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イケディアンの住人さんへ

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)18時45分54秒
  爆笑 !!


その発想がオモロイ !
 

赤胴鈴之助さんへ

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)18時43分2秒
  >ここで、宮田教学は、釈迦本仏論ですが、釈迦は本尊を顕わしてないという論、もあります。
>円融三諦が釈迦本仏論で成り立つのでしょうか、これ一。

そもそも円融三諦は何かというと南無妙法蓮華経です。

釈迦も南無妙法蓮華経の当体
日蓮も南無妙法蓮華経の当体
衆生も南無妙法蓮華経の当体

です。まったく差別はありません。

もし、創価学会の教義を「釈迦本仏」に変更した場合、

いったい私たちは、何を「本尊」とし、どう「祈る」のでしょうか。

ぜひ、宮田教授や原田会長に聞いてみたいものです。




>釈迦本尊がないということになれば、仮諦がないということになって、
>釈迦仏を立てたら謗法になりませんか。


末法は「ただ南無妙法蓮華経なるべし」なので、釈迦仏を本尊とすれば謗法です。




>天台宗は釈迦本仏説なのでしょうか、釈迦を本尊としていないと思いますが・・・これ二。

天台宗に聞いてください。笑




>身延は、どんな理由で、釈迦を本尊としているのですか。これ三。

分かりません。




>伝教大師は、比叡山の根本中道に薬師如来を本尊としているとネットで見たのですが・・・。
>その意味をご存知なら教えてください。

まったく分かりません。 興味もありません。 所詮、像法残機の寺です。
 

グリグリさま、大変分かりやすい展開ありがとうございます\(^o^)/

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月26日(水)18時27分53秒
  つまり、この宿坊の板も空諦かも知れませんが、

『唯心論は空諦の一部分』であるから、アルベア論を浅く読んだ場合、これが空諦となる。

『唯物論は仮諦の一部分』は、便所虫を含む便所男そして成金趣味でカネに汚い創価村貴族社会の面々を指す、これが仮諦となる。

『実在主義は中諦の一部分』は、この場限りの認定する私の論ですね。便所男、便所虫、厚顔無恥大賞、あのお方、糞タレ刺繍入り勝負パンツ論と、これでもかとおちょくり、蔑む悪質な言論(-_-)でも、これって便3が認定している通り、全部妄想なのですが、興奮して指示する便1がいるということは、内実当たってるという琴ですかね?

皆さんも、認識論として周りのものを三諦分析してみませう~!
 

大仏のグリグリのとこさん、レス、ありがとうございます。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2016年10月26日(水)18時20分41秒
  大仏のグリグリのとこさん、レス、ありがとうございます。
私は中卒職人です。 理論は重視しませんし、分かりません。

>そんなにむずかしく考えないでください。笑<
もっと具体的に、実践的に説いてもらえませんかとお願いしています。
後半部分に具体的に説かれていたので、内容は少し理解できたかと思います。
合っているかどうか書きますね。

引用失礼します。
>まず「円融の三諦」が説かれたのは法華経だけです。<
十界互具、一念三千ということですね。

>これに対して、爾前教では三諦が別々に説かれました。<
日寛教学では、行布を存すると習ったような・・・。
地獄餓鬼などバラバラに説いて差別があるとか・・・。

>これを「隔歴の三諦」といいます。

>爾前教で説かれた三諦論は「隔歴三諦」

>法華経で説かれた三諦論は「円融三諦」
>三諦を一つと見る、三諦を別々のものとして見る。それだけの違いです。

ここで、宮田教学は、釈迦本仏論ですが、釈迦は本尊を顕わしてないという論、もあります。
円融三諦が釈迦本仏論で成り立つのでしょうか、これ一。

釈迦本尊がないということになれば、仮諦がないということになって、釈迦仏を立てたら謗法
になりませんか。

天台宗は釈迦本仏説なのでしょうか、釈迦を本尊としていないと思いますが・・・これ二。
身延は、どんな理由で、釈迦を本尊としているのですか。これ三。

伝教大師は、比叡山の根本中道に薬師如来を本尊としているとネットで見たのですが・・・。
その意味をご存知なら教えてください。
 

大川小学校裁判(津波死亡)学校側責任を全面的に認める!!

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月26日(水)18時08分30秒
  二度と、このような事をしてはいけない。

まさに、その通り!指示待ち症候群で多数の児童が津波にさらわれて死亡した。

今まさに、創価村がその見えない津波に襲われようとしている。呑気に便所の落書きを読んでいる時間は僅かです。どうするんでしょうか?
 

御礼 !

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)16時56分7秒
  イケディアンの住人さん

ご協力ありがとうございます。 感謝します。



信濃町の人びとさん

大事なフォロー、ありがとうございます。 助かります。
 

核の傘固定

 投稿者:感性  投稿日:2016年10月26日(水)16時50分48秒
編集済
  唯一の核被爆国が


>核禁止国連決議に不賛同 日本方針「分断が深刻化」
https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=292864&comment_sub_id=0&category_id=256

与党に公明がいながら核の傘に固執ですか。ここにも自らの売国的保身のためアメリカ
属国を国民に押し付けた「尊敬する祖父政治家」岸の亡霊が安倍を通して跳梁跋扈
していますが、なんら公明は歯止めになっていませんね。

 

参考までに【法華経で説かれた三諦論は「円融三諦」・・・】

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2016年10月26日(水)16時32分29秒
  『御義口伝 無量義経六箇の大事 第五 無量義処の事』

赤鬼さんの御書ブログ
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1427429.html

>>まず「円融の三諦」が説かれたのは法華経だけです。
これに対して、爾前教では三諦が別々に説かれました。
これを「隔歴の三諦」といいます。<<

>>法華経で説かれた三諦論は「円融三諦」
爾前教で説かれた三諦論は「隔歴三諦」<<

>>三諦を一つと見る、三諦を別々のものとして見る。それだけの違いです。<<
 

大白11月号に違和感箇所あり。

 投稿者:ひかり(正義の師子同盟)  投稿日:2016年10月26日(水)15時16分32秒
編集済
  74ページの冒頭

『日本経済の再生に向け、安倍内閣が打ち出した3本の矢の一つに「成長戦略」がある。』

この一文は要りませんよ。

なぜ、こんな書き出しにしたのですか?

日本経済新聞の真似ですか?産経新聞の真似ですか?

大白らしくもない。

この一文で何かが壊れている感じです。

壊れているのは、仏法者のデリカシーです。

違和感があり、不愉快です。



浜教授言われるところの「アホノミクス」が、どれほど弱者イジメの格差社会を生み出したか、

明確に社会現象化し、今やその害悪を否定するのは難しくなってきています。



アベノミクスという政策は、経済の均衡回復にも弱者救済にも頓着せず、

安全保障政策と表裏一体だと、安倍氏本人が言っていますね。



これは経済政策ではなく、政治的安全保障的な目的のために経済を振り回しているのです。

ここに、大きなはき違えがあるのに、公明党も十分に理解せず、追随です。

大変大事な点ですが、「政治的な思惑に基づいて、経済政策を振り回してはいけない」のです。



ユーロ危機がいい例です。

ユーロという単一通貨は、統一後のドイツの力を封じ込め、一人歩きを阻止したいという

安全保障上の狙いで誕生した背景があります。

ベルリンの壁が倒れて、東西ドイツが統一されるという歴史的展開がなかったら、

ユーロは存在していません。

しかしその後、身の丈以上の価値の通貨ユーロを手に入れたギリシゃは、お金を借りまくった。

そしてユーロ危機。

これが、「政治的な思惑に基づいて経済政策を振り回したツケ」なのです。

しわ寄せが、またはしっぺ返しが来るのです。



経済政策を本来の目的(経世済民)とは違った濫用をすると危険。

ご用心なんです。



政治は監視し意見し、決して、為政者にまかせっ放しはいけません。

そして、大白ともあろうものが、使う文言としてどうなのか、言わせていただきますよ。





 

寝たきりおじさん様

 投稿者:警鐘  投稿日:2016年10月26日(水)14時53分53秒
  コッペパンの話ありがとうございます

両親の姿、思い出しました
折伏し続けた人は皆、自分は食べなくても、友人に分け与えた経験を持っています

その人達だからこそ、それ以上されている先生に感動します

原田会長
「折伏します」と宣言して1年以上経ちますが、どうなりましたか?
自分の時間、お金、エネルギー
いつでも喜捨しないと出来ない仏の聖業
秋谷元会長も折伏したという話聞いた事がないですがー…?

私利私欲の人間に、仏の聖業の折伏は出来ない
創価学会は折伏の団体
創価学会の最高幹部は折伏の闘志こそ、ふさわしい立場である
自分の時間、お金、エネルギーを会員の為に喜捨出来る人こそ、ふさわしい

会員に時間、お金、エネルギーを喜捨させようと「強いる」人はもう結構
そんな人ばかりいても広布は一歩も進まない
そんな人で溢れていませんか?

「職員!幹部!議員!」
いつも先生が叱責されていました
あなたの周りのこれらの人達は大丈夫ですか?

 

フェイク 第1554号

 投稿者:宿坊  投稿日:2016年10月26日(水)13時57分16秒
  (発行=16.10.25)

国立戒壇は田中智学の造語だ
顕正会・浅井昭衛の邪見、戯言を粉砕する
「民衆の幸福こそ肝要、戒壇建立はオカラ」

顕正会の宣伝紙「顕正新聞」が十月十五日付で「九州大会特集号」として九
州大会(九月二十五日に開催)の模様を誇大に報道している。一面には「九州大
会 赤誠の結集一万一千人」という仰々しい見出しを付けて、記事でも「九州
全土から馳せ参じた一万一千余名」と書いている。

会長の浅井昭衛も「よくぞ、これほどのみごとな結集が成し遂げられたもの」
と有頂天の様子だ。

 だが、この顕正新聞の記事は虚報で、実際は本紙第一五四六号で紹介した通
り、〝九州全土〟ではなく、北海道を除く〝全国各地〟から未入会者や病人な
どを含めて無理に結集しての会合であった。

しかも、一万一千余人の結集というのも偽りである。第二会場のレセプショ
ンホールの四百人、中会議室に車椅子の百五十人、小会議室の子連れ五十人を
含めても約九千人で、二千余人も水増しの報道をしている。

大会では地震予知と他国からの日本への攻撃を語るしか能のない浅井が「そ
れにつけても、このところ九州の天変地夭は激しいですね」と能天気な語り口
で、熊本の大地震や台風の直撃に触れていた。

しかし、この熊本地震や先日の住宅倒壊、屋根や壁の崩落など広い範囲で被
害が出た島根の地震も浅井は予言できなかった。

この浅井が天変地夭、他国来難などは「正系門家が国立戒壇建立の御遺命に
背き、創価学会が極限の謗法を犯している」故である旨、非難を繰り返してい
たが、学会が謗法を犯しているとは的外れの戯言であり、これまでも再三、反
論した通りだ。

