わたしの祖母
わたしの祖母は大正7年(1918年)の生まれ。
戦時中、戦後の動乱期を生き抜き、6年前に92才で大往生したの。
スポンサーリンク
樺太で和裁の教師になる
青森県出身の祖母は、岩手県出身で警察官をやっていた祖父とお見合い結婚して、樺太に移住したんだって。
日本は明治8年の樺太・千島交換で、一度は樺太を手放したんだけど。
明治38年、日露戦争に勝利した大日本帝国は、ロシア帝国との間にポーツマス条約を締結して、南樺太の領有権を獲得。
昔の満州国みたく、樺太に日本人が住んでいた時代もあったのよね。
祖母は樺太庁豊原高等女学校で、和裁の先生をやっていたの。
若かった祖父母の間には、長女が授かり、結婚生活は順調だったけど、日本人は樺太で暮らせなくなったんだって。
太平洋戦争が勃発して、ロシアを敵国に回してしまったから。
民間人は本土を目指して引揚船に乗り込んだものの、魚雷で撃沈した惨劇もたくさんあったそうだよ。
歴史的には1945年8月22日の三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん
が有名。
あれ?8月15日に終戦してポツダム宣言を受諾したんじゃないの?と思うよね。
現実的には、日本じゅうに玉音放送が流れたあの日できっぱり戦争が終わったわけじゃなく、ソ連軍は白旗を無視して攻撃を続けたらしい。
当時、27才だったお婆ちゃんは、背中に風呂敷、両腕に小さかった長女を抱えて、ぎゅうぎゅう詰めの船に乗り込んだの。
樺太から北海道へ向かう途中、前後の引揚船が撃沈したという無線が入り、もうダメかと思ったんだって。
祖母はただひたすら、拝むしかなかった。
天皇は神だと教えられて育った世代だもの。
敗戦しようが、天皇の位置づけが日本の象徴に変わろうが、お婆ちゃんには祈るしか出来なかったのね。
スポンサーリンク
戦後を生き抜く
船は何度か魚雷をかわして大揺れしたものの、祖母と幼かった叔母を乗せた引揚船は、無事に本土へたどり着いた。
しばらくして、シベリア送りをまぬがれた祖父も合流。
3人は北海道天塩町で暮らし始めたんだ。
日本が終戦直後でごたごたしていたから、祖父はすぐに警察官として復帰できず、荒れ地に鍬をおろして農作物を植えたそうだよ。
東北出身の祖父母にも、道産子としての開拓精神が培われたみたい。
ジャガイモを植え、タマネギを植え、冬の寒さに負けず、毎日を必死に生き抜くだけだった。
終戦から2年目の秋、待望の長男誕生。
後に散々バカをやって、自殺することになる、うちの父親ね。
4人兄弟の長男とは思えないほど無責任だった親父。
スポンサーリンク
育児の失敗
祖父は警察官。
祖母は元教師で真面目な神徒。
どうやったら2人の間に、うちの父親みたいな不良息子が育つのかと不思議だったけど、時代背景を追っていたら、ようやく原因が分かったの。
終戦まもなくの日本には、戦後共産主義運動がはびこっていたみたい。
水谷豊と伊藤蘭が夫婦で共演した映画『少年H』にも、街中で日本は間違っていた!と大声を張り上げる活動家が一瞬登場するよ。
それまで、日本国バンザイ!と教わったのに、突然日本は悪いことをしたダメな国ってことになり、少年Hは頭を混乱させていた。
うちの父親も同じで、敗戦の劣等感と、空腹感と、アメリカに対する憧れで、複雑な心境だったみたい。
いわゆる、ギブミーチョコレート世代。
当時、食べるものに困って、スープに輪ゴムを入れて肉の食感を味わうのが流行ったらしいんだけど、飽食の時代に生まれ育ったわたしには、今ひとつ理解しきれないものがある。
大人になりきれなかった父親
アメリカが嫌いだけど羨ましい。
日本は好きだけど敗戦した。
アンビバレント(相反する2つの感情)を持ち合わせたまま10代を過ごした父親は、大人になっても自我を確立できず、精神を病んでしまったんだ。
父親は28才で結婚して、オイルショックの年に長女のわたしが誕生。
全国的にティッシュペーパーが不足していたせいか、昭和49年前後には、第二次ベビーブームが起きている。
それから3年後。
育児放棄が原因で2人は離婚。
父親に連れられて、東京から北海道へ引っ越した。
母親代わりを務めた祖母
わたしは父親が探した再婚相手にまったく懐かず、徹底的なレジスタンスを繰り返し、ついには祖父母宅へ追いやられてしまったの。
実質、母親代わりをやってくれた祖母に感謝してるよ。
夜7時になると、一緒にお風呂へ入り、湯上りにサイダーを飲ませてくれた。
リボンシトロンっていうサイダーの瓶がダースで玄関先に置いてあったの。
冬の北海道だと、ジュースを冷蔵庫に入れなくても、玄関で十分冷えるんだ。
祖母はいつも、菊の紋章がついたグラスにサイダーを注いでくれた。
そして、布団を敷くと、床の間にある大きな神棚の前で岩笛を拭き、家族の幸せを願っていたよ。
父親の自殺
自殺する数年前の父親。
いい年をしてバイクに乗っている様子から、大人になりきれなかった父親の精神状態が伝わるかな。
中二病のまま還暦近くまで年をとってしまった。
釣りが趣味だった父親は最期、港に身を投げて入水自殺をしたの。
ゴールデンウィーク中にお婆ちゃんから突然訃報の連絡が来て、飛行機に飛び乗り、東京から北海道へ帰省。
身内だけでお通夜とお葬式をやったんだよ。
火葬場で祖母は、骨を拾っては骨壺に入れて、しきりに自分が名付けた息子の名前を呼んでいた。
息子に先立たれたおばあちゃんの悲しみ、あの世まで届いたかな。
バイクのツーリング仲間と宗谷岬を訪れた晩年の父親。
海の向こうには近くて遠い樺太が見えたはず。
父親は二度と戻れない敗戦前の日本へ戻りたかったのかも知れない。
ボケ知らずだった祖母
祖父がすい臓がんで亡くなってから、祖母は30年以上、一人暮らしだったの。
叔父や叔母から同居を勧められても頑なに断り続けたんだ。
祖父と建てた家を離れたくなかったみたい。
極力ヘルパーさんの力を借りず、自力で生活していた祖母は、ボケ知らずのまま他界したんだよ。
裁縫でよく指先を使っていた。
空き地になった祖父母宅跡
たまに北海道へ帰省すると、一人でふらり、祖父母宅の跡地へ寄ってしまう。
今はもう家が取り壊されて、雑草だらけの空き地になってるんだけどね。
近くにあった豆腐工場がなくなり、幼稚園時代に怖くてしょうがなかった犬がいなくなり、おはぎのお裾分けをしてくれた向かいの老人宅も見当たらない。
時代はどんどん変わる。
いつか人々は樺太が日本領だった時代を忘れてしまうのかな。
でも、わたしの忘却曲線を滑り落ちてしまう前に、いつかは行ってみたいよ。
かつて、日本人とロシア人が共同生活していた、近くて通り樺太(サハリン)へ。
現在、相互読者を募集中!気に入っていただけた方、ポチッとお願いします
↓↓↓
1日1クリック応援クリックお願いします
↓↓↓