2016-10-21
差別の残滓で差別される話、あるいは1985年改正国籍法の時点で法律に差別的な条項が残ってたことに起因する話。
この件。
国籍選択期限後の手続き「義務に違反」 金田法相
民進党の蓮舫代表の台湾籍を離脱した時期に関する説明が変遷している問題に関連して、金田勝年法相は18日、「一般論」とした上で、二重国籍になる可能性のある人が、国籍を選ぶ期限を過ぎてから国籍を選ぶ手続きを取るまでの間は「国籍法上の義務には違反していたことになる」との見解を示した。同日午前の閣議後の記者会見で語った。
国籍法は、外国籍を持つ人については、20歳までに二重国籍となる可能性が生じたときは22歳までに、20歳を過ぎてから可能性が生じたときはその時点から2年以内に、いずれかの国籍を選ぶよう求めている。法違反についての罰則はない。日本国籍を得るには「外国の国籍を離脱する」もしくは「日本国籍を選ぶ宣言をする」という方法がある。
蓮舫代表は16日、記者団に対して、今月7日に国籍選択の宣言をしたことを明らかにしていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161018-00000046-asahi-pol
単純に、1985年の国籍法改正を受けて国籍取得の手続きを行い、その際に国籍選択も台湾籍離脱も終わっていたと認識していただけですからね。
国籍選択がこの時されたかどうかは蓮舫氏からの明言が無いのでわかりませんが、仮にしていなかったとしても、それを違法だと糾弾するのなら国籍選択の義務が生じた時点から今まで行政側から義務の履行を求めたことがあるのかどうかを踏まえるべきでしょう。
もし蓮舫氏の父親が日本人、母親が台湾人であったなら国籍選択の手続きは不要だった
朝日記事では「国籍法は、外国籍を持つ人については、20歳までに二重国籍となる可能性が生じたときは22歳までに、20歳を過ぎてから可能性が生じたときはその時点から2年以内に、いずれかの国籍を選ぶよう求めている」と記載されていますし、他もほぼ同様の説明がされていますが、実はそう単純でもありません。
蓮舫氏の場合、父親が台湾人、母親が日本人であったため、やたら複雑な手続きが必要になっていますが、もし逆に父親が日本人、母親が台湾人であったなら手続きは遥かに簡単で、極端な話、何もしなくても良かったと言えます。
1985年改正国籍法の附則で、施行時点で日本国民であった外国籍保持者は国籍選択をしなくても国籍選択したものと“みなす”と定められているからです。
もともと改正前の国籍法では父親が日本人である場合でしか、子が当然に日本人であるとは認めなかったわけで、この父系優先血統主義が問題視された結果、ようやく改正されたのが1985年改正国籍法です。
この改正により父母両系血統主義に変わったわけですが、改正前に生まれた子に対して自動的に日本国籍を認める内容にはなっているわけではありませんでした。
このため改正時点では、父外国人・母日本人の子は日本国籍を持っていません。
1985年改正国籍法の附則には、その子のための特例があり、届出だけで日本国籍が取得できるようになっています。しかし、届出をしても誕生時点に遡及して日本国籍であったことを認められるわけではありませんでした。
4 第一項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を取得する。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO147.html
この点が、父日本人・母外国人の子の場合と異なります。
父日本人・母外国人の子の場合、1985年改正時点で二重国籍となっていても国籍選択をする必要がありません。国籍法第14条には二重国籍者は国籍選択をする義務があると書かれていますが、1985年改正時点で二重国籍である父日本人・母外国人の子は附則第3条に基づき、国籍選択の期限が到来した時に自動的に「選択の宣言をしたものとみな」され、何の手続きをとる必要も無いからです。
これに対して、父外国人・母日本人の子には、国籍選択の手続きをしなければならない義務が負わされたわけです。
父日本人・母外国人か父外国人・母日本人かによって子の処遇が変わるという差別的な状況を改善するために改正した国籍法ですが、その附則で尚も父日本人・母外国人か父外国人・母日本人かによって負わせる義務に差をつけたわけですね。
現在、蓮舫氏が自民党や右翼紙から追及されているのはこの差別の残滓によるもので、日本社会はその残滓をネタにさらに差別を繰り返すという状況を容認しているわけです。
どれほど救いの無い国なのか、と。
2016-10-20
子どもと引き離される親をDV加害者と決め付ける千田氏の主張は容認しがたい
改めて言うまでもありませんが、私は自民党に対して批判的です。自民党の異常な保守・極右思考には賛同できない点が多々あります。しかし、親子断絶防止法案については基本的に賛成の立場です。その辺は以前、子の連れ去りに関するハーグ条約に関連した記事をいくつも書いていますので参照してもらえればと思います。
で、千田有紀氏の「親子断絶防止法案の問題点―夫婦の破たんは何を意味するのか」という記事があまりに配慮に欠けた内容でしたので、指摘しておきます。
DV被害者でもないのに離婚後確実に親権をとるために子どもを連れ去るケースが問題なのに、千田氏がそれを無視している点