また、国立戒壇については以前にも述べたが、国粋主義者の国柱会・田中智
学の造語で、御書にはない。智学は日本の国体と仏法が一致するという邪義を
考え、その見地から国立戒壇を提唱したが、これは日蓮大聖人の仏法を矮小化
するものだ。大聖人の仏法は世界宗教であり、日本一国だけの仏教ではない。

戸田会長は国教化を否定

宗門も戦前、国立戒壇を取り入れたが、戸田二代会長は明確に国教化を否定
して事の戒壇の本義を「広宣流布の象徴」とみていた。

かつて池田三代会長が述べたように、戸田二代会長は民衆の幸福を最大の目
的に掲げ、信心が豆腐なら事の戒壇の建立はオカラのようなものと語っていた。

大聖人の時代と今は社会状況が違う。戒壇建立は古代・中世の日本仏教で重
視されたが、現代の仏教界では関心の的ではない。

戒壇建立は化儀に属すから、時代に応じて考え方を変えても良い。大石寺六
十六世・日達法主も「明治時代には国立戒壇という名称が一般の人に理解しや
すかったので本宗でも使用したが……いらぬ誤解を招いて布教の妨げにならぬ
よう今後は国立戒壇という名称は使わない」と指南した。

浅井は、こんな経緯や化儀の意味も弁えず、御遺命に背いたと無知を晒して
いるのである。

顕正会員を増やして国立戒壇を建てないと第三次大戦で人類が滅亡するとか、
世の中が乱れ、自然現象も激変するというのは、浅井一人の邪見にすぎない。


 

赤胴鈴之助さんへ

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)13時21分27秒
  そんなにむずかしく考えないでください。笑

まず「円融の三諦」が説かれたのは法華経だけです。

これに対して、爾前教では三諦が別々に説かれました。

これを「隔歴の三諦」といいます。

法華経で説かれた三諦論は「円融三諦」
爾前教で説かれた三諦論は「隔歴三諦」

三諦を一つと見る、三諦を別々のものとして見る。それだけの違いです。
 

会則珍問答⑬

 投稿者:ヨッシー  投稿日:2016年10月26日(水)13時19分27秒
  B 師匠!ご無沙汰しております。

A おお!誰かと思えば。

B お久しゅうございます。

A しばらく見ん内になんかスッキリした顔になったのー。

B 師匠はスッカリおふけに、、、あ、い、いえ、ありがとうございます。
 ここ一年、宿坊で暮らしておりましたので、そのおかげかと、はい。

A ほー、宿坊生活はそんないに良いんか。

B はい、なんといってもあれだけ忙しかった諸天善神が、最近はすぐ飛んできてくれますから。

A なんじゃと?

B ですから諸天善神が頻繁に、、、

A なんでおぬしの所だけそんなに、

B ええ、以前は競争率もはげしくて、チョット寝坊しようもんならみんな出払ってしまってメッキリ気配が薄かったんですが、最近はもうバンバンと、、、

A するとなにか?おぬしは会員のくせに新経本に従っておらんのか。

B ええ、観念文ですから別に誰かが見ているわけじゃありませんし、ご覧になっているのは御本尊だけですから。

A ちょ、ちょっとこっち来い、、、、、、、、、、 そうか、言わなきゃいいのか!

B はい。それと師匠、ここだけの話ですが、最近の諸天善神は法味に飢えているようですよ。ここんとこ地震や大風雨が増えてるのもそのせいだと、もっぱらの噂ですよ。
 ここだけのはなし。

A たしかにの~

B それに、I大師匠だって、
「わが生命に、諸天善神を「入其身」させていける。梵天、帝釈、日天、月天よ、わが身に入って力を発揮せよ! この強き祈りである」とおっしゃってるのに、その諸天を袖にしたんじゃ「入る」どころか近寄ってもくれませんよ。

A そ、そうか、、、、なんで早く教えてくれんかったんじゃ。

B だって師匠は「認定力」信奉者でしょう?

A (周りを気にしながら) ウーン、そうじゃがさすがのワシもあの宮田なにがしという奴の理屈には首をかしげとるわい。

B だったら師匠も法味を送ったほうがいいですよ。

A そ、そうだな。

B 今朝だって、勤行してたら後ろにズラーっと諸天善神が並んでたんで、ビックリして私出席とったくらいですから。ハッハッハッ。

A ほ、本当か?

B 冗談ですよ、師匠。

A おい、おい。

B 冗談はともかく、諸天善神を軽く見ちゃいけませんよ。

A そうだな。実はワシも、最近どうも諸天善神が素っ気ないと感じてたんじゃ。
  明日から元通りやろうっと。

B でしたらついでに、、、、、

A オッ、まだ何かあるのか? もったいぶらずに教えてくれよ。

B あっ、もうこんな時間。諸天善神が「早く行かないと仕事におくれるぞっ」って
 囁いたんで、、、、それじゃ、、、

A お~い! 明日もまってるからなー、、、、、お~い!


(つづく)
 

寝たきりオジサン様、ありがとうございます(^○^)

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2016年10月26日(水)12時44分7秒
  札幌創価幼稚園のお話、コッペパンのお話、涙だけで

なく鼻水まで出てきながら読ませていただきました。

何でこれほど感動するのでしょうか?身震いします。


信濃町の執行部、自分達で勝手に先生のご指導に反し

ておきながら『おかしいだろ』と指摘しただけで、査

問、除名、処分しているている執行部、その冷酷さは

ヒトラーと同じ、北朝鮮と同じだ!

秋谷、八尋、谷川、原田、浩、お前達でもさすがに

ヒトラーや北朝鮮のやり方は間違っていると思うでし

ょう?思わないかな?

お前達のやっていることはヒトラーや北朝鮮と、

ま・っ・た・く・お・な・じ・

ゆっくり言うよ(^○^)

・ま・っ・た・く・お・な・じ・

自分達の事をしっかり見つめ直すべきだよ┐(´д`)┌



 

【信仰と哲学と三諦論】12/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)12時39分5秒
  整理すると、

信仰(南無妙法蓮華経)の実践論を構成する「智慧・真理・慈悲」の三つの側面を、

創価思想は現代的に、

価値論は智慧、
生命論は真理、
人間論は慈悲

として展開し、日蓮仏法を主眼とした大乗仏教哲学を、それぞれ違った角度から光を当てたもので、

いずれも「人間と社会と自然」を主体とした創価学会独自の思想的価値です。

そして、牧口・戸田両先生の志ざしを継いで、この創価思想を「人間主義の宗教」として強調し、
世界百九十二か国地域に宣揚したのが池田先生なのです。

大聖人は

「無量義は〝一法〟より無量の義を出生す」(七八四頁)と述べています。

どんな思想であれ、主義主張であれ、それらはすべて「根源の一法」から
生じたものであるとして、包括的にとらえ、それらを止揚(より高い段階で生かす)しつつ、

正しい位置を与えていくのが仏法の中道思想です。

人間の創り出した社会体系が、やがて人間の手を離れ、逆に人間を支配するにいたった現在、

それを「人間のため」の体系として編成するには「人間生命の尊厳」を裏付ける
確かな生命哲学を基調としなければならない――だからこそ

信仰者は確かなる日蓮教学(生命哲学)と、創価思想の研鑽を怠ってはいけないのです。

池田先生は「創価学会は永遠に仏法中道の大道を歩む(趣意)」と訴えています。

私たちはこの師匠の〝志ざし〟を継承し、二十一世紀を「生命の世紀」にしていくことこそが、

弟子の使命ではないかと考えます。


― おわり ―
 

【信仰と哲学と三諦論】11/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)12時38分29秒
  当時の状況を語った戸田先生の「創価学会の歴史と確信」(戸田城聖全集三巻一〇六頁)を
読めば分かりますが、牧口先生の身は宗門にありましたが、

牧口先生の視点は、すでにその枠を超え、その態度はあくまでも

「一宗が滅びることではない。一国が滅びることを嘆くのである。
宗祖聖人のお悲しみを恐れるのである。今こそ国家諌暁の時ではないか、
何を恐れているのか知らん」でした。

これが牧口先生の心であり、創価学会の原点です。

国家権力に対して諌暁した獄中での戦い(訊問書)で、牧口先生は

「在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を取り入れたところに
私の価値があるわけで、そこに創価教育学会の特異性があるのです。

一応は日蓮正宗に所属していますが、創価教育学会そのものは、日蓮正宗の信仰に
私の価値創造論を取り入れた立派な一個の在家的信仰団体です(趣意)」

(牧口常三郎全集十巻一八八頁)と述べています。

牧口先生は日蓮仏法を「価値論」という視点から、
価値創造の実践力を問い続け〝智慧〟の力を追求したものといえます。

つまり、人間の実践を主題化した創価思想の倫理哲学(多方面の道徳や正邪の基準を考える哲学)です。

また、二分法(有・無)ではとらえ切れない生命こそが〝仏の正体である〟と悟達した
戸田先生の「生命論」は、釈尊の説いた〝中道・縁起〟や、竜樹の説いた〝空観〟等々と

表現される大乗仏教哲学の〝真理〟の現代的表現です。

この戸田先生の生命論は、創価思想哲学それ自体ではないかと思います。

そして、主体的な人間と人間とが調和して、友好的に結びあう世界を目指す
池田先生の「人間論」は、仏法の〝慈悲〟を化儀として確立するもの――つまり

社会理念化するものとしてとらえることができ、社会哲学(社会の在り方について考える哲学)ともいえます。
 

【信仰と哲学と三諦論】10/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)12時37分52秒
  厳格な科学的態度と実証主義的な生き方を貫いてきた牧口先生は、
宗教はもとよりそれに限らず、一貫して〝生活との関係の証明〟に関心をもっていました。

牧口先生が日蓮仏法に引き付けられた理由はいろいろあると思いますが

「日蓮仏法を信仰してみよう」と心が動いたのは、釈尊が説いた
釈尊滅後の仏法変遷の予言が、日蓮大聖人によって実証されたからだと思います。

牧口先生はこう述べています。

「されば日蓮大聖人が法華経の予言通りに、末法の日本国に出現して、
その文々区々を御一生のうちに示しあらわして、生活との関係を証明されなければ、
法華経一巻は単なる雄渾壮麗なる構想の小説として文学感賞の作品にしか過ぎないであろう。

