20日に亡くなった平尾誠二さんはラグビー界に多くの遺産を残した。それは昨年のワールドカップ(W杯)イングランド大会で躍進した日本代表にも、脈々と受け継がれていた。
平尾さんが日本代表監督を務めていた1997年。抜てきした選手が青学大2年の岩渕健輔氏だった。今は日本代表のゼネラルマネジャー(GM)を務める岩渕氏が振り返る。「平尾さんはラグビーというスポーツをラグビーの枠だけでなく、広い視野でとらえていた」
同じSOというポジションを務めたにもかかわらず、細かい技術面の指導を受けた記憶はない。「このパスやキックが悪いとか、ラグビーのことを言われたことは一度もなかった」
■先駆けて相手チームの映像やデータ分析
その代わり、平尾さんは従来の日本になかった発想で代表の強化を試みた。他競技に先駆けて取り組んだのが、相手チームの映像やデータの分析。試合の前半の映像を即座に編集し、ハーフタイムには見られるように準備していた。岩渕氏は2000年にイングランド1部リーグの名門サラセンズに加入したが、「情報分析では日本代表の方がイングランドより進んでいた」と言う。
サッカーの代表経験者を合宿に招き、キックを指導してもらうなど、他競技から学ぶ視点もあった。ラグビー経験の有無に関係なく、短距離走や跳躍力など運動能力に優れた人材をスカウトする「平尾プロジェクト」も推進。東京五輪を控えスポーツ庁などが現在進めている、他競技からの人材発掘の先駆けだった。
海外遠征の航空機をエコノミークラスからビジネスクラスに変えるなど、代表選手の待遇を改善し、プロとして扱おうとしたのも平尾監督時代だった。
もう一つの大きな変革が日本代表の「国際化」だった。海外出身の選手をさらに積極的に活用。それまでは先発15人中、3人程度の起用にとどまっていたが、平尾さんが率いた99年W杯ウェールズ大会の3試合の平均は5.67人に達した。
1選手が2カ国の代表チームでプレーできる当時の国際規定に基づき、グレアム・バショップとジェイミー・ジョセフという元ニュージーランド代表の主軸2人も日本代表入りさせた。
海外メディアはニュージーランド代表の愛称「オールブラックス」にちなんで「チェリーブラックス」と批判。その後に国際統括団IRB(現ワールドラグビー)が2カ国の代表選手になることを禁止するに至ったのも、平尾さんがルールの内側でできることを極限まで突き詰めていた証拠だろう。
■海外出身選手の積極起用に道開く
日本人監督が海外出身選手の積極起用に道を開いたことは、その後にW杯の日本代表を指揮したジョン・カーワン氏、エディー・ジョーンズ氏という2人の外国人指導者の指針にもなったはず。ルールがあるわけではないが、先発15人の中に海外出身選手が5~6人というのは近年の日本代表の基本線になっている。
様々な手法で強化したにもかかわらず、平尾ジャパンの集大成となるはずの99年W杯は苦いものとなった。1次リーグ初戦の対戦国は4カ月前に勝利していたサモア。しかし、メンバーや戦意を含めて全く違うチームとなっていた相手に9―43で大敗した。続くウェールズ、アルゼンチンにも敗れ、0勝で大会を終えた。