初夏、東京都美術館で、「生誕300年記念 若冲展」が開かれた。5月18日にはシルバーデーも重なり、なんと320分の待ち時間となった。
あまりのすごさに、インターネットのツイッター上には、若冲展待機列SFと名づけられた新ジャンルまで生まれ、こんなSF小説のような“つぶやき”が交わされた。
「若冲展を見るまでに3時間がやがて3年となり30年となって入場を待つ人のための宿場が不忍池を取り囲むように出来て層を重ね上へと伸びて1万人が暮らす街となって家庭を持つ者も現れ自給自足の中をいつ美術館へと呼ばれ若冲に見えられる奇跡を信じながら息を引き取る者も出始めて300年が経った。」
(引用:タニグチリウイチ@uranichi)
江戸時代の絵師、伊藤若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三〇幅が東京で一堂に会するのが初めてとはいえ、異常な賑わいだった。
とにかく日本人のアート好きは抜きん出ていて、ロンドンの専門紙The Art Newspaperが毎年集計している、世界の美術展動員観客数ベストテンに日本の展覧会が四つも入った年があったくらいである。
4時間、5時間待たされても見に行く献身は、私からすると空恐ろしいとしか言いようがないが、何を求めて並ぶのだろうか。
一方で、過熱する世界のアートシーンのなかで、日本の現代アートのマーケットは冷え込んだままである。
日本人がアート好きなら、なぜ作品を手許において楽しもうとしないのか。
こんな根本的疑問が、新刊『現代美術コレクター』(講談社現代新書)を執筆するときの大きな動機になっている。
私は精神科医としての生業の傍ら、1990年代から同時代の日本作家による現代アートをコレクションし始めた。そして、次第に分かってきたことは、若冲以来の美の遺伝子が現代アートに結実している一方で、日本のアートシーンをとりまく貧しさだった。
日本のアート界は、大きく三つに分けられる。洋画、日本画、現代アートであるが、こんな奇妙な分け方が成立している国は他にない。時代による区分は、他国にもあるものの、ジャンルは一つである。
しかし日本の場合は同時代に作られる作品が三つに括られてしまう。そして、これらを扱うギャラリーも区分され、洋画と日本画は銀座。現代アートは品川や六本木と場所まで違ってくる。
こうなるとアート界に出入りするお金も三分されてしまい、なかなかマーケットプライスが上がらないことになってしまう。
国際マーケットでの地位を確立した、草間彌生、村上隆、奈良美智はもとより、会田誠、山口晃、名和晃平など世界的に見てもトップレベルの作家たちが後に続いているにもかかわらずだ。
マーケットプライスが上がってこなくても、何も問題ないと思われるかもしれないが、芸大・美大合わせて、毎年13000人ほどの卒業生がいて、マーケットプライスが低値のままでは、殆どの人達は食べて行けない。
しかも運良く才能に恵まれて、1〜2回個展を開けたとしても、誰も購入しないということであれば、その作家はアーチストとして生きる道を捨ててしまうかもしれない。
国内の若い作家を育てるには、作品を購入する層(アートコレクター)を増やすしかないのだが、日本現代アートのコレクターは本当に少ない。
世界中では、アート購入についての税制上のバックアップが盛んに行われている。しかし、それは何も金持ち優遇税制ということではない。
その国の現代アートの動向が、その国の威信をかけた闘いになっているからだが、我が国の為政者や国民にはそのような問題意識が少ない。