したがって釈尊のみでも、日蓮大聖人のみでも、単独ではいかなる苦心惨憺(くしんさんたん)の証明も、
人をして信用させるわけには行かないであろう。

かく前仏(釈尊)と後仏(日蓮)と互いに相応することによって初めて信ずることができる(趣意)」

(牧口常三郎全集八巻六七頁)と。

牧口先生は仏法が決して人生の実生活と無意味なものではなく、
むしろ万人を幸福にしていくものであると考えていました。

そして、前仏(釈尊)と後仏(日蓮)の相応が二千年の時を超えた
必然的因果関係として納得できたからこそ、日蓮仏法の信仰を始めたのだと思います。

牧口先生は宗門に入会してからも一貫して

「発達したる人民は必ずしも宗教の起源地、その他の霊地を参詣せずとも内心の信仰によりて、
その宗教心を満足するを得るに至る」(牧口常三郎全集七巻九二四頁)

という考えは、いささかも揺らいでいません。
 

【信仰と哲学と三諦論】9/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)12時37分12秒
  社会のより良き発展を支える「原点・調和・進歩や活力」の三つをともに備え、

円融にして円満なる大宇宙の本源の当体こそ、真実の中道であり、南無妙法蓮華経なのです。

「三諦がバラバラではなく、渾然一体となっている実体、すなわち円融の三諦とは何であろうか。
それはいわゆる南無妙法蓮華経なのである(通解)」(七一七頁)とある通りです。


三諦論は〝一諦即三諦(いったいそくさんたい)、三諦即一諦〟という円融の三諦が説かれて完結します。

つまり、生命は三諦によってとらえても、決して「空・仮・中」それぞれがバラバラに分離して存在し、
生命がそれぞれによって組み立てられているというものではなく、

あくまでも一つの実体を三つの観点から認識するということです。

いってみれば、認識する主体からの光のあて方によって
三つに現れるものですが、実体は一つなのです。

三諦といっても一諦に含まれ、一諦といっても三諦によってとらえた実体の一面なのです。

この円融の三諦こそ、生命の全体把握であり、一切の思想・哲学を包含した完全無欠の大哲学なのです。

この「円融の三諦は南無妙法蓮華経なり」と結論した大聖人の思想を、
三つの視点から光をあてて社会に展開し「創価思想」ともいえる哲学形成の基盤を作ったのが、

創価三代の師匠である牧口先生、戸田先生、池田先生です。

最後にそれを確認して終わりたいと思います。
 

【信仰と哲学と三諦論】8/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)12時36分34秒
編集済
  ここで三諦(空・仮・中)の原理を、現代の支配的思想である

「唯心論・唯物論・実在主義」にあてはめてみると、

唯心論は空諦の一部分、
唯物論は仮諦の一部分、
実在主義は中諦の一部分

をそれぞれ説いたものといえます――とはいっても、それぞれ同じであるというのではなく、
それに近い極めて表面的な一部分を説いたというだけです。

もっと具体的にいえば、

唯心主義は十八世紀初頭のイギリスの代表的な唯心主義者バークリーが
「物質はことごとく心の幻影にすぎない」と述べているように、

物質よりも精神、肉体よりも心を中心にして考える思想であり、空諦に重きを置いた考え方です。

また

唯物主義は生命を物質面に置き換えて考えるがゆえに、仮諦の一部を説いたと言えます。

さらに

実在主義は自己の本質とは何かと問い、人間性の究極を実在と名づけ、これを追究しています。
この実在という考え方は、中諦に近い発想であるといえます。

要するに、これまでの哲学はいずれも三諦のごく一部を説いたものであり、一面的な生命観です。

しかも唯心論は現実から遊離した観念の遊戯に堕しており、
唯物論はそれで生命全体を規定しようとしたために「生命の尊厳」をふみにじる暴力革命論を生みました。

さらに実在主義は追究すべき実在の実体が明確にされず、生命の内奥にみる宿命を打開することはできません。

これらに見られる生命観の誤りは、生命に対する見方の誤りというより、
部分をもって全体とすることからきていると思います。

また、現代社会にあてはめて考えていけば「進歩や活力(空)・調和(仮)・原点(中)」の三つのうち、
どれ一つ欠けても、社会の健全な発展はあり得ません。

たとえば、人間という原点なき調和は、馴れ合いの利害的妥協となります。

また、進歩なき調和は停滞です。

さらに、調和の視点が欠落した進歩や発展は、社会にさまざまな歪みをもたらし、
偏ぱな社会を作り出して民衆を不幸に追い込んでいます。
 

便所虫は、便所の落書きが有るトイレ100メートル圏内をグルグル飛び回る?

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月26日(水)12時36分12秒
編集済
  便所虫らしい表現ですね。ハエは、仲間に獲物が有る場所を弧を描きながら知らせる特性が有ると、その昔読んだ本に出ていました、ファーブル昆虫記?専門書でしたか?何方か調べて下さい。便所虫も100メートル圏内で、便所男を呼ぶために、自身のブログで弧を描いて飛び回るマネをする。ハエが手を擦る、足を擦るの譬えですね。

便所の落書き見て興奮する便所男、信濃町界隈の妄想・偏向・誤認情報に基づき憶測、推測、伝聞、風聞、思い込みで物事を処理する無能さ。腐敗・堕落した老害組織で便所虫です。
 

【信仰と哲学と三諦論】7/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)12時35分59秒
  整理すると、

①空諦とは〝性分〟のことであり、智慧の発露ですから進歩であり活力のこと。
②仮諦とは〝仮和合〟のことであり、現実の姿ですから調和のこと。
③中諦とは〝常住不変〟のことであり、不変の生命ですから根源・一切の成り立つ原点のこと。

この三諦の認識論こそが、東洋哲学(大乗仏教)の根幹となるものであり、実体を認識する理論体系です。

これまでの西洋哲学には、この概念と思考がありませんでした。

たとえば「空」という概念を取り上げても、
一般の哲学においては「有と無」の二つを根源として考え、それ以上は進んでいません。

しかし「空」は無ではありません。

有るといえば無く、無いといえば有るという、有無を決めることができない
宇宙の森羅万象、生命の特質が仏法では完全に説かれているのです。

また「仮」という考え方も仏法独特のものであり、あらゆるものが瞬間瞬間に変化し、
一定のものは何ひとつない。森羅万象がことごとく

「生老病死」
「生住異滅(しょうじゅういめつ)※生成・定住・変化・滅失」の姿を示しています。

科学が素粒子の世界に、また宇宙に、この姿を見出したのはつい最近のことです。

ところが仏法においては、すでに三千年前にその方向を達観していたのです。

中諦にいたっては他の哲学・思想の想像を、
はるかに超えるものであり、生命の本質を解き明かした大哲学です。

仏法哲学の偉大さは、この中諦の発見にあったともいえるのです。
 

赤胴さま、いい感じです!

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月26日(水)12時23分20秒
  こういう、やりとりを待ってました!!

私は、難解問答(要するに小難しい教学言語を駆使する)を某坊主とやってヘキエキした思いがあります。どんどん、投稿して下さい。若手の教宣メンバーにも役立つし、天井向いて喋る変態大患部を叩きのめす事が出来るようになります。グリグリさま、分かりやすいご展開をお願い致します\(^o^)/
 

最近の柳原滋雄コラム日記

 投稿者:ダメよ~ ダメダメ  投稿日:2016年10月26日(水)12時21分21秒
編集済
  カンピースさん仰る通り最近はモチベーションが下がっているのか(笑)あまり面白くないし、

元々切れ味は悪いが更に悪くなっているご様子。

「宿坊の掲示板を叩くと体調が良くなる」ツイッターで呟いておられましたが、最近は絶好調な

んですかね。

でも今日のお題「100メートル圏内に固まって住む人びと」だけど、以前、わざわざ彼らの自

宅を勝手に写真を撮りに行っているのに直接会って取材、確認もせず一方的に写真のみ取り上げ

批判記事を書かれていたと記憶しますが。

「この10月20日付の文面から推察する限り、新たな書籍でも彼らのブログの内容と同じく、自分たちの立場からのみの主張が書かれているものと思われる。」
(柳原滋雄コラム日記 2016/10/26より抜粋引用)

と仰っているが、ご自分も信濃町界隈の偏向・誤認情報に基づき一方的に。取材、確認、精査す

ることなく、憶測、推測、伝聞、風聞、思い込み、決め付け等々「自分たちの立場からのみの主

張」及び批判をされていませんか?

またまたブーメランになっていませんか?(笑)

柳原さん、「妙法のジャーナリスト」なんですからもっとモチベーションを上げるご努力をして

ご健闘下さい。
 

大仏のグリグリのとこ さん【信仰と哲学と三諦論】・・・わたしは褒めることはしません。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2016年10月26日(水)12時13分44秒
編集済
  大仏のグリグリのとこ さん【信仰と哲学と三諦論】・・・わたしは褒めることはしません。
なるほどね、・・・、これぐらいわかりやすい言葉で、記述し、読みやすく改行して、深い哲学を語る、
出来ないと思わずに、皆さん、マネしましょうよ。

三諦論について、体験があります。
私は40歳代で地区部長、その人は、60歳代で地区幹部、ある会合か路上だったか、忘れましたが、悔しい
ことがありました。

その人曰く、三諦は知っているよね。
知っています、空・仮・中ですよね。

じゃ、隔歴 (きゃくりゃく) 三諦は知っているよね。
いや、初めて聞きました、しかしそれは天台流でしょう。

じゃ、日蓮大聖人は天台宗か・・・。
いや、そんなことはありませんよ。

御義口伝勉強しただろう、円融三諦、隔歴 (きゃくりゃく) 三諦は出て来てるよ。
はい、勉強はしました、よく覚えていません。

男子部上がりだから、しっかり勉強しなさい。と指導されて、しったかぶりで、天狗になっていた、私は、
悔しくてたまりません。

そこで、言ったらだめの事を言ってしまいました、20年経ったらあなたより、もっと、御書を知ってると
思いますよ・・・。
そのとき、なぜ教えてくださいと言えなかったのか、情けないです。

大仏のグリグリのとこさん、お願いします、教えてください。

円融三諦と隔歴 (きゃくりゃく) 三諦の違いを・・・。

下記の論では、さっぱりわかりません。

円融三諦
えんにゅうさんたい
仏教用語。完全にとけあっている三諦 (3つの真理,3つの見方) 。隔歴 (きゃくりゃく) 三諦に対する言
葉。空,仮,中の三諦は天台宗において展開され受継がれてきた独自の思想で,円融三諦とは,働きに応じて
三諦の区別はあるが,その本体は一つで三者が互いに円満し合い融通し合って一諦がそのままただちに他の
二諦であるという意味。

十八円満抄 P1364
日蓮案じて云く此の相伝の義の如くんば万法の根源、一心三観一念三千三諦六即境智の円融本迹の所詮源蓮
の一字より起る者なり云云。
 

過去1力月に1冊も本を読まない人46%と。青年は読書と思索のいとまを持て!

