「自分は身の丈にあった暮らししたいですね。今の年収をキープして、細々と生きていきたいです」と言ったら、
えらい剣幕で叱られた。「若いのにそんな低い意識でどうする。もっと多くを望め!」だそうだ。
若いといっても、自分は今年で30代中盤だし、これ以上人生に大きな変化が起きるとは思えない。
年収は平均よりも結構低い。仕事は辛い。幸い非正規ではないけど、将来に明るい展望があるわけでもない。
だから、いつの間にか無駄に夢を見るよりも、今の年収で身の丈にあった暮らしを続けていきたいな、と思うようになっていた。
そういえば、昔から親に「テストで100点獲ったら欲しいモノを買ってあげる」と言われても、
100点獲るのは面倒だからと、欲しいモノを諦めるという子どもだった。
自分の兄妹は100点を獲ろうと頑張る性格だったから、自分の諦め癖のようなものは親の遺伝というわけでもないようだ。
ただ、自分なりに主張したいことは、何かを頑張って頑張った分の報酬を得るよりも、
頑張らずに報酬を我慢することの方が楽じゃないか、ということだ。
世の中の大半の人は、屈託なく欲望を追求する。それが人間の自然な姿らしい。
自分にも食欲や睡眠欲、排泄欲などは人並みにはあるけれど、自己実現欲というか、何かを達成したいという欲求がほとんどない。
何かを達成したり、困難を克服することが喜び、という意見を目にするたび、共感できない思いを抱いてきた。
ある意味、自分は人並み以上に保守的な人間なのだと思う。これは政治的な意味ではなく、変化を嫌う性格という意味だ。
多くの人は何かを変えることに喜びを見出す。自分は何かを変えないことに喜びを見出す。
だから、自分は物を買うことも好きではない。高額商品なら尚更だ。
みんなは欲しいものを得るためなら苦労も我慢できるという。自分は逆で、苦労するくらいなら欲しいものを我慢する。
その究極のあり方こそ、身の丈にあった生活をするということなのだ。無理はしない持続可能な生き方だ。
自分にとっては当然の生き方だと思っていたけれど、世の中の常識には反するらしい。
大半の人々は、欲求を追求するためになら、どんな犠牲をも厭わない。嫌なことも喜んでする。
小さい頃から欲望の虜のような生き方だけはしてはいけないと思いこんでいたけれど、
実際は欲望に忠実であることの方が立派な生き方だとされているらしい。
よく考えると、自分も高級品や結婚相手、社会的名声、人生で成し遂げるべき使命といったものが欲しくないわけではない。
その欲求は確かにある。でも、その欲求を満たすために努力したり、犠牲を払うことだけは何としても避けたい。
今のこの暮らしを細々と、ただ慎ましく生きて、やんわりと静かに死んでいけるなら、望ましいものは何だって我慢できる。
初老の男性はなぜ怒ったのだろう。たぶんそれは自分にあって、彼にない人生の残り時間のせいだ。
彼は若いうちにもっと多くを手にしたかったんだろう。しかし、もう年老いてしまった。
目の前の中年男は、中年とはいえ、まだまだ若い。それなのに、自らの中にある宝をドブに捨てようとすらしている。
そうした態度が気に入らなかったのだ。男性にとって、自分は可能性の塊に見えているんだろう。
それでも自分は思う。努力しなければ手に入らないなら、そんなものは最初から望まない。
ただただ、身の丈にあった生活がしたい。多くは望まず、小さく小さく、慎ましく生きていきたい。
でも実際、これから先の社会、”現状維持すら厳しくなっていく”のは誰がどう考えても必至だから、 敢えて高めに設定しておかないと、現状の並の暮らしも危ういかもしれないとは思...