み上げてきた思考です。
ニセ科学批判もXXXX教授が始めたように見えるかもしれませんが、実際には彼が作り出した世界観ではありません。
ニセ科学批判は科学者としての素質が無い人達が行っているのではありませんか?
「科学者としての素質」とは何かというのは議論されねばなりません。
いずれにしろ、ニセ科学批判は科学的思考を持っている者であれば科学者でなくても誰でもできます。
「科学者としての素質」が何を意味するかはわかりませんが、それは必ずしも必要はありません。
ニセ科学批判者のほとんどはどこの馬の骨かもわからない連中ではありませんか?
ニセ科学批判者が正体を明かしていない場合、どこの馬の骨かもわからない連中であるという主張は間違いではありません。
しかし「ハロー効果」という認知バイアスの影響を排除する必要が有ります。
ニセ科学批判者は主張者の地位や資格などを問題にしてはいけません。
従って、どこの馬の骨かもわからない連中がニセ科学批判をしても問題は有りません。
ニセ科学批判者はニセ科学など批判している時間があれば本業に専念した方が良いのではありませんか?
ニセ科学批判者がどのような問題に興味を持っているかは人それぞれですので、わかりません。
しかしある主張が正しいかどうかと、時間を本業に専念すべきであるかというのは別の問題です。
人間がどのような問題に時間を使用すべきかは民主主義社会においては自由ですので、干渉すべきではありません。
ニセ科学批判者はニセ経済学の信者ですか?
ニセ科学批判者がニセ経済学を信じているかは人それぞれですので、わかりません。
いずれにしろニセ経済学を信じているかどうかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。
人間がどのような学説を信じるべきかは、その学説について議論していない限り関係が有りませんので、干渉すべきではありません。
ニセ経済学を信じる者がニセ科学を批判するなんておかしくありませんか?
ニセ科学批判は、科学的思考さえ持って入れば誰でもできます。
関連する議題以外の分野において、ニセ経済学を信じていようが、天照大神を信じていようが、その批判が正しいかどうかには影響しません。
ニセ科学批判者は反デマ界隈の人ですか?
「デマ」とは、一般的に「根拠のない、いい加減な噂話」を意味します。
ニセ科学には通常何らかの根拠があり、一般的な意味における「デマ」の部類には含まれません。
しかしニセ科学を「デマ」の一種に含めるべきだという考えであれば、「ニセ科学批判者は反デマ界隈である」という主張は間違いではありません。
ニセ科学批判者とは信頼できない人達ではありませんか?
ニセ科学批判者も人それぞれですので、信頼できるかどうかも人それぞれです。
ニセ科学批判者は日頃から簡単に批判できそうな主張探しに目を光らせ、ここぞという時に集団で攻撃していませんか?
ニセ科学批判者が日頃何をしているかは人それぞれですので、わかりません。
いずれにしろ批判者の日頃の行為が何であるかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。
ニセ科学批判者が権威を批判しないのは何故ですか?
これは「権威」と呼ばれている人達がどのような思考に基づいて主張しているかという議論になります。
もし「権威」が科学的思考に基づいて主張していない人達であれば、ニセ科学批判者は「権威」を断固批判すべきです。
しかし「権威」が科学的思考に基づいて主張しているのであれば、「権威」を批判する理由はありません。
ニセ科学批判者はXXXXこそがニセ科学だと批判すべきではありませんか?
ニセ科学批判者がXXXXをニセ科学と批判しないのには主に以下の理由に分けられるでしょう。
- XXXXという主張について興味が無いので、批判する気にもならない(関心がない)
- XXXXという主張は社会問題、政治問題などの科学以外の問題であり、批判しない(批判対象ではない)
- XXXXという主張に誤謬が見つけられないので、批判しない(批判する必要がない)
- XXXXという主張はその分野における批判方法を知らないため、その誤謬を批判できない(批判する方法がわからない)
- XXXXという主張は科学的に難解であり、その誤謬を批判できない(批判する能力がない)
口裂け女の存在を批判しないのは関心がないためでしょう。
サンタクロースの存在、カルト宗教、原発の是非等を批判しないのは、それらの問題が批判対象ではないためでしょう。
相対性理論を批判しないのは必要がないためでしょう。
歴史修正主義やニセ経済学を批判しないのは批判する方法がわからないためでしょう。
原発の技術的問題を批判しないのは批判する能力がないか、必要がないかのどちらかでしょう。
いずれにしろ、どのような問題に対して興味を持つかについては、民主主義国家では個人の自由です。
ニセ科学批判者にXXXXを批判する事を強制はできません。
ニセ科学批判者の大半が公害の垂れ流しのような原発を追認しているのは何故ですか?
原発の技術はニセ科学と呼ばれる技術ではありませんので、ニセ科学の批判対象とはなりません。
原発を追認している人が比較的多い理由は恐らく、原発事故の原因が人災であり、それは今後解決できる問題であると考えているためではないかと推測されます。
いずれにしろ、民主主義社会では思想の自由があり、反原発思想を強制する事はできません。
ニセ科学批判者はその判断が最初から科学だけでなく政治も入ってる事を宣言すべきではありませんか?
ニセ科学批判者が対象としているのは、主張が真理であるかどうかだけであるべきです。
もちろん、真理の判定が政治的判断に繋がる事もあります。
何故ならば我々は真理を信じ、間違いを信じるべきではないからです。
それは真理を追求した結果、そういう判断になるのであり、政治判断自体が目的ではありません。
従って、その判断が最初から政治が入っている事を宣言する必要はありません。
ニセ科学批判者は社会の空気を読まない、非常識な人達ではありませんか?