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月26日(水)10時51分18秒
編集済
  とは、本日の寸鉄様の記事です。

創価村の貴族社会では、読書は毒である!読むな、見るな、聞くな、の三無指示を受けて皆、指示待ち症候群で生活しています。だから、過去1ヶ月どころか、十数年間いや数十年間、貴族によっては生まれてから青年・壮年を経てもビンボー人みたいに、文庫本持っているのが恥ずかしいと言って、開いた事の無いハードカバー本を持ち歩くスタイルはあっても、読んだことは全く無いという極楽トンボ、いや間違い、ケダモノ弓谷みたいな貴族ばかりです。

そもそも、創価村貴族社会では、読書は御法度でしょう!STB・VOB編集済動画が全てです!!ナルシズムとセンチになりながら、映像見ながら邂逅する老人(-_-)これが正しい創価村貴族ですね。

そうで無い方は、この板で、削除された先生のスピーチ、グリグリさまの分かりやすい教学展開等、しっかり読みましょう\(^o^)/

書き忘れました。読書というのは、若い時に訓練(精読)していないと、年を取ったら雑念ばかりに邪魔されてまともに理会出来なくなります。これも年を取ってからでは取り返しの出来ない事実です。カラ題目唱えても無理ですよ(-_-)
ジャン・バルジャンは徒囚となって四十歳で徒刑場の学校に入って文字を覚えた。それは、『直接原因が飢えにある』ことと『窓ガラスを破りパンの一片に手をつけたがため』の十九年に及ぶ牢獄生活だったからです。高学歴で高収入、何をやっているか訳の分からない昭和の重厚長大な事務機構の中でマスをかいているのではありません。この意味も分からないくらい、腐敗・堕落しているのでしょうね。(-_-)



 

柳チャ~ン、毎日駄文ご苦労様でした~。

 投稿者:カンピース  投稿日:2016年10月26日(水)10時24分38秒
  おはよう柳チャン、本日のお題は「100メートル圏内に固まって住む人びと」とのこと。

ナニが書いてあるのかといえば、元3名の書籍発刊に対するコメントだけ(笑)切れ味悪~い。

なにか表現がおとなしくなっちゃったね~(笑)これも裁判の影響かな?

なんせ東京高裁から大草氏の判決で断罪されちゃったからね~

「柳原の記述には大草氏に対する個人攻撃を目的としており、これらの記載に公共性及び公益性を認めることはできない」って言われてるし、(笑)

判決文流にいえばさ~、柳チャンの文章は

「柳チャンの記述には元3名に対する個人攻撃を目的としており、これらの記載に公共性及び公益性を認めることはできない」って感じかな~(笑)

柳チャン、公共性・公益性を明らかにするためにも、元3名の集会にはぜひ参加しょうよ~(笑)

そこで、元3名の方々と議論すればいいだけのハナシじゃな~い(笑)

来なかったら、逃げてるって思われるよ~(笑)小生もぜひ見てみたいな~(笑)

頼むよ!柳チャン、(笑)

 

空・仮・中の三諦(認識論)楽しみです\(^o^)/

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月26日(水)10時22分44秒
  グリグリさまの分かりやすい教学論、皆さん、しっかり学びましょう。この認識論を活用しながら、私は創価村の貴族社会の面々を認識・評価して叩いていく決意です。便所虫やら便所の落書き見て興奮している変態の便所男もね!!  

【信仰と哲学と三諦論】6/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)08時59分3秒
  〝仮諦〟とは、一切の現象を物質面、現象の変化の面から見ていく現実の姿です。

一切の現象は「因と縁によって和合(仮和合)」していると認識するのが仮諦です。

仮とは、一般的に言う<仮(かり)の現象>という意味ではなく、言ってみれば
「存在の変化」の面と「生成の発展」の面をいいます。

たとえば、私たちの肉体でいえば、さまざまな器官が独自の機能を果たしつつ、
全体の調和を保って、統一した生命体を形づくっています。

しかし死の訪れによってすべてが灰となり、塵となってしまいます。
このように、統一した生命体として機能している姿は「仮和合(調和)」としてとらえるのです。

〝中諦〟とは、統一(調和)された生命体としての存在を明らかに見ることです。

それを常住不変の実体と見ます。

たとえば、Aさんという人の肉体は仮和合で新陳代謝を繰り返し、瞬間瞬間に変わっていきます。
また、Aさんの心も瞬間瞬間に怒ったり、笑ったりしています。

しかし、この仮諦と空諦だけでは生命の真実の姿をとらえたとは言えず、
さらにそこには常住不変の生命を見ることができるのです。

どういうことかというと、

たとえば、少年の時、壮年の時、老年の時にも一貫して変わりないAさんという人格が存在します。
このAさんをAさんたらしめている実在を「我」といい、この本質に眼を開いていくことを中諦というのです。

中諦は不変の生命ですから「我(根源・一切の成り立つ原点)」といえるわけです。


・・・つづく (たぶん夕方)
 

【信仰と哲学と三諦論】5/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)08時58分27秒
  さて、哲学の話にもどします。

冒頭にも述べましたが、哲学とは森羅万象(一切の現象)のその奥にある実体と本質への解明にあり、

その命題は「真実の実体とは何か」という問いかけに出発点があると述べました。

つまり、私たちの肉眼に映る世界だけが本当の姿なのか、
それとも科学で見出した原子の世界がすべてなのか、

それとも精神の世界が真実の実体なのか等々――今もってこの論争は続いています。

たとえば、唯物論、唯心論などがそうです。
しかし、東洋哲学(大乗仏教)では、この問題をいとも簡単に解き明かしています。

それが「三諦論(三諦の原理)」です。

三諦とは、空諦(くうたい)、仮諦(けたい)、中諦(ちゅうたい)の三つをいいますが、
〝諦〟とは「つまびらか・あきらか」という意味です。

宇宙の森羅万象の実相(真実の姿、実体)は、この三つの視点とその立場から、
誤りなく明らかに把握することができるというものです。

つまり〝三諦〟とは、大乗仏教を哲学的に体系化した「認識論」です。

この三つの視点を簡単に説明すると、

まず〝空諦〟とは、一切の現象の「性分」を見ることです。性分とは性質、智慧、感情などを指します。

空とは、有るといえば無く、無いといえば有るという有無の概念を超えた存在であり、
物質的にとらえることはできないが、状態としては厳として認めざるをえない実体です。

たとえば、我が心の中に〝怒る〟という状態があるとします。
怒りは縁にふれて起こりますが、怒っていないときには、その怒りの状態はどこをさがしても我が心にはありません。

では無くなったのかというと、完全に無くなったのではなく、また縁にふれてあらわれてきます。
それだけではなく、十界の感情が内在しています。

また万法の性分とは、人が話をしたり、花が咲いたりすることもそうでしょう。

これらは生きていくうえでの智慧の発露ですから〝進歩・活力〟と、とらえることもできます。

このような存在を「空(進歩・活力)」というのです。
 

【信仰と哲学と三諦論】4/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)08時57分48秒
  天台仏法が一念三千論として示した法華経の「実体」を、大聖人は
〝南無妙法蓮華経〟と認識し、後年、この題目を配した曼荼羅本尊を図顕します。

そして、どんな人でも直接、仏法の究極の実体に触れるような信仰環境を整えようとしたのです。

大聖人が確立した修行法によって万人が実践可能となり、死に絶えていた釈迦仏法が
日蓮大聖人の確立した仏法によって見事に蘇生したのです。

だからといって大聖人は「和合僧団」を決して否定していたわけではありません。

事実において、大聖人の「志ざし」を継承しようとする和合僧団を大切にしてきたし、
晩年には六人の老僧を定めて滅後における「志ざし」の継承を期待しています。

これらの歴史的事実を見た時に

「日蓮は釈尊の法華経から一歩も抜け出ていないので釈迦宗の一派だ」
「天台の一念三千論を継承しているから日蓮は天台宗の分派だ」

などと、くだらない議論が、民衆にとって一体何の利益があるのでしょうか。
これを観念の遊戯というのではないでしょうか。

大聖人の仏法は「生命の本質」に迫った哲学であるとともに、
森羅万象の基底に流れる生命に視点を置き、その実体を明らかにして、

その本質や働きを説いたものです。

西欧哲学や科学は、さまざまな現象を研究したものですが、
仏法はそれらを包含する生命現象を本質論から展開した哲学といえます。

大聖人は宇宙の生命力を文字曼荼羅の「本尊」として顕しましたが、

視点を変えれば、

むしろ宇宙の森羅万象を動かしている大生命の法則を究明できたればこそ、
実体としての「本尊」を確立できたのだと思います。

釈迦仏法も生命の究極を把握しようとしていましたが、完全に成し得なかったのが実情です。
だから結局、実体としての「本尊」を確立できず、精神主義に陥ってしまったのだと思います。

大聖人が提示した宇宙を動かす大生命の法則とは「南無妙法蓮華経」です。

南無妙法蓮華経こそが生命の本質であり、根源の実体であり、崩れざる絶対の幸福を確立する本源です。

そのように認識した実体(南無妙法蓮華経)を根本にして、
生活・人生・社会に価値を創造していく実践が信仰なのだと考えます。
 

【信仰と哲学と三諦論】3/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)08時57分6秒
  生命の実体を解明した哲学(大乗仏教)や、日蓮仏法を体系化した大論師たちの英知(論釈等)は、
決して一部の人のものではなく、全民衆のものとして高めていくべきです。

なぜかといえば、

生命哲学や信仰には国境はなく、人間の幸不幸の問題は、時代も国境も関係なく、
全生命に貫かれた普遍性のものだからです。

それが池田先生の訴えた二十一世紀は「生命の世紀」たらしめることだと考えます。

大聖人は

「日蓮はいずれの宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず」(一二三九頁)

と明確に断言しています。

つまり、大聖人は一宗一派の教団を立ち上げるという意識はまったくなかったということです。

大聖人の生き方を追ってみると、十六歳の時に、
日本天台宗の支部ともいえる清澄寺で入会し、仏法の基本を学びます。

その後、本部である比叡山に留学して、本格的に天台の仏教哲学体系を研鑽し、
釈尊の精神や天台教学の真意をつかみ取りました。

しかし、大聖人は本部である比叡山の群れから離れ、支部の清澄寺に帰って、

自身がつかんだ法華経の精神を宣言した途端に、迫害が起こり、支部(清澄寺)から「破門」――。

この一連の流れを見て疑問に思うことは、
なぜ大聖人は本部(比叡山)の群れから離れたのかということです。

それは伝教が法華経の精神を伝えるために開いた比叡山や、
京都、鎌倉における体たらく、死せる宗派や教団の現状を見た時に、

権力と癒着し、権威と化儀で凝り固まった教団を否定したのだと考えます。

上記の大聖人の言葉は、それを物語っているように思う。

事実において、その権威権力を一番嫌ったのが大聖人であったし、
それらと命を賭して戦ったのが大聖人でした。

この世の一切の現象に、究極の真理の輝きを認め、
それを自在の智慧で生かそうとする釈尊の法華経は、

天台によって仏教史の表舞台に登場しましたが、
長い間、一部のエリート学僧の間で議論されるにとどまっていました。

しかし、その限界を打ち破る法華経信仰が、大聖人によって、再び「民衆仏法」として蘇ったのです。
 

【信仰と哲学と三諦論】2/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)08時56分19秒
  これは仏法を学んでいくうえで、本質論の基本・前提とも言えるものですが、
釈迦仏法と日蓮仏法の最大の違いは「実体」があるか、ないかということです。

