むかしから「このひとがおもしろい」という感覚に違和感があって、二十代後半くらいからそれが顕著になってきた。
その話をするうえでいちばんの例になることは、「小説家と会う」ということだ。
これまでに第一線で活躍しているたくさんの作家さんにお会いしたりしたのだけど、なんだか強烈な違和感をおぼえる。語弊のないように伝わって欲しいのだけど、作家と話をするというのがおもしろいということはない。実作の話をきいても勉強になるわ〜的な感じというのは作家のひととあうたびになくなってきてしまって、ぼくという人間がいかに他者に関心がないかをその都度突きつけられているようで、なんだか居心地がよくない。
もちろん、作家さんたちの作品は否定のしようがないくらい当然のようにおもしろい。だけど作家のおもしろさはなんだかもうそれ以上を求めない。おもしろい詩や小説を読めればぼくはそれでじゅうぶんしあわせで、それを書いたひとがどれだけ「おもしろいひと」なのかというのは、ぶっちゃけどうでもいい。
それよりも、「意外とふつーやん!」みたいな安心をおもしろくなさにかんじたりして、それがめちゃくちゃ好きだ。
人格を侵食する「才能」
あんまり好きなことばじゃないけど、いわゆる「才能」というものは世間一般にその実在を共有されているようで、それというのはとても凶暴におもえる。
たとえば文章や音楽といったあるひとをかたちづくるなにかひとつで突出した「才能」が世間に発見されたとき、そのひとが才能を発揮する作品を離れてもなお突出した才能と同レベルの「おもしろさ」がもとめられがちだ。
破天荒な文章を書くひとは破天荒な私生活を、優雅な音楽をするひとは優雅な私生活を、作品を介してでしか接点を持たない不特定多数の大衆がイメージをつくり、作品をつくったひとが「そうである」ことをどこかもとめている。
不思議なのはここからで、そしてもしそのひとというのが「そうでなかったとき」だ。
つまり、
「破天荒な文章を書くひとが生真面目で退屈な生活を送るひと」
だとわかったとき、多くのひとは「あんな破天荒なことをするのに平凡なひと」というギャップをおもしろいとみなす。ぼくはこれが気持ち悪い。
なんだかまるで、ある才能を持ち合わせたひとが「ふつうである」ということを許されていないみたいで、まるで才能が人格すべてを侵食していくような暗い凶暴性をかんじる。なにかものをつくるという仕事をしたひとが、その仕事だけでなく存在までもエンターテイメントであらなければならず、ものすごいスピードでしらないひとに消化されてしまうような。
そう考えると、ひとそのものがおもしろくない、ということは「安心」につながる。というより、「おもしろくないことを認める」ということはすごく健康的?みたいな。
どうしてなにもかもがおもしろいということを望むのだろう、とはいいつつも、ぼくの好きな番組は情熱大陸だし、好きなホームページはwikipediaだったりするので、それもまた困りごとだったりする。なんだ、この矛盾する感情!