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禅の視点 - life -

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「油断」って仏教の言葉だったの? - 身近な仏教語 -

身近な仏教語

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【油断】身近な仏教語の意味

あとちょっとで山頂だけれども、くれぐれも油断しないように。足を滑らせないように注意して一歩ずつしっかりと歩きましょう。
今はリードしているが、気を抜いたら逆転されるぞ。いいか、絶対に油断するな!
という感じで使われるこの「油断」という言葉、意味はもちろん「気を抜かない」。


しかし不思議ではないだろうか。
なぜ、「油を断つ」ことが「気を抜かない」になるのか
じつはこの油断という言葉、仏教のとある例話から生まれた仏教語なのである。


『涅槃経』(ねはんぎょう)という経典のなかに、次のような話が出てくる。
「ブッダが説いた教えを守り続けていくことは、中途半端な気持ちではできないことだ。それはあたかも、王様の命令で一人の家臣が油を一杯に注いだ鉢を持って遠い道を歩かされ、もし鉢を傾けて一滴でも油をこぼしてしまったら、お前の命を断ってしまうぞといわれている状況と同じくらい気の抜けないことである」


そんな無茶な……。
なんとも物騒なたとえ話だが、それくらい本気でなければ教えを会得することはできないという意味なのだろう。
この例話から「油断」という言葉は生まれたのだ。
油をこぼしてしまったら命が断たれてしまうというくらいの真剣さで、日々の修行を行いなさい。
すなわち、日々の生活を「油断しないように」。


この例話には、鉢を傾けると油がこぼれるという言葉がでてくる。
そのように油を運んだことはないが、同じような状況ならおそらく誰もが経験していることだろう。
水などを器に一杯まで入れて運ぼうとすると、一歩足を踏み出した時点でもうこぼれかねない。
あれはかなり神経を要する動きだ。
そしてどれだけ気をつけていたつもりでも、結局水はこぼれてしまい、欲張って水を一杯までいれなければよかった後悔する。
傾けたつもりなど毛頭ないが、それでも振動というか、揺れというか、僅かにはやはり傾いてしまうのだろう。


この傾くとうい意味であるが、これは単に器の角度だけを指しているのではない。
じつはこの言葉には生き方を傾けてはいけないという意味が含まれている。
ブッダは王子としての享楽的な生き方に虚しさを覚えて出家をしたが、その後の苦行という生き方にも安らぎを見出すことはできなかった。
享楽と苦行。
どちらも極端であり、そのような偏った生き方に平穏はない。


そこでブッダが最終的にたどり着いたのが「中道」という生き方であった。
極端なものに自分の心を傾かせないように、常に心を自分の中心に維持し、ニュートラルな心で生活をする。
怠けてはいけないけれど、やりすぎもまたよくない。
どれだけ意識していても、知らず知らずのうちにどこかに傾いてしまうものだからこそ、思考も行動も偏らないように折々に気をつけて生きるように。
これが、器を傾けて油をこぼさないようにという言葉の、もう一つの意味である。


油はよく燃える。
木々は100年かけて森を作るが、
火は1日でそれを焼き尽くす恐ろしさを秘めている。
油をこぼすような傾いた生き方は、自分の背後に火種を残していくような生き方なのかもしれない。
火はすべてを燃やしてしまうのだ。
形あるものが燃え尽きることで、形のないものまでが灰になる。
取り返しがつかないのである。


「油断するな」
その言葉を耳にしたら、気を抜かずにと思う頭の片隅で、今自分は何かに偏った生き方をしていないか、少し内省してみるのもいいかもしれない。
油をこぼしてばかりいては、いつ引火してもおかしくないのだから。




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