「九〇年代の日本外交と国連−小和田氏は何をしたのか−」、『軍縮問題資料』2001年10月号
河辺一郎
一 横領事件で問われていないもの
外務省不祥事が次々に明るみに出る中で、斎藤、林、柳井、川島の四名の歴代事務次官が処分された。逮捕された松尾克俊・元要人外国訪問支援室長がこの役職を務めたのは、一九九三年一〇月一〇日から九九年八月一六日までだった。九三年八月に就任した斎藤氏から九九年七月に就任した川島氏まで、松尾元室長が在任時の事務次官経験者が処分されたわけである。しかしここで問題になったのはあくまで職員の規律の緩みであり、歴代次官が問われたのはその監督責任だった。
もちろん、公務員が五億円以上の税金を横領したことは重要である。しかし、これだけの金を横領できたということは、当然にそれをはるかに上回る予算がこの部署に流入したこと、そしてその部署の活動が外務省全体の中でも重視されていたことを意味する。では、それはどのような目的の下で使われたのか。問題にしなければならないのは、むしろこのことだろう。特に松尾元室長が外務省においてロジ(ロジスティクス 会議や外遊の事務的支援)を担当していた以上、そこに指令を送るサブ(サブスタンシャル 実質的な外交政策の立案や交渉)を問題にせずには事件を論じることはできない。
例えばある干拓事業において巨額の横領が行われたとする。確かに税金が横領されたことは問題だが、それが政策そのものが批判される中で起きた場合と、政策自体は広い支持を集めている中で起きた場合では意味が全く異なる。政策が批判されているのであるのならば、つまり、公共事業のあり方、干拓やダムという施策自体の是非、住民や漁民の「理解」を得るために行われる様々な対策、業者や特定の政治家の動き……などが批判されており、そこで横領が起きたのならば、それは単なる横領事件ではない。そのような事業のあり方や政策そのものが問われているのに他ならない。具体的には次のようなことが議論されるだろう。利益誘導や業界癒着など、その事業のあり方そのものが横領や汚職を生み出したのではないか、批判に抗して補償金などをばらまいて無理に推進したからこそ、横領や汚職を生む土壌が作られたのではないか、事前の環境アセスメントでは国が情報を操作したのではないか、そもそもこのような開発政策自体が根本的に曲がり角に来ているのではないか……。あえて言えば、それは起きるべくして起きた横領であり、そのようなことを問わずに、横領した者だけの責任を問題にしても、的はずれでしかない。
ところが、一連の外務省不祥事に関してはそのような議論が全くと言ってよいほどない。これでは、不祥事の背景にある政策そのものには問題がないと考えられていることになり、歴代次官が問われたのは、横領により政策の遂行が妨害されたことの監督責任になる。しかし皮肉な言い方をすれば、それが好ましくない政策だったとすれば、横領により多少なりとも実現しなかったことは良かったと言えることにもなる。
本誌七月号で、九三年八月に外務省が独自に機構改革を行ったこと、そしてそれは安保政策と国連政策を一体化するものだったが、当初は国連政策ではなく軍縮を組み込む予定だったことを取り上げた。そしてこれが変更された理由として考えられるのは、国連安全保障理事会が力を持つようになり、国連が、それまで確立されてきた話し合いによる姿とは異なり、大国を中心として武力を前提に平和を維持する機関として活動する可能性が生まれたことではないかと、述べた。
一方、日本政府が常任理事国になりたいとの希望を公然と表明する意見書を国連に提出したのは、機構改革が実施される一ヶ月弱前だった。つまり、少なくともその実施時期から見れば、外務省の機構改革は復活しつつあると思われた軍事的な国連を前提として行われ、常任化の推進はその軍事的な国連を仕切る大国の一員になりたいという意味も持っていた。
そして、松尾氏が要人外国訪問支援室長の職に就くのはこの機構改革が実施された二ヶ月後だった。つまり松尾元室長の巨額の横領は、機構改革が機能し始める中で犯されていた。では、彼の下に税金を流し込んだ政策とはどのようなもので、誰が推進したのだろうか。省内のことで判然としない点が多いが、事実経緯を時間を追いながら整理してみたい。
