先日ツイッターを見ていたら、ラーメンの写真とともに「こんなの食べるなんて狂気の沙汰!」という投稿が流れてきた。糖質制限を推奨するジムに通い肉体改造に努めていることが投稿者のフィードからわかる。
1ヵ月前には、「白米は太る!」と断言するバリバリの糖質制限キャリアウーマンに出会った。彼女はどうやら「やせること=健康になること」と考えているらしい(ちなみに彼女はどこからどうみても肥満体型ではない)。
10年前に私は、過食嘔吐を繰り返す24歳の女性にインタビューをした。彼女には、「油ものはOKだがご飯ものは絶対ダメと」いう時期があり、その理由は「糖質は血糖値をすぐ上げ身体に悪く、そして太りやすいから」であった。
その時の私は気づかなかったが、彼女はいまや大ブームとなった糖質制限の先駆けだったのである。
私の専門である文化人類学は、人間の多様な生き方を、長期にわたるフィールドワークの中で明らかにしていく学問である。
その視点から眺めると、糖質制限はかなり特異な現象であるといえる。食は人間の多様性が如実にあらわれる場所であるが、一方で主食にあたる食べ物にとりわけ大きな価値が置かれることはほぼ共通しているからだ。
たとえば文化人類学者のオードリー・リチャーズは、ローデシア1北西に居住するベンバの下記のようなやりとりを、驚きを持って記録している[1]。
私の目の前で焼いたトウモロコシを4〜5本食べたあと、かれらはこういった。
「おお、腹が減って死にそうだ。俺たちは今日一日何も食べていない。」(47)
ベンバが空腹なのは、かれらが大食だからではない。かれらが空腹なのは、かれらにとっての腹を満たせる食べ物がトウモロコシではなく、「ウブワリ(ubwali)」だからである。
ウブワリとは熱い湯と雑穀を3対2の割合で溶いたペースト状の食べ物であり、これがかれらの生活を支えている。
かれらはウブワリと共に、日本語でいうおかずに当たる「ウムナニ(umunani)」も口にするが、ウブワリが食事の中心にあることには変わらない。ウブワリだけでは物足りないが、ウムナニだけでは食べた気がしないのだ。
またウブワリは、ウブワリそのものだけでなく、食事全体のことも指す。このことからもかれらにとってウブワリの重要性がわかるだろう。
ベンバにとってのウブワリは私たち日本人にとってのご飯である。「ご飯」「飯(めし)」は字句通りにとれば、炊いた米のことであるが、それは同時に食事そのものを指すし、飲みの席での役割は食事を〆ること、すなわち終わらせることだ。昭和生まれの人であれば「米を食べないと食った気がしない」というフレーズを一度は聞いたことがあるだろう。
ウブワリやご飯のように食事の核を担う糖質2と、それに味と彩りを与える少量のさまざまな料理という組み合わせは世界に広くみられる人々の食事のあり方である[2]。
もちろん気候が寒冷といった理由により、穀物をほとんどとらない民族も存在するが、相当数の人々が糖質によって命をつながれ、そしていまもつながれていることは間違いがない。
しかし糖質制限の流行により、糖質の地位はかつてないほど地に落ちた。
糖質制限派のメッセージは過激なほどに明快である。『炭水化物が人類を滅ぼす』『日本人だからこそ「ご飯」を食べるな』といった本のタイトルに始まり、糖質制限の第1人者である江部康二氏の著書『主食をやめると健康になる』の帯のメッセージは「ご飯・パンの糖質が現代病の元凶だった!」である。
これら書籍に目を通すと、糖質を中心とした食事の怖さがこれでもかというほど並び、しかもその多くが医師という権威ある人々によるものであるため、ふつうにご飯を食べていたら病気だらけの悲しい未来しか待っていないように思えてくる。