実体とは何かというと「本尊」です。

この本尊が確立しているか、いないかが、釈迦仏法と日蓮仏法を決定的に分けている点なのです。

釈迦仏法では〝本尊〟が確立されていないので、実践法が明確ではなく、
釈尊滅後は一部のエリートだけの専有物となってしまいました。

しかし、日蓮大聖人の仏法は〝本尊〟を確立したことによって、
全民衆が実践できるものとなり、同時に全世界に流布し得るものとなったのです。

そもそも信仰と哲学は本来、ひとつ(一体)のものです。

そうでなければ、哲学だけでは空虚なものになってしまい単なる絵に描いた餅です。
また信心だけでは盲目・盲信となってしまいます。

仏法を哲学の面からみれば、鋭い直観智をもって、生命を洞察した偉大な哲学体系です。

特に日蓮大聖人の生命哲学は、過去の大論師が築き、積み上げてきた大乗仏教哲学を、
最大限に活用し、応用しつつ、生命の根本を完璧に解き明かした哲学の最高峰といえるでしょう。

しかし、今や日本の既成仏教は形骸化し、形式主義に流されているように見えます。

そうなった最大の原因は、本来、民衆を教化していく立場の人間が、
一宗一派という小さい群れにこだわり、深い哲学的思索と研鑽を怠ってしまったからだと思います。

また哲学界にしても、いたずらに難解な言辞を弄し、観念論となっているのは、
信仰という土壌を失ってしまったからだと考えます。
 

【信仰と哲学と三諦論】1/12

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年10月26日(水)08時55分42秒
  人類は古来より大自然の驚異に対して、恐れ敬う心(畏敬の念)とともに、
人間を含めた一切の現象の根底にある本質への解明を探究してきました。

西欧文明から発祥した哲学は、プラトンの
イデア論(※我々が肉体的に感じている対象や世界はあくまでもイデア<※神に似せて作った像>にすぎないという説)、

アリストテレスの形相と質量の説、また実在主義における存在論など、
事物をどう捉えるかということについて、実にさまざまな説が唱えられ、激しい論争を繰り返してきました。

一方、東洋文明から発祥した哲学は、
何と言っても釈尊を起点として、竜樹・天親・天台が有名です。

また、近年の原子論から素粒子論にいたる科学的分析も、
事物の本源的な実体を考察していこうとする哲学的な姿勢から生まれたものです。

要するに、哲学とは

森羅万象(一切の現象)の根底にあるものとは何かを問いかけ、解明していくことを出発点とした学問であり、
人生・世界・宇宙の究極を探究したものが哲学の終着点だと思います。

それに対して、

信仰はその「実体」なるものを認識し、認識した実体を根本にして、
人間の生活・人生・社会に価値を創造していく実践が主眼となります。

一般的に「信仰(信心)」といえば、釈迦仏法を思い浮かべる人が多いと思いますが、
私たち学会員は日蓮大聖人の仏法を信奉しています。

では、釈迦仏法と日蓮仏法の最大の違いはどこにあるのでしょうか。

まずはここから考えていきたいと思います。
 

2008 札幌創価幼稚園エピソード

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2016年10月26日(水)08時01分49秒
  創価学園は、昨年の創立40周年を経て、
本年は50周年に向け「創価教育第二幕元年」
と位置付けしスタ-ト致しました。

札幌創価幼稚園は開園33年となります。
3月の代表者会議で先生より「札幌創価
幼稚園はコスイギン首相との2度目の会見の
翌年の1976年に開園した。

これまで卒園生は6000名を越え、博士や教員
なども多く誕生している」と紹介して頂きました。

今日では、園の行事を行うと、全道各地は勿論、
最近は九州、大阪、静岡、埼玉、仙台等々
おじいちゃん、おばあちゃんが孫の応援に
駆けつけてくれます。

先日、創価学園特別文化講座「大詩人ダンテを語る」
の最終回、先生よりお話があり「紙面に幼稚園の写真を」
とのことで、開園時のバスに乗る創立者と園児の写真が
掲載されました。

先生にお礼と幼稚園の御報告をする。
報告内容「年長すずらん組の法福仁香ちゃんは、
お父さんを3歳で亡くしております。ロシア人で
コロンビア大学の客員教授そして北大の大学院で学ぶ中、
一時帰国したロシアの地で心臓麻痺で亡くなりました。
(享年41歳)

仁香ちゃんは母と祖母と祖祖父の4人家族。
幼稚園でダンテの話を聞いて帰ってきた仁香ちゃんが
おばあちゃんに語りました。

「おばあちゃん、ダンテって知ってる? ダンテはね、
5歳の時にお母さん、それからお父さんも
死んじゃったんだって。それでも負けないで一人で
がんばったんだよ。

強い人なんだよ。先生が教えてくれたんだよ。
だから仁香もお父さんいないけどがんばるから!」
おばあちゃんは思わず仁香ちゃんを抱きしめ号泣
したそうです。

元気に登園している孫の姿から、池田先生に何度も
感謝の言葉を言っておりました。

この報告に対し池田尊弘学園主事より、先生が
「ダンテをしてよかったね」「この家族を激励したいね」
とのお話をいただき、さっそく仁香ちゃん(5歳)に
エンピツとノ-トのセット。

母(38歳 白ゆり長)に奥様の押印の写真集。
祖母(56歳 副本部長)と、祖祖父(83歳 区副本部長)
に記念のファイルをいただきました。

関西創価高校の修学旅行生との交歓会の様子が
5月29日付け2面に掲載されました。
ブランコに乗ってる女の子は、年少・ほし組の
桐越さゆきちゃん。お姉ちゃん、お母さん、
おばあちゃんの4人家族。お父さんはいません。

お母さんは全盲です。園児が手をつないで登園します。
おばあちゃんが支えます。6歳のお姉さん共々、
3歳の時から目の見えないお母さんから口伝えで教えて
もらい、毎日欠かさず勤行を実践しています。

朝は6歳のお姉ちゃん、夜は4歳のさゆきちゃんが
導師をします。ご祈念の時大きな声で「お姉ちゃんが
学校でいじめられませんように」と祈るやさしい子です。

指折り数え、楽しみにしていた大好きな創価の
お姉さんに、ブランコを押してもらい、本当にうれしそう
な声で笑った時の写真でした。

先生、奥様にいつも温かく見守られ、札幌創価幼稚園の
園児は本当に幸せです。

<札幌創価幼稚園:すずらん組エピソード>

澤井孝一くん
年長組に進級してより、学年で毎朝「池田先生ニュース」
の取り組みをしています。毎日、聖教新聞を子ども達に
見せ、池田先生のスピーチやわが友に贈る、随筆など
子ども達がわかりやすいように話し、創立者の心を
伝えてきました。

初めての池田先生ニュースの時間、聖教新聞の意義を
「聖教新聞は、池田先生が世界中の人を幸せにするために
作った新聞であること、みんなが1日元気に過ごすために、
毎日書いてくださっていることを伝えました。

孝一くんはその日から、毎朝家で新聞を取ってくることが
日課となり、「池田先生、今日はなんて書いてくれているの?」
とお母さんに聞いてくるようになりました。

それから、毎朝、お母さんと新聞を開いて登園することが
日課になっています。
4月の終わり頃,お母さんの折伏現場に孝一くんも一緒に
ついていくことになりました。最初は孝一くんを預けて
行く予定でしたが、預っていただける場所がなく、
お母さんは孝一くんを連れていきました。

お母さんの友人は、陶芸をされている方で、友人が
お母さんに「私の陶芸の師匠が…」と話しをすると、
すかさず孝一くんが口を挟み、「僕の師匠は池田先生
なんだよ!」と言い、友人はとても感心したようです。

お母さんは、友人に聖教新聞を啓蒙しようと話始めると、
そこでも孝一くんが口を挟み、「聖教新聞は世界中の
人を幸せにするためにつくった新聞なんだよ!」と話し、
友人は、まだたった5歳なのに、自分の師匠をもっている
と嬉しそうに話す姿や新聞の話しをする姿に感動し、
入会決意となりました。

お母さんは、先生の心がまっすぐに入り、純粋に師匠を
求めようとする子どもの姿に感動し、成長を喜んでいます。
先生が、今の子どもたちに期待をしてくださり、決して
子どもあつかいせず、創価の魂を伝えようとされることに
大きな意味があると実感しました。

大洞菜々佳ちゃん

ななかちゃんのお母さんは創短4期生。
お父さんが未入信の中、ななかちゃんを創価幼稚園に
入れました。入園して創価教育に触れる中で、お父さんは
どんどん変わっていったそうです。
今では座談会、本幹に毎回家族で参加できるまでに。

先日の本幹同中で、最後に先生と唱題する時、ななかちゃん
がお父さんに「どうしてお父さんは、声を出さないで、
手をあわあせるだけなの! 一緒にやろう!」と言った
そうです。

そして、お父さんは初めて声を出して唱題したそうです!
お母さんは、今まで、自分が言ってもなかなか、手を合わせて
くれなかったが、娘の力と、娘の使命に大感動したとお話し
してくれました。
 

本日の政教珍聞で~す、原田怪鳥様、博正さんはいったいどうしちゃったの~?

 投稿者:カンピース  投稿日:2016年10月26日(水)07時55分7秒
  おはようございます。原田怪鳥様、ブラジル南マットグロッソ州から先生に立法栄誉賞、誠におめでとうございま~す。

それにしても博正サン、最近まったく情報がありません。なぜ授賞式に出席されなかったのでしょう?

師匠のメッセージもなし、原田怪鳥様、こんなんでいいんですか~?

まあ原田怪鳥様が某女史と代理受章することを思えば、まだましというものかもしれませんが(笑)

それと原田怪鳥様、創価文化センターの休館日が決まったとのこと。

いつも思うのですが、宗教団体に休館日って・・・いったいなんでしょうね~?

世間でもサービス業では年中無休が大方の流れです。一概には論じられませんが、宗教も会員に対するサービスという意味では

年中無休が当たり前と思うのデスが・・・それとも「休日出勤」の名目で手当てを付けるための職員へのサービスですか?