二 国際貢献と機構改革
九一年八月二日、政府はPKO協力法の基本方針を発表し、自衛隊の部隊参加を決める。それまでは自衛隊の別組織として設置することを自公民三党の合意としてきたが、それがPKO協力法案の提出を前にした最終段階にいたって撤回されたのである。小和田恒氏が外務省事務次官に就任したのはこれと同じ日だった。小和田氏は着任と同時に外務省の機構改革に着手し、九月一七日に外相の私的諮問委員会として外交強化懇談会を設置する。座長には瀬島龍三・元大本営参謀が就任することが内定していた。同日、国連総会が開会する。二日後の九月一九日、PKO協力法案が閣議決定され国会に送られる一方で、翌九月二〇日には外交強化懇談会が第一回会合を開催する。機構改革は、PKO問題で日本中が揺れる中で着手され、具体的な検討は、自衛隊を中心とするPKO協力法を前提にして始められたのである。
一〇月一六日、日本は安保理非常任理事国に当選し、軍事化を強めていた国連の中心に座ることになった。一一月二一日、安保理は次期事務総長にガリ氏を指名する。翌年から、非軍事的な活動だったはずのPKOは、日本が参加する安保理とガリ氏の下で軍事化することになる。その六日後の二七日、衆院特別委員会がPKO法案を強行採決するが、これは強い反発を呼び、法案自体の成立も危うくなった。二日後の二九日、外交強化懇談会最終会合(第一五回)が開催され、その報告書は一二月二日に外相に提出された。
翌年一月から日本の安保理理事国としての任期が始まるが、ここで浮上したのが安保理理事国の首脳級会合を開催するという動きで、主導したのは議長国の英国だった。当時の神余隆博国連政策課長は、「英国の提案を逆手に取って、常任理入りの積極論者、小和田次官らと共に、悲願達成に向けて動き出した」(文芸春秋九四年一一月号)と伝えられる。神余氏の課長就任はこの直前の一二月二〇日だった。この、安保理理事国の初の元首級会合は一月三一日に開催され、事務総長に対してPKO強化に関する報告を提出するよう要請する。
一方、審議が止まり、成立が危ぶまれていたPKO協力法案だったが、四月二八日に参院特別委員会が審議を再開し、六月五日には強行採決される。国会が騒然とする中で、六月一三日に外務省は半年前に提出された外交強化懇談会の報告に基づき、機構改革を発表する。ただし、当初重視されていた軍縮はその役割を低下させ、代わりに国連政策が外務省の中枢に位置することになった。その二日後の六月一五日、PKO法案が成立する。さらに六月一七日には、ガリ事務総長がPKOよりも重装備の平和執行部隊を提唱する報告書「平和への課題」を公表している。この直前の六月九日、米国議会上院の公聴会で国際機関担当のボルトン国務次官補が、「平和への課題」に関して、ガリ事務総長らと「協議を重ねている」と答えており(United Nations Peacekeeping efforts,Hearing befor the Committee on Governmental Affairs United States Senate, June 9, 1992, p.18)、その内容には主要国の意向が反映していた。もしかしたら日本も影響力を及ぼしたかもしれない。
このように見ると、外務省機構改革が国連の軍事化を前提としていたことがよく分かる。この構想自体が自衛隊のPKO派遣を前提に議論が進められ、国連政策と安保政策の一体化というその実質的内容も、日本が自ら理事国を務める安保理が国連の軍事化を進めるのと歩調を合わせている。しかもその発表は、PKO協力法案の成立や軍事化のきっかけとなる「平和への課題」が発表される直前に行われた。この後に発表した場合には、国連と安保を統合する意図が問題になる可能性がないわけではなかった。加えて国会が混乱した当時の状況ではこの発表は注目を集めなかった。また安保理常任化が、国連の軍事化を前提としてその中枢に座ろうとするものだったことも理解できる。そしてこれらの問題全てを主導する立場にあったのは、小和田恒氏だった。