「客観的真理」を追求すべきでない主張に対してニセ科学批判の対象にした者は、このように批判されても仕方ありません。
しかし、ある仮説が「客観的真理」であると主張されている場合、社会の空気を読む必要はありません。
何故ならば、「客観的真理」とは社会の空気で決めるべき概念ではないからです。
それに真理を「場の空気」によって決めるのは、「衆人に訴える論証」という誤謬を犯す事になります。
ニセ科学批判者は空気を読まないかもしれませんが、それは非常識な行為ではなく正常な判断です。
ニセ科学批判者は自身の無誤謬性を主張するために横暴になっていませんか?
ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。
しかし、自身の無誤謬性を主張するために横暴になる行為は「威力に訴える論証」という誤謬を用いています。
従って自身の無誤謬性を主張するために横暴になる人達は本末転倒であり、そのような誤謬を手段としている人達はもはやニセ科学批判者とは言えません。
そのようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「威力に訴える論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。
ニセ科学批判者は権威が無いと何もできない人達ですか?
権威を利用して論証する行為は「権威に訴える論証」という誤謬を用いています。
従って権威が無いと何もできない人達は本末転倒であり、そのような誤謬を手段としている人達はもはやニセ科学批判者とは言えません。
そのようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「権威に訴える論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。
ニセ科学批判者は他者を攻撃する口実としてニセ科学批判を利用していませんか?
ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。
しかし「他者を攻撃する」というのは「人身攻撃」という誤謬の一種であり、そのような誤謬はニセ科学批判者は排除しなくてはなりません。
従って他者を攻撃する口実としてニセ科学批判を利用している人達は本末転倒であり、そのような誤謬を目的としている人達はもはやニセ科学批判者とは言えません。
そのようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「人身攻撃」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。
ニセ科学批判者は部外者が科学者を批判するのが許せないから批判しているのではないですか?
ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。
ただ、ニセ科学批判者は部外者が科学者を批判する行為を批判してはいけません。
何故ならばそれを問題にするのは「対人論証」という誤謬を犯しています。
従って部外者を許せないから批判するようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「対人論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。
ニセ科学など批判してもどうせ信者は聞く耳を持たないので放っておくべきではありませんか?
ニセ科学批判者がどのような結果を期待しているかは人それぞれですので、わかりません。
しかしある主張が正しいかどうかと、信者に聞く耳があるかどうかは別の問題です。
これを問題にする行為は「結果に訴える論証」という誤謬を使用しており、排除すべきです。
ニセ科学批判者は、結果を問題視する事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。
従って、ニセ科学批判者に対して信者の動向を問題にしても無意味です。
草食系男子は擬似科学ではありませんか?
草食系男子かどうかを問題とするのは、「対人論証」という誤謬の一種です。
ニセ科学批判者とは2chで発言するようなネトウヨですか?
もし「ネトウヨ」と呼ばれる人達が科学的思考をしている人達であれば、ニセ科学批判者とネトウヨには相関関係が現れるでしょう。
しかし両者の間の因果関係を主張するためには、更なる検証が必要で安易に主張すべきではありません。
それに、ある仮説が正しいかどうかとその主張者や批判者の政治的主張は関係ありません。
相対性理論が正しいかどうかと、アインシュタインが原子爆弾の開発に協力的だったかどうかは何の関係もありません。
それを問題にするのは「対人論証」という誤謬の一種であり、排除すべきであるからです。
従ってニセ科学批判者がネトウヨであったとしても、その批判が正しいかどうかには影響しません。
ニセ科学批判者は権威主義、体制擁護、ネトウヨで歴史修正主義者ではありませんか?
「権威主義」、「体制擁護」、「ネトウヨ」、「歴史修正主義」とは本来別の概念であり、「ニセ科学批判」とは関係ありません。
もし「権威」、「体制」、「ネトウヨ」、「歴史修正主義者」といった人達が科学的思考に基づいて主張しているのであれば、この人達と「ニセ科学批判者」には相関関係があるかもしれません。
だからと言って相関関係から因果関係を導くのは「虚偽の原因の誤謬」という誤謬を犯しています。
因果関係を主張するためには、その根拠を示さねばなりません。
根拠を示さないままで因果関係を主張する場合、「ステレオタイプ」という認知バイアスが疑われます。
「ニセ科学批判者は全てネトウヨだ」という主張は正しいですか?
カール・セーガン博士はニセ科学批判者でしたが、彼がネトウヨであったという話は聞いたことがありません。
残念ながら、「全てのニセ科学批判者はネトウヨである」という主張は「早まった一般化」と「誤った二分法」という誤謬を二重に犯しており、誤りです。
ニセ科学批判者は過去に「XXXX」のような主張をしました。このような主張をするニセ科学批判運動には問題がありませんか?
ニセ科学批判者が過去にどのような主張したのかは人それぞれです。
民主主義社会では表現の自由がありますので、ニセ科学批判者も仮説を主張する事ができます。
その人がどのような主張をしようと、ニセ科学批判者として主張したのではなく、仮説の提唱者として主張したものです。
仮説は正しい事もあれば間違っている事もあり、例え間違った主張をしたとしても恥ずべき事ではありません。
アインシュタインが静止宇宙を主張したように、間違いは誰にでもあるからです。
それに、ニセ科学批判者は主張者の過去の発言を問題にしてはいけません。
何故ならば、それを問題にするのは「対人論証」という誤謬の一種であり、排除すべきであるからです。
ニセ科学批判者は批判さえすれば社会問題が解決できると思っていませんか?
ニセ科学批判者がどのような結果を期待しているかは人それぞれですので、わかりません。
しかしある主張が正しいかどうかと、その主張が生み出す社会問題を解決する方法を考えるのは別の問題です。
これを問題にする行為は「結果に訴える論証」という誤謬を使用しており、排除すべきです。
ニセ科学批判者は、結果を問題視する事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。
従って、ニセ科学批判者に対して社会問題の解決方法の提案を期待しても無駄です。
ニセ科学批判がXXXXを主張する人達を生み出しているのではありませんか?
