シン・ゴジラ

img_1024

映画「硫黄島からの手紙」はメルボルンで観た。
ちょうど封切りの時期にメルボルンにいたからで、たしかサウスランドのWestfieldのなかのシネマで観たのだったと思う。
いくつかの映画館の集まりでもいちばん小さなシアターが割り当てられていて、
80席くらいの館内に、30人程度の観客で、あとでアカデミー賞を取ったとおりで、試写の段階から評判が高い映画の封切り日なのに、たったこれだけしか観客がいないのか、と驚いた。

映画が始まって、暫くすると、30分も経たないうちに若いカップルが席を立って帰ってしまった。
しばらく時間が経つと、またカップルが席を立っていって、映画はどうみても良い出来なのに、なぜなのか理由が判らなくてこまった。

シン・ゴジラは英語圏のシネマで日本語映画を観る二回目で、初め大々的に打ち上げてロードショーをするという触れ込みだったのが、試写の反応とレビューが予想外に悪かったので公開中止で、観たい人はDVD買ってみてね、ということになって、それが三日間だけ公開に二転して、小さな特別映写場で何日か公開することに三転した。
外国映画、特にアジア系の映画ではよくあることで、「風立ちぬ」は、宣伝は大々的だったのが、「訳のわからない失敗作」というレビューが立て続けに出たあと、
ニュージーランドでは公開中止になって終わった。
オーストラリアでは、やったのかどうか、訊いてみないので知らない。

やむをえないので日本からブルーレイを取り寄せて観たが、とても面白くて、結論は映画批評家たちには1945年に終わった日本との戦争に知識がなくて、零戦といっても名前を聞いたことがあって、ニュージーランド人ならば、ああ、博物館に実機がおいてあったな、と考えるくらいのことで、背景知識がゼロなので、「訳がわからない」というレビューになったのだろうと想像しました。

日本の人がシン・ゴジラを観に行った感想を観ていると、皆が皆「名作だ!」と感動していて、期待ができそうにおもえた。

シネマに着けばやることはいつも同じで、席を指定して、券を買うと、シネマのなかのバーに行ってワインとチーズを注文する。
お腹が空いていればピザを食べたりもするが、たいていは、ワイン、たいていはピノノアールを選んで、バーのカウチにモニとふたりで肩を並べて座って、ワインを飲んでミニ・おデートをする。

だいたいいつも15分プロモーションがあるのは判っているので、15分経ってから館内に入ればよさそうなものだが、案外と新作のトレーラーは観ていて面白いので、モニとわしはたいてい定刻に席につきます。
テーブルがあってウエイトレスが指定した時間に食べ物や飲み物のお代わりを持ってきてくれるプレミアムシートのときもあるが、仰々しいので、ふつうのシートに座ることもある。
シン・ゴジラは、シネマコンプレックスのなかでも、「こんなに小さなシアターもあったのか」と、ぶっくらこくような小さな部屋で、50席程度で、いちばん後ろの席でもスクリーンが近すぎてくたびれる。

半分くらい埋まった席に座っているのは、あきらかなゴジラファンで、日本人らしい人はいなかった。
ひとりだけ欧州系の男の人と一緒に来ているアジア系の女の人がいたが、中国の人であるようでした。

映画は、ゴジラ映画ではなかったのが、最もがっかりした点でした。
ちょうど、1998年版のハリウッドゴジラとおなじで、わしのような筋金入りのゴジラファンがなじんだフランチャイズムービーとしての「ゴジラ」の文脈はいっさい無視されていて、画面にゴジラが出てくるだけのことで、庵野監督という人が日本に向かって言いたいことが詰め込まれた映画に見えました。
早口でまくし立てられる、なんだか高校生がつくった映画みたいな科白まわしは、英語の字幕では大幅に内容が削られていて、日本語が理解できなければ、ふつうに感じられるが、なまじ日本語が判る人にとっては、それだけで興ざめになる体のものだった。

ゴジラファンは、よく「ゴジラに対する敬意を欠いたゴジラ映画」という言葉を使う。
北村龍平のゴジラFINAL WARSがその典型で、ゴジラはいかにも自分が撮りたい映画を撮るためのダシで、撮っている人がゴジラという存在にたいした興味をもっていないのが手に取るようにわかってしまう。

そこまで酷くはないが庵野秀明という人は、自己主張が強い人なのでしょう、ゴジラは別にゴジラと呼ばれなくてもよい、この人が独自に創造した存在で、1954年以来、延々と9割の駄作とひとにぎりの傑作で、ファンを楽しませてきたゴジラは何の関係もないキャラクタにしか見えなかった。

観ていて、かなり初めのうちから感じられたのは、そもそも庵野監督が日本国内だけを対象に映画をつくったらしいことで、日本の人にしか理解できないリアリティの表現や再現、長谷の鎌倉近代美術館の交差点から、斜向かいのいわし割烹店を見上げたアングルの楽しさまで、いかにも日本人限定で、英語人が観る前提に立っていないのがあきらかだった。

それが決定的に表明されるのが三世代目の日系アメリカ人ということになっている石原さとみが登場する場面で、口を開いて英語を発音し始めた途端、場内には(悪意ではない)笑い声が起きていた。
もんのすごい日本語訛り英語だったからで、これは庵野監督の「英語人たちよ、いいかね、これは日本人がつくった日本人向けの、日本人以外には判らない映画なのだからね」というメッセージだったのではなかろーか。