我が地域でもそうですが、巨大な建物に明かり一つ無く建ってる有様は気味が悪いデス。

職員は大勢いるでしょう、交代制にしてシフトを組めば年中無休は簡単な事です。もっと会館を開かれたものにしましょ~ね(笑)
 

寝たきりオジサン様

 投稿者:ひかり(正義の師子同盟)  投稿日:2016年10月26日(水)07時53分57秒
  なんか、こみあげてきます。。。


本当にありがとうございます。


池田先生の魂の伝播が創価学会の根底にあります。


現執行部がしていることは、

池田先生の命がけの苦闘の結果にあぐらをかいて、

(厳しい鍛錬に内心消しようがない恨みを長年隠し持ちながら)

血が滲むような努力などしてこなかった結果、

会員からの真実の指摘に低俗なさげすみの感情を抱いて無視し続け、

「形」だけ単なる「かけ声」と「策」で、

会員と組織を、顔がない「数」として「利用」しているに過ぎないと思っています。



昨日、93才の元幹部と対話してまいりました。

この方のお話も、

「無数の無名の人々が、一人の人を育てるための苦闘は、池田先生が示された姿が模範だった。

つまり、その人の実生活に肉薄した思いやりに感激して、人々が立ち上がる事から始まり、

それが続いて、人生の蘇生の奇跡を生み出してきた」というものでした。

それ以外にありませんでした。

そういう魂の伝播で、一人一人の人間革命が、全国の途方もない僻地片田舎でも行われて、

今がありますね。


この事実を世界の潮流にまでしていくことが、広宣流布なのだと思っています。









 

全集未収録スピーチ

 投稿者:無冠  投稿日:2016年10月26日(水)07時20分42秒
  全集未収録の特別文化講座『創立者 ダンテを語る』を掲示します。

2008-4-23 創価学園 特別文化講座 創立者 ダンテを語る④

 君たちの 名前を一生 忘れまじ 私の心に 栄光眩(まばゆ)く

 一、ダンテは、「予め労苦し、後代のものらをして富ましめ」(中山訳『ダンテ全集第8巻』同)と語っています。
 自分自身が苦労して、後に続く人々のために、豊かな精神の遺産を残しゆけというのです。
 そのために、若き君たちは、今日も健康第一で、張り切って、学び抜いていただきたい。

ダンテを勇気づける師ウェルギリウス 「風に動かぬ塔のように立て」
歌え!師弟の栄光の詩

  一、ある時、学園生が私に質問をしました。
 「池田先生の夢は何ですか?」
 私は答えました。
 「私の夢は、戸田先生の夢を実現することです」と。
 戸田先生の弟子として私は、恩師の夢を一つ残らず実現してきました。
 師匠の正義と偉大さを叫び抜いてきました。
 歴史上、偉大な仕事を残した多くの人は、若いころから、大きな夢に向かって挑戦しています。
 皆さんも、大きい夢を持つのです。偉大な夢を実現していくのです。

 ● 創価小、万歳!
 一、創価教育の学校をつくることも、戸田先生の夢でした。それは戸田先生の師匠である牧口先生の夢でもあった。
 戸田先生は、若い私に言われました。
 「牧口先生は、創価教育の学校の建設を私に託された。しかし、私の代でできなければ、大作、その時は頼むぞ」と。
 その言葉の通り、私は、創価学園、創価大学、創価女子短大、そしてアメリカ創価大学を創立しました。
 創価一貫教育の"夢の城"として、東京創価小学校と関西創価小学校も光っています。
 牧口先生も戸田先生も、小学校の先生で心たから、創価小学校の現在の大発展を、それはそれは喜んでくださっているでしょう。

 万歳と 皆で叫ばむ 創価小  未来の偉人よ 負けずに育てと

 さらに、札幌創価幼椎園を出発点として、創価の幼児教育のネットワークは、香港、シンガポール、マレーシア、韓国に広がっています。
 ブラジルにも、創価の学舎をつくりました。

 一、今、この創価の師弟の事業は、世界の人々から一段と大きな信頼を寄せられる時代に入りました。
 ダンテが生まれたイタリアでも、牧口・戸田両先生の業績が大きく顕彰されています。
 "花の都"フィレンツェの郊外に位置するカプライア・リミテ市には、「牧口常三郎平和公園」ができました。
 イタリア中部のペルージャ県には「牧口常三郎通り」があります。
 またイタリア南部のアブルッツォ州には「戸田城聖通り」が誕生。
 フィレンツェの南西にあるチェルタルド市には「戸田城聖庭園」が開園しています。
 戦時中、日本のファシズムと戦い、平和のため、民衆の幸福のために生涯を捧げた創価の師弟への讃嘆は、いよいよ大きくなっています。
 これもイタリアの同志の皆さんが師弟の真実を語り抜き、平和と友情の連帯を広げてくださっているおかげです。心から感謝申し上げたい。
 〈イタリアでは、創立者の池田名誉会長に対し、ボローニャ大学とバレルモ大学から名誉博士号が授与されているほか、44の名誉市民称号、また100を超える都市や団体からの顕彰が贈られている〉

君に正義と勝利の月桂冠を
一人ももれなく幸福博士に

 ● 師匠は太陽!
 一、『神曲』で深く心を打たれるのは、杜絶な「地獄」と「煉獄」を踏破し、「天国」へと向かう、ウェルギリウスとダンテの「師弟の絆」です。
 「師弟」がなければ、破れない壁があります。
 「師弟」でなければ、進めない道があります。
 『神曲』の冒頭、人生の正しい道に迷い苦悩する若きダンテは、大詩人ウェルギリウスと出会いました。そして、師弟の旅に出発しゆく喜びを、弟子ダンテは、こう詠っています。

 夜の寒さにうなだれ しぼむ小さな花が、
 朝日の光を受けると 勢よくおきあがり、
 茎の上に 悉くひらくように、
 私の萎えた力も 生色を取りもどす。
かくて、 怖れを知らぬ勇気、
わが心にみなぎり、自由となった者の ように、私は言い始める
(寿岳文章訳『神曲』集英社)

 さあ行きましょう、 二人とも
 心は一つです、
 あなたが先達、 あなたが主君、 あなたが師です
 (平川祐弘訳『神曲』河出書房新社)

 師匠は、希望の太陽であり、勇気の泉です。
 私が師匠・戸田先生に初めてお会いしたのは、皆さんとほぼ同じ年代の19歳の時でした。
 私も"人生の師匠"と出会えた感動を、その場で即興詩に詠んだことが思い出されます。

 旅びとよ いずこより来り いずこへ 往かんとするか
 月は 沈みぬ 日 いまだ昇らず
 夜明け前の混沌(カオス)に 光 もとめて われ 進みゆく
 心の 暗雲を はらわんと 嵐に動かぬ 大樹求め
 われ 地より 湧き出でんとするか

 ● 何のためを問え
 一、師弟の出会いがあるところ、豊かな「詩」が生まれます。師弟の闘争があるところ、魂の旋律ともいうべき偉大な「歌」が生まれます。
 私もこれまで、わが学園生と、また愛する多くの青年たちと、幾多の歌をつくってきました。一つ一つに忘れ得ぬ歴史があります。

 一、東京の学園校歌「草木は萌ゆる」は、武蔵野の四季を歌い、人生の根本の「問い」と「答え」を示した、本当に素晴らしい歌です。
 一番では、「英知をみがくは 何のため」との問いかけに対し、「次代の世界を 担わんと」と、その目的が明快に記されている。
 さらに「何のため」との問いが続き、"社会の繁栄のため""民衆の幸福のため""世界の平和のため"と高らかに歌われています。この歌は、目先の利害とか、小さな自分を超えて、「大いなる理想」に向かって前進していかんとする、学園生の誓いの歌です。
 世の中には、初心を忘れ、お世話になった人の恩を忘れる人間もいる。それどころか、恩を仇で払す人間さえいる。それは、慢心をおこし、ちっぽけな自分が中心となり、本来の目的を見失っているからだ。それでは堕落の人生だ。
 皆さんは、この学園で「何のため」と、わが胸に問いかけながら、一生涯、崩れることのない、人生の大目的を生命に焼き付けていってください。ここに創価学園の大精神があるからです。


 一、校歌の5番の歌詞は私が贈りました。

 富士が見えるぞ 武蔵野の
 渓流清き 鳳雛の
 平和をめざすは 何のため
 輝く友の 道拓く
 未来に羽ばたけ 君と僕

 私の人生の目的は、後に続く若き君たちの「道を拓く」ことです。
 そのために一切の苦難をはねのけて、平和と文化と教育の大道を全世界に広げてきました。
 創価学園が開校した年である1968年の9月6日、学園のグラウンド開きで、凛々しき1期生500人と初めて校歌(当時は寮歌)を歌って以来、40年が経ちました。今や、東京校の同窓生の集いである「鳳友(ほうゆう)会」「香友(こうゆう)会」の連帯は約1万4000人となりました。
 「未来に羽ばたけ 君と僕」。私の胸には、いつも、君たち学園生がいます。

創価の乙女は世界を舞台に
女性の励ましの声は人類を正しい道へ導く

 ● 師弟一体で!
 「一方、私の提案に応えて、関西学園に新校歌「栄光の旗」が誕生したのは、今から18年前のことでした。
 作成の中心となったのは、関西創価小学校からの"一貫教育1期生"となる高校15期生たちです。
 関西校で新校歌作成の取り組みが本格化した1990年2月、私は自由の天地アメリカで、平和への指揮を執っていました。そして3月4日、アメリカから帰国したばかりの私のもとに届けてくれたのです。
 歌の完成を、私は、本当に楽しみにしていました。
 全力でぶつかってきた学園生の思いに応えたいと、思索を凝縮させ、ペンを走らせました。歌詞に大幅な直しを入れさせてもらいました。
 曲づくりにも、「学園生が庭園の池のほとりで、仲良く語り合っているような、流れるようなメロディーで」等とアドバイスをしました。
 何度も作曲を重ねた末に、最終の案となる曲が完成したのは、15期生の卒業式の3日前、3月13日でした。
 翌14日、それを聴いた私は、「とてもいい」と感動した。限界を打ち破り、何度も何度も挑戦した学園生の心意気が本当にうれしかった。ここに歴史的な師弟共戦の歌が完成したのです。

 一、校歌の3番の歌詞はこうです。

 ああ関西に 父子の詩
 これぞ我らの 誉れの曲
 ともに誓いを 果たさむと
 世界を結べや 朗らかに
 君も王者と 栄光の旗
 君も勝利と 栄光の旗

 東京の校歌には、深く掘り下げられた「学園の原点」があり、関西の校歌には、世界に飛翔しゆく「学園の栄光」が留められています。
 その後も私は、東西の女子学園生の歌として、妻とともに「幸福の乙女」をつくりました。
 また関西校に学園歌「関西創価 わが誇り」、関西学園寮歌「我らの城」を贈った。
 皆、私が学園生と一体となってつくった「師弟の詩(うた)」です。