これは恐らくXXXXという主張が科学的思考に基づいているのが原因だと思われます。
その場合、どちらも科学的思考に基づいている事からニセ科学批判者とXXXXの主張者の間に相関関係が現れます。
しかし、相関関係と因果関係は区別しなくてはなりません。
相関関係から「ニセ科学批判がXXXXの主張者を生み出している」と主張するのは、「虚偽の原因の誤謬」という誤謬を犯しています。
因果関係を主張するためにはこの誤謬を排除するため、詳細な検証作業が必要になります。
検証作業をしない限り、ニセ科学批判がXXXXという主張の原因となっているとは主張できません。
ニセ科学批判者とは、本来根拠薄弱な仮説を批判する人達です。
民主主義社会においては言論の自由がありますので、同じ人間がXXXX(例:「低線量被爆は健康被害が無い」)を主張する事もできます。
XXXXの主張者とニセ科学批判者の間には相関関係が見つかるかもしれませんが、因果関係があるとまでは言えません。
それに仮説の主張者はむしろニセ科学批判者から批判される側の人間となりますので、
ニセ科学批判者として主張しているのではありません。
従ってニセ科学批判者かどうかとは関係なく、その主張の問題点を指摘すれば良いでしょう。
ニセ科学批判者は世の中の人間を「科学側」と「ニセ科学側」に二分されるとでも考えていますか?
世の中を「科学側」と「ニセ科学側」に二分して考えているニセ科学批判者がいるとすれば、
その者は確かに「誤った二分法」という誤謬を犯しています。
「科学的思考」と対立する思考には、
権威主義、
独断主義、
集団思考、
タブロイド思考、
呪術的思考、
精神論、
感情論、
など様々な思考方法が存在します。
この中で「独断主義」はニセ科学と言っても良いですが、
その他の思考は認知バイアスや誤謬を生み出す原因となっているだけで、
いわゆるニセ科学とはされていません。
その者は「ニセ科学」という言葉の意味を単に「科学的でない思考」と定義しているのかもしれませんが、
用語を勝手に自分だけの意味で定義するのは、科学的思考の世界では許されません。
世の中を「科学側」と「ニセ科学側」に二分して考えているニセ科学批判者がもしいるとすれば、
その者は「ニセ科学とは何か?」という科学哲学における深遠なるテーマと向き合わなければなりません。
ニセ科学批判は教祖の思想に同調した画一化した思想ではありませんか?
教祖の思想に同調した画一化した思想の人達は「権威主義」に陥っており、疑問を持つ事のない人達です。
疑問を持たない人達は既に科学的思考が停止しており、即ちニセ科学批判者とは対極にある人達です。
従って「ニセ科学批判は教祖の思想に同調した画一化した思想だ」という主張は誤りです。
こういう誤った推論をする原因は、「外集団同質性バイアス」が働いている事が疑われます。
誤った推論習慣を許容し続けるべきではありませんので、一度「社会心理学」を学習された方が良いでしょう。
ニセ科学批判者は原因も対策も見つけ出せない無能集団ではありませんか?
この質問には「原因も対策も見つけ出せない者たちは無能である」という隠された前提が有り、「論点先取」という誤謬を犯しています。
無能集団であるという推論には妥当性は有りますが、健全性が有りません。
健全性を確保するためには、隠された前提が真である事を主張する側が証明しなくてはなりません。
従って質問者がその主張を立証しない限り、「無能集団である」が正しいとは言えません。
しかも、その隠された「無能でない者は原因か対策を見つけ出す」という主張自体も「結果に訴える論証」という誤謬を犯しています。
そもそもニセ科学批判者とは根拠薄弱な仮説を批判する人達であり、原因や対策を考える人達ではありません。
原因や対策を考える人達はむしろ仮説の主張する側の人間であり、ニセ科学批判者ではありません。
それにどのような問題に関心を持つかは個人の自由ですので、原因や対策の主張を強制すべきではありません。
ニセ科学批判者はニセ科学批判批判を悪として撲滅しようとしていませんか?
悪かどうかを科学的に検証する方法など有りません。
主張が正しいかどうかを判断する際に悪の撲滅を目指す行為は「道徳主義の誤謬」という誤謬を犯しています。
従って、悪の撲滅を追求している時点でその者達はもはやニセ科学批判者とは言えません。
ニセ科学批判者は、道徳主義に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。
ニセ科学批判批判を悪として撲滅しようとするようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「道徳主義の誤謬」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。
ニセ科学批判は科学を絶対視する振興カルト宗教ではありませんか?
確かに科学には、科学的思考という観念体系に基づき、科学的成果という「教義」が有り、科学的手法という「戒律」も有り、観念体系に基づいた組織や施設も存在します。
そうすると、「宗教」とは一体何かという議論になります。
ウィキペディアでは「一般には自然の力や人間の力を越えた観念」であると説明されています。
人間の脳で理解できる「科学」という観念は、一般的な意味においては宗教には該当しません。
従って常識の範囲内では「ニセ科学批判は科学を絶対視する振興カルト宗教だ」という主張は誤りです。
ちなみに「カルト」というのは、「悪しき集団」であることを明確にするために用いられる通俗用語です。
このような「恐怖に訴える論証」に基づいたプロパガンダを行う事の道徳判断を正当化するためには、ニセ科学批判が悪しき集団である事の立証責任があるでしょう。
立証しないままでこのような批判をしても道徳的に許されてると考えている場合、
自分たちのモラルがニセ科学批判者達よりも高いという幻影に囚われて、
「モラル信任効果」という認知バイアスが働いている事が疑われます。
ニセ科学批判者はナショナリズムに傾倒し、歴史問題を無視していませんか?