その後、九二年八月にPKO協力法が施行され、自衛隊がカンボジアに派遣される。これと併行して米国では大統領選挙が進行していたが、ここでクリントン候補は「積極的な多国間主義」を主張し、日独の常任化を提唱した。一九四五年に構想された、常任理事国を中心とする軍事的な国連が復活するかに見えたことを受けて、常任理事国の顔ぶれの変更すなわち同盟の組み替えを主張したのである。一一月三日、大統領選はクリントンが制するが、ここでブッシュ大統領はその任期を終える直前に至って、唐突にソマリアへの介入を進め始め、一二月三日の安保理で多国籍軍の派遣を決める。このため、九三年一月二〇日に発足したクリントン政権は、独自の外交政策を展開する以前に前政権の決定を引き継がざるを得ない状態になった。五月四日、多国籍軍から転換されたPKOの一員として米軍は国連の指揮下に入るが、現地勢力との武力衝突に対する報復として、六月十二日に米軍は大規模な武力行使を始めた。また六月四日には、旧ユーゴスラビアの国連保護軍にも空軍力と含む武力行使が認められるなど、それまで中小国を中心とする中立の活動として確立してきたPKOが急激に変貌を遂げた。そしてその変化において、九二年六月に発表された「平和への課題」が意味を持った。
三 常任化と小和田氏
日本も参加する安保理が国連の軍事化を急速に進める中で、七月六日、政府は国連に意見書を提出して、安保理常任理事国への希望を公式に表明する。機構改革に着手することで始まった小和田体制がその最後で提示した日本外交の方向だった。「カンボジアとモザンビークのPKOへの日本の参加を経験し、安保理改組問題では政府の意見書作成に関与」(神余隆博『新国連論』)した小和田体制は、七月三一日の小和田氏の次官離任によってひとまず終わる。そして、その翌日に機構改革が実施され、国連政策と安保政策が一体化された。小和田氏の敷いた路線の上を日本外交が歩み始めるのである。
ところがここで予想外のことが起きる。七月一八日の総選挙で自民党が過半数割れとなり、機構改革実施の直後の八月九日に細川内閣が成立するのである。そして自民党支配が崩れたこの内閣で最初に問題となった外交問題、つまり機構改革後に初めて注目を集めた外交問題が、常任化だった。細川首相は自ら国連総会で演説する意向を示すが、九月一日に行われた演説原稿の第一回検討会議で外務省が用意した草案に対して田中秀征首相特別補佐が反対を表明し、官邸と霞ヶ関は激しく対立する。結局九月二七日、国連総会で細川首相は、内容を弱めながらも常任への意思を表明する演説を行う。松尾氏が要人外国訪問支援室長に就任したのは、この二週間後の一〇月一〇日だった。なおこの直前の一〇月三日に、ソマリアで米軍のヘリコプター2機が撃墜され、これを機に米国の国連への姿勢は批判の度合いを増し、それは現在のブッシュ政権に引き継がれることになる。一方、細川政権では武村正義官房長官や田中氏と小沢一郎氏の間の溝が深まり、九四年一月には田中氏が首相特別補佐を辞任する。その後、三月に小和田氏が国連大使に就任、翌月には羽田内閣が成立する。
ここでは二つのことが興味深い。一つは、細川首相が国連総会で常任化への意向を表明した演説を行った後に、松尾元室長が就任していることである。細川首相が、当初の外務省案よりも抑制された内容であるにせよ常任化への意向を示したことは、外務省が常任化推進のための具体的な施策をとれるようになったことを意味した。その後、政府首脳が外国を訪問したり、外国の要人が訪日するたびに、日本の常任化を支持するとの言葉が頻繁に発表されるようになる。外交関係の演説とは、対外的な意味以上に国内向けの意味を持つことが多いが、これはその典型だった。そしてその政府首脳の外遊を支援するのが松尾元室長だった。少なくともその就任時期からは、細川演説により常任化支持を各国に働きかけるための根拠が整い、首脳が外遊する環境が出来上がったので、その方面で能力を発揮していた松尾元室長がその地位についたことになる。なお、要人外国訪問支援室が設置されたのは九〇年一〇月、イラクのクウェート侵攻を受けて、政府がペルシャ湾への自衛隊の派遣を検討していた時期だった。
