関西人は「テレコ」という言葉を当然のように使う。これは以前から思っていた。知り合いの関西人も使うし、関西芸人のトークを見ていても普通に出てくる。いちいち意味を説明する必要のないほど浸透しているようだ。しかし私はずっと意味を知らなかった。
今日、三十六歳女性(奈良出身)に「テレコ」と言われた。ぷよぷよのアプリのルールをたずねたとき、「ここがテレコになっててね……」と言われたのである。それで思った。向き合わねばならない、と。
知らない言葉を放置しておくこと。これは人を落ち着かない気分にさせる。人生が長くなるほど微妙な距離感の言葉は増える。たまに耳にするが意味を知らない言葉。これはたまに顔を会わせる仲のよくない知り合いのようなものである。毎回、少しの緊張がある。
今こそテレコの意味を知るときだ。私は聞いた。テレコとは何なんだと。教えてくれと。俺はもう、テレコから逃げないからと。
「"逆"ってことだよ」と三十六歳女性は言った。
「逃げないって何よ?」
あっさり言われて、そんな簡単な意味だったのかと思った。「テレコになってる」は「逆になってる」と頭のなかで翻訳すりゃいいのか。
一応ネットでも調べてみた(「あたしの言うことが信用できないのか!」と女性に言われながら)。似たようなことが書かれていた。「入れ違いになっている」とか「あべこべになっている」ということらしい。
どうも私は語感から「入れ子構造」ということばを連想していて、テレコというのを複雑な構造をさす表現だと思い込んでいたようだ。テレコ構造とでもいうべきもの。同じ箱に入っていた言葉として「ウィンザーノット」があり、これはネクタイの結びかただが、具体的にどんな結びかたなのかは知らん(もう五年以上ネクタイ結んでない)。
なんとなくテレコもそういうものだと思っていた。図解されるものだと。図解されてぎりぎり理解できるものだと。「徹底図解!テレコの秘密」という特集が組めるほどのものだと。勝手に敵を巨大にしていたようだ。さっさと調べないからこうなる。
もうテレコという言葉がいつ来ても大丈夫だ。しかし実際は年に一度聞くか聞かないかである。よって、しばらくはテレコ待ちの人生になる。はやく誰かにテレコという言葉を使ってほしい。テレコという言葉を使っている現場に早急に立合って、意味のわかる喜びを噛みしめたい。
本日をもって、テレコから逃げ続ける人生が終わり、テレコを待ち続ける人生がはじまった。逃げたり待ったり大変ですね。