歴史学が追求すべき真理とは「政治的真理」でも、「実用的真理」でも「道徳的真理」でもありません。
自然科学と同じ「客観的真理」であり、従ってニセ科学批判の対象とされるべきです。
ナショナリズムは「正常性バイアス」、「感情バイアス」、「内集団バイアス」等の認知バイアスを生み出す原因ですので、
ニセ科学批判者はナショナリズムを排除して歴史の真実を追求すべきでしょう。
社会科学や人文科学が「科学」の名が付いているのは、それらの学問が「科学」の一種であり、ニセ科学批判者の批判対象であるべきなのです。
しかし、人間がどのような問題に興味を持つべきかは民主主義社会においては自由ですので、干渉すべきではありません。
歴史修正主義をスルーしておいて擬似科学を批判しても無意味、ということにそろそろニセ科学批判クラスタは気づかれましたか?
確かに歴史問題とは科学的思考が最も必要な問題であり、ニセ科学批判者はスルーすべきでない事にそろそろ気付くべきでしょう。
しかしそれを理由に「擬似科学批判が無意味だ」と主張するためには、両者の因果関係を説明せねばならず、「論点先取」という誤謬を犯しています。
隠された前提を証明しない限り、「擬似科学批判が無意味だ」という推論には妥当性は有りますが、健全性が有りません。
またその隠された「疑似科学批判の意味に気付く者は歴史修正主義をスルーしない」という主張も、「結果に訴える論証」という誤謬を犯しています。
いずれにしろ、人間がどのような問題に興味を持つべきかは民主主義社会においては自由ですので、干渉すべきではありません。
ところで、この質問は「多重質問の誤謬」という誤謬を犯していますので、
質問に答える事自体が誤謬となります。
また、「擬似科学をスルーしておいて歴史修正主義を批判しても無意味、ということにそろそろ歴史修正主義批判クラスタは気づかれましたか?」などと質問を返すのも誤謬です。
ニセ科学批判者が誤謬を排除するためには、この質問はスルーしなくてはなりません。
ニセ科学批判者が歴史修正主義を批判するためにはどうすれば良いですか?
歴史修正主義を批判するためにはまず、「歴史修正主義」とはどのような概念かを知る必要があります。
どのようにして歴史が修正されるかを説明しますので、興味のある方は「ニセ科学批判者のための歴史修正主義研究入門〜日本ウソ物語の問題点〜」を参照して下さい。
ニセ科学批判者はそんな小さな問題よりも、もっと重要な問題を批判すべきではありませんか?
ニセ科学批判者がどのような問題に関心があるかは人それぞれですので、わかりません。
しかし、主張が正しいかどうかを判断する際に関係の無い問題を持ち出す行為は「更に重要な問題の存在に訴える誤謬」という誤謬を犯しています。
ニセ科学批判者は、「更に重要な問題の存在に訴える誤謬」に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。
従って、ニセ科学批判者に対して他の問題を提案しても無意味です。
科学では解明されていない問題がたくさん有ります。ニセ科学批判者は科学を振りかざすべきではないのではありませんか?
ある主張が正しいかどうかと、科学では解明されていない問題がたくさん有る事は別の問題です。
それに科学が完璧でない事を理由に主張を退ける主張は「科学の不完全性に訴える誤謬」という誤謬も犯しています。
ニセ科学批判者は、「科学の不完全性に訴える誤謬」に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。
従って、ニセ科学批判者に対して科学の限界について批判しても無意味です。
擬似科学狩り界隈の人達は冷笑界隈の人ですか?
擬似科学狩り界隈の人達が冷笑界隈の人かどうかは人それぞれですので、わかりません。
いずれにしろ冷笑するかどうかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。
それにニセ科学批判の真偽を「冷笑するかどうか」で判断する行為は、「論調に訴える論証」という誤謬を犯しています。
ニセ科学批判者は善人ぶるために他者を攻撃していませんか?
ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。
いずれにしろ善人ぶるかどうかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。
それにニセ科学批判の真偽を「善人ぶるかどうか」で判断する行為は、「論調に訴える論証」という誤謬を犯しています。
ニセ科学批判者の中には攻撃性の高い人がいませんか?
ニセ科学批判者の中にはいろいろな方がいますので、確かに攻撃性が高い人も存在します。
いずれにしろ攻撃性が高いかどうかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。
それにニセ科学批判の真偽を「攻撃性が高いかどうか」で判断する行為は、「論調に訴える論証」という誤謬を犯しています。
それに攻撃性が高いニセ科学批判者が存在しているという理由でニセ科学批判全体を否定する推論は「連座の誤謬」という誤謬も犯しています。
ニセ科学批判者は自己実現のために批判しているのではないですか?
恐らく自己実現のためではなく、「知的なノブレス・オブリージュ」を果たそうとしているのではないかと考えます。
しかしニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、自己実現のために批判しているかどうかはわかりません。
また、自己実現のために批判しているという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。
ニセ科学批判者は優越感に浸りたいために他者を攻撃していませんか?
ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。
いずれにしろ批判の目的や動機が何であるかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。
優越感に浸りたいから攻撃している、という理由でその論証を排除する行為は「動機に訴える論証」という誤謬を置かしています。
ニセ科学批判者とは主張者の動機や目的などどうでも良い人達であり、彼らの動機や目的を詮索しても無意味です。
それに優越感に浸りたいニセ科学批判者が存在しているという理由でニセ科学批判全体を否定する推論は「連座の誤謬」という誤謬も犯しています。
ニセ科学批判者は本業でふるわないから、ニセ科学批判をして自分を維持しているのですか?