次に興味深いのは、小和田氏が次官を退いてから国連大使に就くまでの間が八ヶ月以上もあることである。この間は外務省顧問にという名目的なポストに就いており、実質的な活動はしていない。これは異例なことだが、当時は、皇太子妃の父親である彼にふさわしいポストを検討しているなどと報じられていた。しかし彼が表舞台から姿を消していた期間は、国連政策をめぐって官邸と霞が関が対立していた時期と重なる。任期の最後で常任化問題を提起した小和田氏は、自らが推進したこの問題が政治的に議論を呼んでいる間は、この問題と直接に関わる役職には就かなかったのである。彼が国連大使になるのは、常任化問題を重視してきた田中秀征氏が官邸を去り、細川内閣自身も命運が尽きようとしていた時だった。その後、彼は国連大使として常任化推進に尽力する。
かつて、外務省幹部職員が細川政権の成立は予想外だったとこぼすのを耳にしたことがあるが、このように見るとその意味も理解できる。機構改革を実施し、軍事化しつつある国連において日本がその中枢に位置することを推進しようとしたまさにその時に、政府の最高責任者がその動きにストップをかけたのだから。しかし全体的に見れば、それは官僚主導のこの動きにおいて決定的に障害になることはなかった。
その後、安保再定義、新ガイドライン、周辺事態法と続く新安保体制が問題になる。この一連飲む動きでは、理由付けとして国連が改めて利用されるようになり、安保政策と国連政策を一体化したことが意味を持った。その一方で、行革論議が盛んになる。両者は、九六年一一月二八日に行革会議が第一回会合を開く一方で一二月二日に「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」が最終報告を出し、九七年九月三日に行革会議が中間報告を出す一方で、九月二三日に新ガイドラインが発表されるなど、併行して進められたが、行革に関して外務省が問題になることはなかった。外務官僚が政策に関わる改革を主導した後に、その改革に沿った形で日本政治の根幹に関わる重要決定が行われながら、政治主導で設置されたはずの行革会議はそれを問題にもしなかったのである。
一方、松尾元室長は九九年八月一六日に要人外国訪問支援室長を離任する。小和田氏が国連大使を離任するのは、その二ヶ月後のことである。小和田氏は五年半以上も国連大使を務めたわけだが、これは歴代国連大使の中でも最も長く、平均在任期間二・九年の倍近い。しかも興味深いことにこの期間は、やはり異例の長さの任期を要人外国訪問支援室長として過ごした松尾氏とほぼ重なる。やや食い違うのは就任時期だが、七月三一日に事務次官を離任した小和田氏は、本来ならば九月に始まる国連総会に合わせて八月に就任すべきだったことを考えると、「一致度」は高い。松尾要人外国訪問支援室長が「支援」したのは小和田氏だったのかもしれない。
もちろん、全てが小和田氏の敷いた路線に沿って動いたわけではない。例えば、米国内の国連批判の高まりが、国連を米国の望むような機関に改革するという動きをも乗り越えて国連無視に至ってしまい、しかも、恣意的な改革に対する他の国から反発も相次ぎ、日本の常任化の可能性は著しく低下したことはその筆頭に挙げられるべきだろう。日本の常任化は、九五年の国連創設五〇周年の時期に、いわばどさくさに紛れておこう必要があったのである。しかし、国内を動かすための外交の利用という点から見れば、九五年九月に起きた沖縄の暴行事件をきっかけに起きた安保を見直す動きに抗して、新ガイドラインを結ぶ上で、小和田氏が敷いた国連政策と安保政策を一体化させる路線はきわめて大きな意味を持った。そしてこの暴行事件が起きたのは、常任化の可否を決める上で重要な五〇回目の国連総会が開会する月だった。
小和田氏の役割については判然としない点が多いが、歴代事務次官と比べても大きかったことは間違いない。しかし、彼が敷いた路線は検討されないままに二一世紀を迎えてしまった。今回処分された四人の事務次官経験者の中にも彼の名はなかった。もちろん今回の処分は不祥事に関してだが、冒頭でも触れたように、その背景にある政策を問うことこそ、主権者たる国民が、そしてその国民が選んだからこそ国権の最高機関足り得ている国会がやらなければならないことだった。遅きに失してはいるが、今からでも行うべきである。