 ● 「おそれるな!私が導く限り」
 一、師弟の絆ほど、美しく、強いものはない。
 師弟とは、ある意味で、親子以上の関係です。親子は動物にもありますが、師弟は人間にしかない。師弟があってこそ、本当の学問があり、英知があります。
 師弟あればこそ、弟子は困難に飛び込んでいける。師弟がなければ、命を懸けた信念の戦いを貫くことは難しい。
 人格を鍛える根本の力も師弟です。それが、師弟に生き抜いた私の実感です。

 一、今、世界の各地、社会の各界で、学園出身の先輩方の活躍が生き生きと広がっている。
 立派な学園の伝統を築き上げてくださった先生方、また職員の方々、そして陰に陽に学園を護り支えてくださっている、すべての皆様に私は心から感謝申し上げたい。

 堂々と 天にそびゆる 人材を  世界におくりし わが師を讃えむ

 一、『神曲』の師弟も本当に美しい。
 師ウェルギリウスは、罪と罰とが激しく渦巻く「地獄」「煉獄」を進みながら、弟子ダンテを、時に温かく、時に厳しく、励まし続ける。
 思いつくままに、紹介させてもらえば──
 「怖れるな、わたしが君を導くかぎり」「怖れるな。われらの進むを妨げる力は誰にも無し」(前掲寿岳訳)
 「私について来い、勝手にいわせておけ。/風が吹こうがびくとも動ぜぬ塔のように/どっしりとかまえていろ」(前掲平川訳)
 「必ず我等は戦に勝つべきである」(中山昌樹訳『ダンテ全集第1巻』日本図書センター)と。

『ダンテ』 私は命ある限り師の大恩を世に語り示すつもりです!

 ● すべて、そのまま、わが学園生に贈りたい言葉です。
 一方、弟子ダンテは、「慕わしき蹠(あしうら)の跡を追うた」(同、現代表記に改めた)と、師匠の足跡までが慕わしいと感謝を捧げます。
 「先達が希望を与え、光となってくれたのだ」「私がいかほど先生に恩を感じているか、/私は生きている限り、世に語り世に示すつもりです」(前掲平川択)
 敬愛する師の恩に応えたい──このダンテの報恩の心こそが、険しき旅路を歩み抜き、勝利していく力となったのです。
 地獄と煉獄の旅を終えるにあたり、師匠ウェルギリウスは、強く逞しく成長したダンテの頭上に「冠」を授ける。
 弟子の「成長と勝利」こそ、師にとって最高の喜びです。私にとって最高最大の喜びも、学園生一人一人の「成長」であり、「勝利」なのです。

 若獅子よ  おお頭(こうべ)には   月桂冠
  乙女の髪には    英知の風吹け

 ● 女性が主役!
 一、『神曲』の最終部は、罪悪と争いに満ちた地底の「地獄界」や地上の「煉獄界」を見おろす「天国界」──大宇宙の旅でもあります。
 この旅で、ダンテを導く役割を担うのは、高潔な女性のベアトリーチェです。
 「おまえが望み憧れる真実に向かってこの道を私が/どのように進むかをよく見ておきなさい」(前掲平川訳)
 「真理の上に未だ足を重ねずして汝は/依然として身を虚妄に回らしている」 (中山訳『ダンテ全集第3巻』同、現代表記に改めた)
 毅然たる女性の激励に対して、ダンテは心から感謝を述べます。
 「正しい考えと誤った考えを証しながら/美しい真理のやさしい姿を私にしめした」(野上素一駅『筑摩世界文学大系11 ダンテ』筑摩書房)と。
 率先の模範を示しながら、時に凛然と、時に理路整然と、雄弁をもって正邪を語り導く姿は、輝く創価の乙女を思わせる品格があります。
 一、学園出身の女性たちの活躍を讃える声を、私は、社会の各界の方々から、本当によくうかがいます。皆、自分らしく、努力に努力を重ね、「使命の道」で輝いている。
 弁護士や公認会計士、政治家、外交官、医師、ジャーナリスト、通訳・翻訳者、大学や学校の教員など、社会の第一線で光を放っているメンバーもいます。小学校の校長も誕生しました。
 またアメリカの名門カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)など世界の名門大学で博士号を取得した人や、アメリカ創価大学を最優秀の成績で卒業し、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の大学院に進んだ人もいます。
 そして、多くの卒業生が、学園時代の誓いを胸に、信頼厚き地域の女性リーダーとして、全世界で活躍しています。
 強く賢く清らかな心の女性こそが、世界を平和と善の調和の方向へとリードしていく──これがベアトリーチェに託したダンテの信念でした。
 「女性の世紀」は、これからが本番です。皆さんこそ、その先頭に立つリーダーなのです。

 一、さて、「神曲」に登場する女性ベアトリーチェは、ダンテを導きながら、天の高みへ高みへと上昇するにつれて、ますます目が輝き、姿の美しさが増していった。
 それは「善行をおこなう時、心に感じる喜びが/増す」(同)ことを譬えています。
 正義と平和のために戦えば戦うほど、生命が躍動し、歓喜が増していく。心美しき学園出身の女性は、全員が「幸福の博士」であれ! 「歓喜の人生」であれ!──私と妻はいつも、そう祈っています。

 聡明な  私の娘の  香友会  幸福博士と この世勝ち抜け
 三世まで 共に共にと 蛍会   なんと優しく 強き姫らよ

他人の不幸の上に自分の幸福を築くことはしない

 ● 人間の変革こそ
 一、わが創価学園は、天文教育が盛んです。
 とくに関西校は、NASA(アメリカ航空宇宙局)の教育プログラム「アースカム」への参加回数で「世界一」を更新し続けています。
 「宇宙」という視点を持ち、「地球民族主義」という信念を持った平和の世界市民を育成する、素晴らしい伝統ができ上がった。
 思えば、関西学園の第1回入学式で、私は、全国から集った乙女たちに一つの提案をしました。
 それは、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」という絶対平和の信条を、わが学園で身につけてほしいということでした。
 この「自他共の幸福」を願う心こそ、仏法の真髄の心であり、「平和の世紀」の重要な指針です。
 ハーバード大学での1回目の講演でも、私は、この学園の指標を紹介しました。最高峰の知性の方々からも深い共鳴が寄せられました。

 一、「地球の変革」とは、どこまでいっても「人間自身の変革」から始まる。
 自らの過酷な運命に打ち勝ったダンテは、人類の運命もまた変えられることを強く訴えました。
 『神曲』でダンテは、意志の力は暴力よりも強いことを主張しています(天国篇第4歌)。
 また「意志の力が/十分に養成されているならば、すべてに克てるはずだ」 (前掲平川訳)とも言っている。
 そして、地球をはるかに見つめながら──人類が、これまで歩んできた道は争いの絶えない道だった。未来を断じて変えなければならない。未来は変えられる!──と平和の大宣言を放っていくのです(天国篇第27歌)。

 ● 学は正義の土台
 一、世界のために、未来のために、今は学ぶ時です。真剣に力をつける時です。
 私は皆さんに、学問こそ、幸福の土台であり、正義の土台であり、勝利の土台であると強く申し上げたいのです。

 一、ダンテは『神曲』の各篇の最後を、「星々=ステレ」という言葉で結んでいます。
 ダンテにとって「星」は、旅の「目的地」であり、還るべき「故郷」です。そして、「永遠なるもの」「偉大なるもの」の象徴でもある。
 創価学園は、永遠に、皆さんの還るべき魂の金の星なのです。

 一、ダンテが愛読していた古代ローマの哲学者キケロは、こう語った。「困難が大きければ、それだけ誉れも大きい。いかなる場合にも、正義の働きを止めてはならないのである」(高橋宏幸訳「義務について」、『キケロー選集9』所収、岩波書店)
 ダンテは20年の亡命生活のなかで『神曲』を書き続けて、死の少し前に完成させました。
 晩年は、イタリアのラヴェンナの地に、家族を呼び寄せて平穏に暮し、1321年の9月、このラヴェンナの地で生を終えました。
 ダンテは勝った。堂々と勝ちました。
 正義は勝ったのです。
 ダンテを迫害した者は、歴史に汚名を残し、今なお厳しい断罪を受けています。
 詩聖ダンテの名声は、その苦難の足跡ゆえに、ひときわ大きな光彩を人類史に放っております。
 ダンテの頭上には、生前、彼が願っていた通り、月桂冠が冠せられたという。
 月桂冠は、人類史に輝く偉大なる詩人にのみ贈られる「桂冠詩人」の証しでした。
 そしてまた、月桂冠は、誇り高き「勝者」の象徴です。
 わが学園生は、一人も残らず、人生の勝利者となっていただきたい。
 わが学園生の頭(こうべ)に、一人ももれなく、「幸福と正義と勝利の月桂冠」を贈りゆくことこそ、私と妻の夢であり、祈りです。

 ● 勇気で立て!
 「私は、皆さん方.の創立者として、2006年の1月、ダンテの祖国であるイタリア共和国より、「功労勲章 グランデ・ウッフィチャーレ章」を拝受しました。
 その折、私は謝辞をダンテの『神曲』の一節で結びました。
 その言葉を、わが愛する学園生、そして大切な大切なわが弟子に贈り、第1回の特別文化講座とさせていただきます。
 「さあ立ち上りたまえ」「どんな戦いの中でも必ず勝つ確固たる勇気をもって」 (片山敏彦訳『ロマン・ロラン全集4』所収、みすず書房)

 忘るるな  偉大な師弟の 契りかな
 防ち抜けや 正義の星と  学園生

 グラッチェ!(イタリア語で「ありがとうございました!」)

終わり

 

池田青年とコッペパンの話

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2016年10月26日(水)07時06分41秒
  「池田大作という人 その素顔と愛と生き方」
 五島勉著

第6章 ふきあがる炎

「池田青年とコッペパンの話」

それは1950年ころのことだったらしい。
そのころ、その貧しい工場地帯には、学会の
ささやかな支部が生まれた。

リーダーはとても熱心な中年の活動家で、
仏法の知識も深かった。

彼は最初、何十人もの人を、ファイトと情熱で
ひっぱった。何軒ものアパートの人達を、
残らず説得をして入信させた。

ところが、せっかくそこまでこぎつけたのに、
ある時期から、支部の人数が急に減りだした。
おまけに、支部全体に、なんとなく重っ苦しい
空気がただよいはじめた。

いろいろ原因があったらしいけど、一番の原因は
リーダーのやりかただった。リーダーが熱心さの
あまり、「なにがなんでも大聖人様をあがめろ。
他の事はどうでもいいんだ」と、しゃにむに、
かたくなな信仰をおしつけようとしたためだった。

「あれじゃイヤなっちゃうよなぁ」
「くだらねえよ。あんな話より、今夜のメシを
腹いっぱい食いていよ」支部のメンバーたち
若い工員や女工さんたちは、みじめな当時の
食料配給のもとで、すき腹をかかえてそう
ささやきあってた。

池田青年はそれをきいて心配した。で、彼はある晩、
大きなふろしき包みをかかえて、その支部の座談会
をたずねていった。「ガンばってるかい?