ニセ科学批判者の本業がどのような成果を上げているかは人それぞれですので、わかりません。
ただ、自分を維持するために批判しているという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。
ニセ科学批判者は批判する事でプライドをゲットしているのですか?
ニセ科学を批判する程度でプライドがゲットできるとは考えにくいのですが、
いずれにしろニセ科学批判者が批判する事でプライドをゲットしているかは人それぞれですので、わかりません。
ただ、プライドをゲットしているという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。
ニセ科学批判者とは人を傷つけて喜んでいる人たちですか?
ニセ科学批判者は真実を追求します。
知りたくない真実を明かす事によって人が傷つく事は確かによく有ります。
しかし、例え傷ついたとしても人間は真実を知り、本当の世界で生きていかなくてはなりません。
ニセ科学批判者が人を傷つけて喜んでいるかどうかは人それぞれですので、中には喜んでいる人もいるかもしれません。
いずれにしろ人を傷つけて喜んでいるという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。
ニセ科学批判者は批判する事にエクスタシーを感じるから批判しているのですか?
ニセ科学批判者が批判する事にエクスタシーを感じているかは人それぞれですので、わかりません。
ただ、エクスタシーを感じているから批判しているという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。
ニセ科学批判者はニセ科学が悪意の産物だから批判しているのですか?
悪意があるかどうかを科学的に検証するのは、なかなか困難な作業です。
そもそも、主張が正しいかどうかを判断する際に悪意があるかどうかを批判の基準にする行為は「悪意に訴える論証」という誤謬を犯しています。
従って、悪意の産物だから批判している時点でその者達はもはやニセ科学批判者とは言えません。
ニセ科学批判者は、道徳主義に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。
悪意の産物だから批判するようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「悪意に訴える論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。
ニセ科学批判者は当局と親和性が高い「御用」ではありませんか?
これは「当局」と呼ばれている人達がどのような思考に基づいて主張しているかという議論になります。
もし「当局」が科学的思考に基づいて主張していない人達であれば、この主張は間違いです。
しかし「当局」が科学的思考に基づいて主張している人達であれば、「ニセ科学批判者は当局と相関関係がある」事は否定できません。
因果関係までは主張できませんが、「親和性が高い」という主張は間違いではないでしょう。
ただし、「御用」であるかどうかはまた別の問題です。
ニセ科学批判者の動機や目的は人それぞれですので「御用」かどうかも人それぞれです。
ところで根拠もなく論敵を「御用」であると主張する場合、「先制御用認定」という誤謬を犯しています。
被爆安全デマを流すニセ科学批判者は政府や東京電力の「御用」ではありませんか?
被爆安全説がデマかどうかは、科学的に検証されねばなりません。
主張の根拠を検証しないまま論敵を「御用」であると主張する場合、
「先制御用認定」という誤謬を犯しています。
ニセ科学批判者にとって科学の本質とは合理性ですか?
科学においては仮説を検証する過程において、仮説の根拠となる「理由付け」に「合理性」があるかどうかのチェックが重要になります。
そして「感情による理由づけ」や、
「動機のある理由付け」がされていないかをチェックする必要があります。
確かに合理性は科学にとって重要な概念の一つですが、全てというわけではありません。
科学的方法の本質とは、疑問生成、仮説提案、検証のサイクルが機能して、現象に対する理解が確実に深まっていく事です。
全ての科学的方法の原動力は「疑問を持つ」事ですので、これが科学の本質であると言えるでしょう。
ニセ科学批判者が目指すべき議論とはどのような議論ですか?
ポール・グラハムは反論の品質レベルを7つの階層に分類しました。
- 論点の核心部分について議論する(主張を理解し、有意義な議論を行う)
- 主張の誤りを例を挙げて指摘する(主張を理解しようとし、間違いを証明しようとする)
- 反対意見を理由を証拠を挙げて主張する(主張は理解していないが、その主張の対案を出す)
- とにかく反例を挙げる(主張は理解していないが、有意義な反例となる可能性がある)
- 主張者の論調を批判する(主張は理解していないが、少なくとも主張を聞いている)
- 主張者の人格を批判する(主張を聞いていないが、少なくとも主張者を観察している)
- 主張者を誹謗中傷する(主張者を観察する事も無く、主張を却下)
ニセ科学批判者が目指すべき議論とは、この反論の品質レベルを一つでも上げようと努力する事でしょう。
少なくとも5〜7のレベルの議論は誤謬であり、有意義な議論につながる事はありません。
「フィンランドの小学生が作った議論のルール」も役に立つ指針ですので、紹介します。
- 他人の発言をさえぎらない
- 話すときは、だらだらとしゃべらない
- 話すときに、怒ったり泣いたりしない
- わからないことがあったら、すぐに質問する
- 話を聞くときは、話している人の目を見る
- 話を聞くときは、他のことをしない
- 最後まで、きちんと話を聞く
- 議論が台無しになるようなことを言わない
- どのような意見であっても、間違いと決めつけない
- 議論が終わったら、議論の内容の話はしない
ニセ科学批判のウヨの主張など、検討する価値もないのではありませんか?
残念ながら、批判のレベルが最低の「誹謗中傷」レベルまで落ちています。
どのような意見であっても間違いと決めつけず、
議論が台無しになるようなことを言わないようにして下さい。
ニセ科学批判こそがニセ科学ではありませんか?
「ニセ科学批判」が「ニセ科学」であると主張するためには、
「ニセ科学」とはどのような概念であるかを定義した上で、何故「ニセ科学批判」が「ニセ科学」であるかの根拠を示さねばなりません。
それをしないままでこの主張を行う場合、
「定義の誤謬」を用いた「相関の抑圧」という誤謬を犯しています。
科学とは成果の積み重ねのはずです。ニセ科学批判こそがこれまでの成果を否定するニセ科学ではありませんか?
