カメキチの目
第6章 小さないのちの捉え方
この章は14節もありますが、内容はややこしくありません。
というのは、標題のとおり「小さないのち」(生まれるいのち)のみかたについて、世界をとくに大まかに西と東(とくに日本)と分けたときの違いを、文化の違いとして論じてあるだけのことです。(とくに西洋では宗教の影響が絶大)
文化とは、とてもだいじなことです。人間は、「文化」(言語・習俗・伝統・歴史感覚・宗教的な感覚…などなど)の中で生まれ育ち、そこでしか生きられませんから。
私が現にこうして息を吸っているいるのは、ロビンソン・クルソーの絶海の孤島ではなく、日本という島国、社会です(アメリカでもありません)。
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著者は初めに述べる。
バイオテクノロジーに関わる生命倫理や価値観をめぐる論議においては、その根幹に欧米の宗教や文化に由来する前提が濃く含まれていることに驚くことがある。
キリスト教では、「始まりの段階のいのち」、どんなに小さくても「いのちはいのち」という考えが説かれ、たいせつにされてきた。
iPS細胞に先んじた万能細胞のES細胞。欧米で進んだその研究・利用は今なお追及途上にあるが、批判が多い。
というのは、ES細胞は、人工的に細胞を”初期化”したiPS細胞と違い、自然に生み出された(妊娠)細胞に由来し、「胚=いのちの萌芽」、つまり受精卵(=胚)を壊す。そのことがキリスト教の倫理に反しているというわけだ。
これには、欧米社会では長く議論されてきた人工妊娠中絶(堕胎)の是非という問題、それに根底で強い影響を及ぼしているキリスト教文化がある。
つまり、キリスト教では、「中絶」は神の教えに反しているとされる。
キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教の聖典でもある旧約聖書では「多産主義」が説かれているが、これは、これらの宗教が生命の乏しい過酷な砂漠地帯で生じたことと深く関係しているだろう。
実際、以後の歴史で近代欧米諸国では、人口の増大を経ることで安い労働力を調達して近代産業を発展させ、海外に膨張していくことで過剰になった自国の人口増大を解消し、豊かさを獲得した。
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ひるがえって、日本文化ではどうだろう。
戦後1948年、「優生保護法」(1996年「母体保護法」に改正)が定められた。これにより、人口過剰を避けるため、人工妊娠中絶を「公的に」認めた。
それは、廃墟の中から立ち上がろうとするに日本社会の「ベビーブーム」のさなかに制定された。
人口密度が高く、資源が乏しい国が植民地を失い、狭い国土で生きてゆかなくてはならないうえで、人口を調節せざるを得ないという考えがあった。
だからといって、日本人が伝統的に倫理意識が低いと論じる向きもあるが、それは違うと思うと著者は言う。
「多産主義」という概念を提唱したアメリカの宗教学者は、近代以前の中絶や「間引き」をめぐる日本文化のあり方を、環境維持や人口問題など、持続可能な社会を維持するためのエコロジー的な方向からの倫理的配慮によるものだとする見方を示している。
現実は生きてゆくうえで避けられない苦渋の選択として「間引き」や「中絶」がなされました。あの「姥捨て」は、家族や村のみんなが食ってゆくために。
そういう昔と現代は、科学技術の進展で形こそスマートになりましたが、本質はなにも変わっていないのではないか(過去だけでなく未来においてさえ)。医学という分野の科学技術の進歩で「産」の方はずいぶんよくなったけれど、「育」の方は地域の崩壊などが進み、それに代わる公的な育児施設(保育所など)の整備が追いつかずにいます。それに何より、将来に希望が感じられず、結婚しない人たちが大幅に増えている。→少子化現象
昔の日本に、「環境」「維持」「持続可能」などの概念があったかどうかわかりませんが、あったとしても、私は「エコロジー的な方向からの倫理的配慮」が意識的になされたとは思えません。
現代の視点から、過去を振り返れば(なんでもそうだと思いますが)いろいろな意味づけが可能です(それでさまざまな「歴史」があるのでしょうね)。
「鎖国」の評価は別にして、江戸時代が300年近くにわたって比較的平穏な時代が続いたのは、身分制や生産・商業活動への細かな規定・規制など人間性への抑圧、自由の制限が有効に働いていたおかげであったが、人口の増大がなかったことも一因に違いない。
欧米においては人口が増え、これを経済発展と植民地獲得(移住)によって支えた。
アジアの宗教、とりわけ仏教では、「子どもをたくさん生むのはよいことだ」という観念はあまりない。
多神教の仏教では、あらゆるものに「仏性」をみますが、これはアニミズムと通じており、”いのち”があちこちにあふれ、自然はおお賑わいだから、とくに人間が増えなくてもよい、よかったのではないでしょうか。
人が子どもを授かり、増えてゆくことは確かにいのちを尊ぶことの一面ではあるが、それは同時に(生産力が低ければ)家族や子どもを守るために世俗的な争いに加わることにつながる恐れがある。
社会の規模でみれば「人口が増えることは、恵みであると同時に、おおきな混乱を招く、不安定につながる恐れがある」ということになる。
やむをえないときは中絶を行わなければならない。罪の意識や悔恨の念を強く感じながらもその道を選ばざるを得ない。そのような事態を人の悲しい在りようとして受けとめ、中絶を禁じることはせず、悲しみを表現する態度を、日本の伝統的な宗教意識、仏教は受けいれた。
1970年ころから広く行われるようになった「水子供養」はそうした文化的伝統の一つといえるだろう。
だから、単純に欧米的な価値観、倫理でもって、日本人は「小さないのちをたいせつにする意識が乏しい」と評価するのはあたらないと言える。
ある民族学的な研究によれば、日本人には「いのちのプール」とでも言うべき伝統的な「いのち」観があったと言う。
かつての日本では、「小さないのちが絶たれる」ことを、まだ「この世に現れきっていない」ととらえ、ここには「殺す」という観念ではなく、「生まれる前に帰ってもらう」という意識だった。
したがって、仏事を行わないという慣習があった。また、次に生まれた子どもに、そのとき死んだ子どもの名前をつけるという習俗もよくあった。
かつての日本では、一人ひとりの個別性よりも、ある家やある土地に生まれ、一定期間の人生を生きて死んでゆく者は、一つの大きな「いのちのプール」のようなものの中からある時間帯だけこの世に生れ出て来て、死ぬと、またその「いのちのプール」に還るとでも比喩できる、個人のこの世での生命を強調しない”いのち”観があった。
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今、生きている人の都合だけを優先(たとえば「国債」という形で借金を後の世代に負わせ、たとえば「原発」という形で発電に使った核燃料のゴミを安全に処理できないのに推し進め…。地震や不慮の事故も心配ですが、こっちはもっと心配)するのではなく、
現在を生きているいのちをただそれだけで理解するのではなく、
過去のいのち、未来のいのちとの流れのなかにあるものとしてとらえるみかた。
「いのちのプール」とは、私には衝撃的でした。
でも、「いのち」は何も人間だけのものではない。