「ほら、おみやげもって来てやったぞ。
みんな、これ食べて元気出してくれよ!」そして、
池田青年がひろげたふろしきの中からは、何個かの

コッペパンと、ふかしたサツマイモとトウモロコシ
の粉で作ったむしパンがいくつかころがりだした。
みんなニコニコ顔になった。この三つは、その頃の
日本の庶民の主食だったんだが、決められた配給量は
ちょっぴり。誰も余分には食べられなかったからだ。

「さては・・・ヤミ(配給外)のおみあげですね?」と
ひとびとが聞くと、池田青年は、「うん、すごいヤミ
だぞ」とまじめくさって答えた。

みんなは夢中でパクついた。久しぶりに満腹したところ
で池田青年はひとりひとりと膝づめで話した。
ある女工さんには、「仏法を疑ってはいけない。
幸福は必ず来る。苦しみは歓喜の前ふれなんだよ」。

ある若い工員には、「まず君自身が生きる目的をつかめ。
そこから毎日少しづつでも前進して行けばいい。
きっとできる。たいした男じゃないけど、ぼくがつ
いてるぞ!」

きいているうちに、みんなの顔からは、なげやりな表情
がいつか消えていた。難しい理論はともかく、この青年
と一緒に進めば道がひらけそうな気がした。

みんなは翌日からの充実した生活を誓いあい、
はりきってわかれて行った。
でも、誰が知っていたろう。みんなと別れたあと、
一人になった池田青年が急に青ざめて歯をくいしばり、
よろめきながら夜の街をかえって行ったことを。

よく倒れなかったと思う。なにしろ、彼は数日間、
水とわずかなパンくずのほかは、なにひとつ口に
していなかったんだから。

つまり、おみあげのコッペパンやサツマイモや
むしパンは、池田青年自身の貴重な食料だった。
かれは自分の数日分の配給をけずり、それをぜんぶ
初対面の仲間にやさしい兄のように
食べさせてやったのだった。

このエピソードのうち、池田青年が「急に青ざめよろ
めいた」というところだけは、書いているわたしの
想像。だれもみてなかったんだから、これは
わからない。

苦しいときほどファイトをもやすかれのことだから、
すきなシューベルトの歌なんかうたいながら、
元気に帰っていったのかもしれない。

しかし、話のほかの部分は、あったことそのままだ。
あとになって、偶然コッペパンの真相を知った、
その支部の会員が、泣きながら思い出話をしてくれた
んだ。その頃若いプレス工だった中村猛さんは、
わたしにこんなふうにいった。

「あのパンのことを知った時、先生(池田さん)の
思いやりに体がふるえた。感激のあまり、その場で
先生のために死にたいと思った。

でも、俺達が死んだところで、先生が喜んでくれる
わけがない。先生に喜んでもらうためには、一生懸命
仏法をひろめて、毎日、全力で生ききって、俺達自身が
幸せになっていくしかないんだ、と思っただから
俺達は、死んだ気で学会活動にとりくんだ。

死んだ気になって生活ともとりくんだ。
それでわかったのは、この世の中には、死んだ気で
ぶつかってやれないことなんか、なにひとつないんだ
ってことだったよ」事実、中村さんは、その後、
何十人もの人を仏法にみちびいた。

ねばりづよく仕事とたたかって、大きな自動車修理工場
の社長さんになった。中村さんだけでなく、その座談会
に参加した十人ほどの仲間達は、そろって頑張りぬいて、
いまではみんな、ひとかどの経営者や技術者、恵まれた

家庭の奥さんになっている。
思えば大きな幸福と希望のタネをまいた、
池田青年の友情のコッペパン。
 

わが友に贈る 2016年10月26日

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2016年10月26日(水)06時40分34秒
  夜間の事故に注意!
女子部・婦人部は
皆で声を掛け合い
早め早めの帰宅を。
呉々も安全第一で!
 

ひらがなプロジェクトに投稿しました

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2016年10月26日(水)03時12分21秒
  ひらがなプロジェクトに投稿しました。
曾谷殿 五綱抄  1編投稿しました。

曽谷殿終わりです、後、御義口伝本文と 講義文の平仮名化を進めています。
・・・・・・・・・・・・・・・

怒りは瞋りとも言って、修羅界の命です。

他人に勝りたいと思う命です、仕事でも、研究でも、物つくりでも、勉強でも勝ちたいと思う気持ちは、
修羅界と言ってもいいと思いますが、悪い生命でもありません。

仕事などで、嘘をついてでも、他人の不幸の上に、我が勝利を望むのはいかがなものでしょうか・・・?。

スポーツは、勝つためにありとあらゆる努力をしますが、勝っても負けてもどうでもいいと思っている人が、
オリンピックなどで、金メダルを取れるとは思いません。

優秀な体力、生まれつきの運動神経や才能が有って、人より何倍も努力をして、良い環境に恵まれて、
やっとオリンピックに出れるのですよね。
それで、運悪く体調が悪くなって、負ける場合もあるでしょうが、悔しい思いが生涯残るでしょう。

そう・・・大事なのは福運が有るかないかが、決め手となるのです。

運が悪いときって、仕事でもあります、もらい交通事故、大事な仕事に入ってからのインフルエンザ、
部下の退職、現場での盗難事故、きりがないほど、不測の事態があります。

それを乗り越えて、事業をするということは、神頼み仏頼りになるのも、分かるのですが、神や仏が、
なぜ守ってくれるのか、知っている人、説明できる人は少ないのも事実です。

創価大学教授、宮田さんや、t川さん等は、諸天善神が法華経の行者を守ることは、無いと思っている
のでしょう。
新ご祈念文を見ると、共産主義、唯物論者のもの言いです。

日蓮大聖人は、信心強き人を、諸天善神が守ると仰せられています。
そのことが、法華経に説かれているということを、知っていますか・・・??。

法華経の行者を守るということは、現在では、南無妙法蓮華経を広め、人を助けていく菩薩行を実践
している人を諸天善時は守りますと、仏さまに御誓いしたのが、安楽行品です。
文証を出します。

法華経 安楽行品第十四
法華経の行者を全ての諸天善神が必ず守護することが説かれおり、
『諸天善神が昼となく夜となく、常に法を広めるために法華経の行者を守護する』とあります。

四条金吾殿御返事
「神の護ると申すも、人の心つよきによるとみえて候」(1186㌻)
 

空き家事務長

 投稿者:tesuto  投稿日:2016年10月26日(水)01時57分17秒
  常任理事みたいです 憶測ですが 数年後は 理事長? 先生の予測どうり 大学乗っ取りです  

警鐘さま

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2016年10月26日(水)01時32分16秒
  ありがとうございます。
元気が出ます。
 

感性さま

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2016年10月26日(水)01時30分2秒
  めげずにがんばっていこうと思います。
感性さまの視点は必要だと思います。

 

寝たきりおじさん様

 投稿者:警鐘  投稿日:2016年10月26日(水)01時21分59秒
  素晴らしい体験
ありがとうございます

この体験を読んだら
必ず創価学会を先生直結の団体にして見せる!
との決意と確信が湧き上がって来ました
 

権威主義者と偽善者が共存する特異人格者が上にいると、

 投稿者:ひかり(正義の師子同盟)  投稿日:2016年10月26日(水)01時18分6秒
  もう、迷惑でしかない。


困った人間である。

自分が権威主義者で偽善者でもあると、思っていないフシがある。


まあ、自覚があるようなら、そこにはいないだろうが。

立正安国論さながらの状況ゆえに、全国の会員がささやいているのも当然聞こえないだろう。



こういう有害廃棄物もどきは、「始末におえない」または「さっさと排出するに限る」





 

お二方へ

 投稿者:感性  投稿日:2016年10月26日(水)01時00分33秒
  >先生が会長辞任後の反転攻勢の時期でした。   投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2016年10月26日(水)00時44分51秒

私は今もそうですが、ひねくれたところがあり素直に感動したのではなくどことなく斜に構えた
感覚でテープを聞いていただけに、ほどなくして禁止通達がきた時もなるほどと
思いました。
後年、例の一時的に全国を沸かせすぐに作者の資質やストーリーの不整合等々を叩かれた
「一杯の掛けそば」を聞いたときこの中等部長の朗読を連想してしまいましたね。
語り口が似ていたと感じました。

>ありがとうございます。   投稿者:寝たきりオジサン   投稿日:2016年10月26日(水)00時48分38秒

どういたしまして。これからも御投稿を続けてくださいませ。
 

信濃町の人びと 様

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2016年10月26日(水)00時54分25秒
  フォローありがとうございます。
気をつけます。
 

ありがとうございます。

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2016年10月26日(水)00時48分38秒
  >十円玉さま

>京都のおんな様

>猿ヶ島さま

>感性さま

レスありがとうございます。
励みになります。

この話は30年前ぐらいに
テープを通してすごく全国に流布
した物で有名な指導です。

中等部時代に聞いた事がある方も
結構いらっしゃると思います。

少しでも皆様の励みになれば幸いです。

 

大評判渦中での急な禁止通達

 投稿者:感性  投稿日:2016年10月26日(水)00時47分52秒
  >所沢の中等部員会ですね。   投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2016年10月26日(水)00時35分25秒

その事案ならまずテープが流布されたのは84年頃ではなかったでしょうか。中等部員会での
当時の中等部長による朗読は四者でも大評判となりました。

>数年後に、理由はよくわかりませんが、この録音は使用しないようにと伝達がありました。
> 確か、ご遺族から申し出があったようなことを聞きましたが。

数年後ではなく、大評判になっていた渦中での急な使用禁止の伝達ではなかったでしょうか。
社内役職等に誤認識があったと聞いています。
 

先生が会長辞任後の反転攻勢の時期でした。

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2016年10月26日(水)00時44分51秒
  その体験談を含む指導テープは先生の会長辞任後、当時の鎮む学会組織にあって、生きた体験談と指導内容がいかに必要なのか。また、勤行と唱題の素晴らしさを実感させる内容が必要だった。ということではないでしょうか。

もしかしたら、最初は打ち出し的なものがあったかもしれませんが、私が知る限り、ほとんどが個人的繋がりでテープをダビングしての伝搬だった記憶があります。

心打つ内容でなければ、全国的に拡がらなかったのではないでしょうか?そうした意味からの資料価値があると思いました。
 

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