アインシュタインはそれまでの成果を否定して相対性理論を提案しただけでなく、同時期に提案された「量子力学」をニセ科学だと批判しました。
アインシュタインはニセ科学批判者でもありましたが、もちろんニセ科学者ではありません。
成果を積み重ねていく方法は確かに「演繹法」という古典的な科学的思考の一つで、同じパラダイムの中では有効です。
しかし、既存の成果を盲目に信じる行為は「権威に訴える論証」、「衆人に訴える論証」、「伝統に訴える論証」、「自然主義の誤謬」などの誤謬を複合的に犯している可能性があります。
そのため近代以降ではそれまでの成果に縛られる事なく新仮説を提案して検証し、既存の成果をも否定していく「仮説形成」という方法が科学的思考の主流に変わりました。
これによって科学はパラダイムシフトを繰り返しながら発展していくようになりました。
その代わり、ニールス・ボーアが「ベータ崩壊においてエネルギー保存の法則が成立しない」と主張したように、科学者達がトンデモ仮説を打ち出してはそれが否定されるという光景は珍しくなくなりました。
ニセ科学批判者はXXXXぐらいは理解してから批判すべきではありませんか?
ある批判が正しいかどうかと、XXXXを理解すべきかどうかとは別問題です。
このように主張をするためには、何故XXXXを理解しなければ批判ができないのかという理由の説明が必要です。
主張が正しいかどうかを判断する際に関係の無い問題を持ち出し、それを理解しない者には批判の資格がないと主張する行為は「論点のすり替え」と「対人論証」という誤謬を二重に犯している可能性が有るからです。
それにXXXXを理解する過程において「可用性ヒューリスティック」という認知バイアスに囚われる可能性があり、それを知らない観点での意見も重要です。
ニセ科学批判者は、論点をすり替えたり対人論証に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。
従って、ニセ科学批判者に対して「XXXXを理解してから批判すべきだ」と言う主張を理解させるためには、何故それを理解しなければ批判する資格がないかの理由を説明する必要があります。
ニセ科学批判とは科学主義を利用した通俗道徳主義ではありませんか?
人間が陥り易い誤謬の一つに「道徳主義の誤謬」や「モラルに訴える論証」があります。
「道徳主義の誤謬」とは、道徳的に問題のある主張を間違いとする誤謬で、
「モラルに訴える論証」とは、論敵よりも自分たちのモラルが高い事を理由に正しい事を訴える誤謬です。
ニセ科学批判者が認知バイアスや誤謬を正しく排除するためには、その「道徳主義の誤謬」や「モラルに訴える論証」を排除しなくてはいけません。
また、道徳を追求する事により「同情論証」に陥る危険性もあります。
即ち、ニセ科学批判者が追求すべきは客観的真理であり、道徳など追求してはいけません。
従って「ニセ科学批判とは通俗道徳主義である」という主張は誤りです。
ニセ科学批判者は科学の物差しだけを正義とし、他者を見下していませんか?
主張が正しいかどうかを判断する際に正義を追求して他者を見下す行為は「道徳主義の誤謬」や「モラルに訴える論証」という誤謬を犯しています。
従って、正義を追求している時点でその者達はもはやニセ科学批判者とは言えません。
ニセ科学批判者は、道徳主義に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。
正義を振りかざすようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「道徳主義の誤謬」や「モラルに訴える論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。
ニセ科学批判者が倫理的要請を考慮しないのは何故ですか?
主張が正しいかどうかを判断する際に倫理的要請を考慮する行為は「モラルに訴える論証」や「道徳主義の誤謬」という誤謬を犯す可能性があります。
また、倫理的要請を考慮する事によって「同情論証」に陥る危険性もあります。
ニセ科学批判者は、感情バイアス、道徳主義の誤謬、同情論証、自然主義的誤謬等に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。
ニセ科学批判者とは倫理的要請を考えてはいけない人達であり、彼らに倫理的要請をしても無意味です。
ニセ科学批判者は倫理的要請を考慮しなくても良いのですか?
倫理的要請があるとすれば、「客観的真理を主張する仮説だけを批判対象とする」、
並びに「人身攻撃などの誤謬は犯さない」という基本ルールだけです。
「客観的真理」が主張されている場合、倫理的要請を考慮しなくても構いません。
何故ならば「客観的真理」とは倫理的要請で決まる概念ではないからです。
即ち、ニセ科学批判に対する倫理的要請など上述の基本ルール以外には存在しません。
ニセ科学批判者とは人権問題に冷淡な人達ですか?
客観的真理を追求するためには倫理的要請を排除する必要があります。
人権問題への配慮は一種の倫理問題ですので、「ニセ科学批判者と人権問題に冷淡な人達には相関関係がある」という主張に間違いはありません。
しかし批判対象以外の問題について、同様な態度を取るわけではありません。
人権問題に熱心なニセ科学批判者も存在しますので、因果関係までも主張するためには更なる検証が必要でしょう。
ニセ科学批判者とは科学的に民族の優劣が判定できたら、他民族を滅ぼしてもかまわないような人達ですか?
前提が間違っていますので、論理的にはどのような結論も正しいと言えます。
そもそも「民族」という概念の確立には遺伝子等の生体的な因子ではなく、社会的なアイデンティティを共有できるかどうかが重要です。
人間の性格ですら科学的に原因がわかっていないのに、「民族の優劣性」などという社会的かつ抽象的な概念を、遺伝子等を用いて科学的に判定しようとする時点で、それは擬似科学だと言えるでしょう。
そのような擬似科学を信じる者達こそが、民族の優劣思想に取り憑かれ、他民族を滅ぼしてもかまわないという思考に陥るのです。
ニセ科学批判者は、そのような擬似科学を排除しなくてはいけません。
ニセ科学批判者とは科学的に「不要である人間」は殺しても構わないような人達ですか?