いくつかの英語の映画評論家による映画評は、この映画をゴジラをネタにしたジョーク映画だとして扱っていて、日本の人の至極真剣な「名画だ」という受け止め方と平仄があわないので、???と思っていたが、その謎は、石原さとみの登場によって解けてしまった。
わし自身も、あえて石原さとみに配役したことには庵野監督の「日本人以外には判らなくてもいい」という決心があったのだと思っています。

最後まで観ないで、席を立つ人が何人かいて、斜め前のおっちゃんは、途中から鼾をかいて眠って奥さんらしい人にどつかれていた。
退屈な映画が上映されているときの、いつもの光景で、モニとふたりでクスクス笑いながら、おっちゃんの寝顔を観たりして、それでも後半には見所がいくつかあった。

ごくわずかしかないゴジラの破壊シーンの美しさは、シリーズでも一二を争う出来で、特に赤坂見附に立って銀座の服部時計店を薙ぎ倒す前後の破壊のすさまじさと美は、庵野秀明の底の深い才能を感じさせた。

印象に残った、もうひとつのシーンは、無能だと自他共に認めているらしいピンチヒッターの韜晦首相が、ひとしきり報告を聞いて、ことなかれ主義的な指図を出したあとに、ラーメンを見つめて、「あーあ、のびちゃったよ。首相って、たいへんな仕事なんだなあー」と自分自身に対しておとぼけをかませるシーンで、このシーンの可笑しさと文化表現の深さは、英語人観客にも、とても、うけていた。
映画らしいシーンで、とても好感がもてました。
それから、もちろん伊福部昭!

日本語友人達が絶賛する庵野監督の「日本的問題解決能力」描写は小松左京から由来しているもののように見えた。
無能なリーダーを戴く、名前や人物が置き換わっても気が付かないような個性に依存しない日本的組織の効能を小松左京という人は、死ぬまで、とても信頼していた。
実際、いま調べてみると松尾諭という人なのではないかと思うが、政調副会長の口から述べられる政府の思惑やなんかは、小松左京直系の口吻で、少なくとも庵野秀明が信じている「日本の力」が小松左京的なものであることが見てとれる。

総じていって、印象は「巧みだが何かが欠けている」映画で、おもしろいことに、この感じは英語人一般が、自分ではまだ観ていないエヴァンゲリオンやアニメ全体に言う事とおなじで、もしかすると、良い悪いということではなくて、日本語世界と他の言語世界では、現実や真実に対する感じ方自体が、分水嶺からわかれて、おおきく異なってきてしまっているのかもしれない。
いまこうやって考えていても、うまく言えなくてもどかしいが、どういえばいいか、人間の魂の深いところに届かない頭のなかの観念操作だけで出来た世界というものが成立しうるのかもしれないと思わせる。

モニはシネマを出るなり、いっそサバサバした表情で「退屈な映画だったな、ガメ」と述べていた。
頷く、わし。
だけど、嫌な気持ちがしているわけではなくて、なんとなくニコニコしながら、あんまり面白くなかったね、と述べあいながら駐車場を横切ってクルマのドアを開けます。

考えてみると面白いことで荒唐無稽だと多くの人に笑われながら、どこかしら、魂の奥底に訴えかけるところがある、世にも稀な、着ぐるみ人形のシリアス映画破壊王ゴジラの伝統は、日本のゴジラではなくハリウッドに受け継がれて、日本の大部分の人に「こんなにひどいゴジラ映画は観たことがない」と言われた2014年版は「帰ってきたゴジラ」として英語人ゴジラファンを熱狂させた。
あっというまに第三作目まで出資者が決まってしまった。
あの「虫」はなんだ、と、なんだか愛情が隠せない様子で大笑いするゴジラファンたちの姿は、きっとかつて東宝が延々と駄作ゴジラ映画を作り続けていた頃のおとなのゴジラファンたちと瓜二つでしょう。

ひとつだけ心配なのは、庵野ゴジラが日本国内で成功したことによって、伝統のゴジラ世界の系譜が断たれて存在しなくなることだが、こちらも英語ゴジラでは2020年の公開がすでに発表されている三作目が「ゴジラ対キングコング」であることを考えれば、案外、生き延びてゆくのではないだろうか。

あの夜空を炎で焦がして、暗闇に向かって咆哮する、もともと核の暗喩である破壊の王は、どうしても核実験反対の映画の企画を通してもらえなかった日本の映画人たちの苦肉の策だったというが、まったく辻褄の合わない、合理性を欠いた怪獣王が、いまでも英語人たちの心に奇妙に深刻なトーンを伴って訴え続けているのは、ゴジラという生き物が、ほんとうは現実に存在してしかるべきなのに現実には存在しないという現実よりも真実性に満ちた宇宙への架け橋の役割をはたしているからに違いない。
不破大輔が述べたように映画のなかではゴジラだけが現実で、細部まで忠実に再現された現実の日本が虚構にしか見えないのは、日本文明の現実そのものが少しづつ、着実に虚構化してきているからなのかもしれません。
現実を失ってゆく日本。影が失ったピーターパンのような文明

ギャオオオオーーン!

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s