「優生学」の研究は、現在タブーとなっています。
仮に人間の優劣を科学的に判断する何らかの方法が存在しても、劣った人間を殺しても良いという理由にはなりません。
殺しても構わないと判断するのは歪んだ「科学」ではなく、人間の歪んだ「倫理」なのですから。
人間の倫理観は人それぞれですので、中には殺しても構わないと考えるような人間がいる可能性はあります。
しかし、それはニセ科学批判者でない者に関しても同様です。
ニセ科学批判者とは科学的に根拠があれば、人間を差別しても構わないような人達ですか?
それが「科学的根拠」であろうが、人種、民族、宗教であろうが、「差別しても構わないかどうか」というのは倫理上の問題であり、科学上の問題ではありません。
差別しても構わないと考えるような倫理観は排除すべきですが、
人間の倫理観は人それぞれですので、中には差別的な人間もいるかもしれません。
しかし、それはニセ科学批判者でない者に関しても同様です。
倫理よりも合理性を追求するなど、人間として問題がありませんか?
「集団思考」に陥った場合、
「モラルの幻影」という現象が現れ、
集団固有のモラルに対して絶対的な信頼を持ち、それに対して疑問を持たない傾向があります。
そして彼らの判断がもたらす倫理的あるいは道徳的な結果については、無視する傾向があるとされています。
その結果、次のような危険な傾向が現れます。
- 代替案を充分に精査しない
- 目標を充分に精査しない
- 採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない
- いったん否定された代替案は再検討しない
- 情報をよく探さない、
- 手元にある情報の取捨選択に偏向がある
- 非常事態に対応する計画を策定できない
即ち、合理性よりも倫理を追求した場合、集団思考を原因とするリスキーシフトに陥る危険性があるのです。
倫理を追求して「モラルの幻影」に囚われてしまった場合、
例えば文化大革命での「紅衛兵」達のように、
「論敵は悪魔のような者達であり、殺してしまった方が良い」というように、人間として問題のある行動をしてしまう危険性があります。
社会的に恐ろしい悲劇を生み出すのは暴走する「科学」なのではなく、暴走する「倫理」なのです。
このような事態を避けるためにも、人々が理性的によく考える習慣を身につける事により、社会において倫理が暴走する事を防ぐ事ができるのです。
即ち、倫理よりも合理性を追求する思考は、社会の安定に寄与する思考であり、人間として問題はありません。
ニセ科学批判者は社会的要請を無視していませんか?
「客観的真理」を追求すべきでない主張に対してニセ科学批判の対象にした者は、社会的、倫理的要請を無視していると批判されても仕方ありません。
しかし、ある仮説が「客観的真理」であると主張されている場合、社会的要請を考慮して「政治的真理」、「道徳的真理」、「実用的真理」などを追求する必要はありません。
何故ならば、「客観的真理」とは社会的要請によって決めるべき概念ではないからです。
それに社会的要請を考慮した場合、「集団思考」に関連した、
チェリー・ピッキング、
希望的観測、
道徳主義の誤謬、
怠惰な帰納、
年代に訴える論証、
伝統に訴える論証、
特例嘆願、
前提のごまかし、
無敵の無知論証、
モラルに訴える論証、
井戸に毒を入れる誤謬、
偏見に訴える論証、
悪意に訴える論証、
決め付け言葉、
罵倒の誤謬、
威力に訴える論証、
吐き気を催す論証、
プープーの誤謬、
衆人に訴える論証、
等の各種の誤謬に陥る危険性があります。
従ってニセ科学批判者は社会的要請を無視しているかもしれませんが、それはむしろ正しい判断です。
ニセ科学批判は社会的に問題はありませんか?
立証責任は常に説を主張する側にあるのであって、説を批判する側にはありません。
主張する側が批判を受け止めて反論する事により、社会において議論が公開されて真実が明らかにされ、健全な社会が実現されるからです。
実際に量子力学を批判したアインシュタインは法律的にも倫理的にも責任を追求される事はありませんでした。
健全な社会を実現するため、仮説を批判する側には法律的にも倫理的にも何の責任も有りません。
批判に不満があるのであれば、反論すれば良いだけの話です。
批判という行為自体が社会貢献の一つであり、批判が間違っていたところでアインシュタインのように、何ら責任を取る必要もありません。
一般的に言って「疑問を持ち、間違いを正す」という判断は科学者だけでなく人間としてあるべき姿です。
健全な社会を実現するために、誰もが何も恐れる事なく気軽に誇りを持って積極的にニセ科学批判をすべきです。
ニセ科学批判に倫理的問題が無いとすると、ニセ科学批判者はどうして人格攻撃されるのですか?
ニセ科学批判批判者は何か特定の理由によってニセ科学批判を「悪しき集団」である、と主張しているようには見えません。
しかし、多種多様の人身攻撃や誤謬による攻撃が絶え間なく生成されているのです。
このような現象は奇妙な現象にも見えますが、この現象を状況分析すれば真相が見えてくるのです。
ニセ科学批判者は、彼らが強い動機を持って「善悪を判断する規範意識に照らして批判している」という事を理解する必要があります。
これに対して「ニセ科学批判批判者達が何をしようとしているのか、サッパリわからない」
などと甘く見て放置しておくと、判断を誤る事になるかもしれません。
ニセ科学批判者の言動はニセ科学批判批判者自身にも説明できない、「嫌悪の知恵」(Wisdom of repugnance)と呼ばれる生理的な嫌悪を生み出しているようです。
その嫌悪感に基づいてニセ科学批判者達を詳細に観察し、様々な種類の人身攻撃がされています。
宗教などであるわけがないニセ科学批判者を「カルト教団」と悪魔化し、
何とか「悪しき集団」という社会的評価がされるように同調現象が起きているようです。
ニセ科学批判者達は、自分達がこのように攻撃される理由がサッパリわからない事でしょう。
これは「知識の呪い」という認知バイアスの一種であり、科学的思考を持つ人達は、科学的思考を持たない人達の考えを想像する事ができないのです。
実はこのような現象は「議論嫌悪」(Misology)と呼ばれ、ソクラテスを死に導いたように歴史上では頻繁に起きてきた現象です。
現在起きている現象も社会学を少し学べば素人でも説明する事ができます。
ニセ科学批判者の行動は最初は非社会的行動として認識されていただけだったようです。
しかしそれが日本社会の規範を破壊する反社会的行動と認識されるようになり、
「道徳事業家」と呼ばれる「脅威を知覚した者達」によって、
「モラル・パニック」が起こされていると考えられます。
ニセ科学批判者が排斥される理由は何故ですか?
道徳事業家達が守ろうとしている社会規範の正体とは一体何なのか。
鋭い方であれば上述の内容からもう理解しているかもしれません。
そうです。
この社会には「倫理的要請」や「社会的要請」によって真理とされている「疑ってはならない何か」が存在するのです。
彼らはニセ科学批判者が敵である事を本能的に感じ取っているのでしょう。
その「何か」を守り続けるためには、
ニセ科学批判運動とは存在を許してはならない「逸脱行動」なのですから。
そして実在する社会活動が自然でない事を批判するために使われるのが「道徳主義の誤謬」という誤謬です。
これがニセ科学批判者が道徳的に批判される原因です。
ニセ科学批判批判はどうして誤謬になるのですか?
モラルの高い位置に立っているという幻影に囚われた道徳事業家達にとって、
もし自分たちのモラルの方に問題があると社会が判断した場合、社会から排除されてしまう事を知っています。
「ニセ科学批判者が道徳的に劣った悪魔である」というのは、既に結論であり、そうでなければ彼らは存在意義を失ってしまう。
しかし彼らに「科学的思考とは道徳的に問題がある思考である」という根拠を示す事ができるはずがありません。
行き場を失った心の底からの嫌悪感情が、彼らを駆り立てるのです。
そしてニセ科学批判者を毎日観察し、多種多様の道徳批判が絶え間なく生成され続ける。
結論が決まっている以上、批判の理由付けは「合理的な理由付け」ではなく、「動機のある理由付け」となります。
こうしてニセ科学批判者への批判は、全てが誤謬となるのです。
ニセ科学批判者はどうして原発推進派として批判されるのですか?
ニセ科学批判批判者達が自分たちの規範を守り続けるためには、ニセ科学批判者達が道徳的に劣った存在である事さえ示せば良いのです。
その批判の理由など何でも構いません。
原発推進派として批判される理由は、それが感情に訴える効果が高いからでしょう。
それに、彼らにとっては批判内容の合理性などにはそもそも関心はありません。
その批判が「虚偽の原因の誤謬」であろうが、
「連座の誤謬」であろうが、
彼らは気にする必要はありません。
彼らにとって経験的にそれが最も手応えのあった批判方法なのでしょう。
ニセ科学批判批判者は説得できますか?
説得しようとしている人物が、「守るべき規範」をどの程度意識しているかを把握する必要があります。
これは逸脱者に対して以下のような「同調圧力」をかけているかで判断できます。
- ニセ科学批判者に対して物理的に危害を加える旨を通告する
- 社会の多数意見に逆らうことに恥の意識を持たせる
- ネガティブ・キャンペーンを行ってニセ科学批判者が一部の変わり者であるとの印象操作をする
- 「一部のニセ科学批判者が全体に迷惑をかける」と主張する
- ニセ科学批判のデメリットを必要以上に誇張する
- ニセ科学批判者に対して社会的排除を行う
このような同調圧力をかけている者や、同調圧力に屈して規範を既に内面化してしまった者達の説得は、あきらめた方が良いでしょう。
「ニセ科学批判は、悪徳商法に騙されないようにするために役に立つ」などと説得しても、
既に彼らは独自の道徳に支配されているので、聞く耳はありません。
しかし規範がまだ内面化されていないようであれば、説得する事ができるかもしれません。
ニセ科学批判者とニセ科学批判批判者が対立する理由を一言で説明して下さい
ニセ科学批判者達が追求すべきは客観的真理のみであり、道徳を追求する事によって誤謬に陥る事を避けねばなりません。
しかし、ニセ科学批判批判者達は客観的真理ではない「何か」が規範として内面化され、それが他者も従うべき絶対的な道徳となっているためです。
ニセ科学批判者とニセ科学批判批判者は相互理解が可能ですか?
両者の関係とは、どちらかが社会において正当性を得た時点で、もう一方が正当性を失う関係です。
ニセ科学批判者が批判批判側の思考原理を理解する事は可能ですが、
互いに考え方を理解し合う事はないでしょう。
科学と擬似科学の境界線はどこにありますか?
擬似科学のウィキペディア日本語版には「科学と疑似科学の境界線はあいまいであり、一致しないことで悪い名声を持つ」などと書かれていますが、単に日本人が知らないだけです。
英語版に基づいて科学と擬似科学の違いを分かりやすく明確に説明しますので、興味のある方は「ニュース事例による疑似科学入門〜ニセ科学批判を通した社会科学入門〜」を参照して下さい。
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