ところが、親子断絶防止法全国連絡会のHPに行き、議員立法をクリックして、仰天した。これは大変だという危惧を私ももった。まず保岡興治衆議院議員(議員連盟会長)の言葉。
現状、家庭裁判所がどちらの親に親権を与えることが適切かを判断するにあたり、監護の継続性を重視していると言われています。つまり、子どもの現状を尊重し、特別な事情がない限り、現状の養育環境を継続したほうが良いという考え方です。
この考えを悪用し、離婚後に単独親権を求める親が、子どもを連れ去るケースが頻発しているようです。こうした連れ去りを防ぐ法制の検討が必要です。
法律の目的を子どもの連れ去り防止だと、まず宣言しているからである*1。つまりよくドラマで見る、夫婦喧嘩の挙句「子どもを連れて、実家に帰らせていただきます」ということを禁止したいというのだ。しかし実際には、そういうのんびりとした事例ばかりではない。家から子どもを連れて出なければいけないのは、まずもってDV被害者だろう。住み続けた家から、好き好んで逃げるひとは多くはない。ちなみにアメリカなどでは、追い出されるのは加害者のほうだ。
これを禁止されたら、赤石事務局長も心配するように、DV被害者はたまったものではない。暴力の現場から逃げ出そうとするならば、子どもを置いて逃げるしかなくなってしまう。各団体が懸念を示したのは、当然だろう。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
保岡議員の発言出典がリンク先からわからなかったので、別途検索して保岡議員のサイトで見つけました。
我が国では、毎年約25万組が離婚し、その6割に未成年の子がいると言われています。
そして、親権を失い子どもとの面会交流ができていない親はその6割にも及び、毎年15万人の子どもが、片親との関係を断絶させられているとも言われています。
子どもは、両親が離婚する前には双方から愛されているのが通常です。それが親の離婚により一方の親との関係を断絶させられることになり、子どもにとっては非常に辛い経験で、子どもの健全な育成に悪影響を与えることは明らかです。
夫婦間で離婚の話し合いができないときは、話し合いの場は家庭裁判所に移る場合もあります。
現状、家庭裁判所がどちらの親に親権を与えることが適切かを判断するにあたり、監護の継続性を重視していると言われています。つまり、子どもの現状を尊重し、特別な事情がない限り、現状の養育環境を継続したほうが良いという考え方です。
この考えを悪用し、離婚後に単独親権を求める親が、子どもを連れ去るケースが頻発しているようです。こうした連れ去りを防ぐ法制の検討が必要です。
さらに、夫婦が別居した後も、適切な親子関係だけは維持されるように定期的かつ頻繁な面会交流を確保することが大切です。現状認められる面会交流は、月1回数時間程度であり、不十分であると言わざるを得ません。より良い面会交流を実現する法制を検討するにあたり、フレンドリーペアレントルール(一方の親により子どもを多く会わせる意志のある親を主たる監護親とする原則)も傾聴に値する考え方だと思います。
こうした状況を踏まえ、子どもの利益を再優先に考え、適切な親子断絶防止法制を模索していきたいと考えております。
今国会では、馳浩衆議院議員にリーダーシップをとっていただきながら、裁判所、法務省や親子断絶防止の民間団体(親子ネット)からお話を聞きながら議連を開催してきましたが、この度、牧原秀樹衆議院議員に事務局長を務めていただき、親子断絶防止法ワーキングチームを立ち上げ、成案を得るべく議論を開始しました。
(2014年11月27日)
http://www.yasuoka.org/sp/idea/idea_txt.php?fname=idea45
この内容を千田氏は「よくドラマで見る、夫婦喧嘩の挙句「子どもを連れて、実家に帰らせていただきます」ということを禁止したい」と解釈し、「家から子どもを連れて出なければいけないのは、まずもってDV被害者」と決め付け、「これを禁止されたら(略)DV被害者はたまったものではない」と結論付けています。
この時点で千田氏は、子を連れ去る親はDV被害者だという決め付けているわけですが、これでは保岡議員の発言にある監護の継続性を重視する家裁の「考えを悪用し、離婚後に単独親権を求める親が、子どもを連れ去るケースが頻発している」という問題意識とかみ合わないのは当たり前です。
つまり保岡議員は、DV被害者でもないのに離婚後確実に親権をとるために子どもを連れ去るケースを問題視しているのに対し、千田氏は子どもを連れ去るケースはDV被害者以外ありえないと主張しているに等しいわけです。
これは千田氏の認識の方がおかしいといわざるを得ません。
「同居親からさんざん悪口を吹き込まれ、会いたくないと言わされる」「ある日を境に、事情もわからずにプッツリと音信不通にさせられる」ケースを無視
(離婚をするのは仕方がないが)子どもの立場になってよ。
いさかいをし、口論し合う姿を見せつけられる子どもの心理を考えたことがあるか?
家庭内のDVで、子どもの心もからだも表情までも凍りつかせている意識はあるか?
日本は、離婚をしたら、単独親権である。
(離婚後は)DVを毎日見せつけられていたので、憎しみだけが増幅し、トラウマとなり、人間不信に追い込まれる。
本来ならば、家庭教育において人間社会の縮図を学ばなければならないのに、一方的に片親だけという現実を突き付けられ、成長の機会をうばわれる。
離婚で心身ともに傷つけられるこの親子断絶問題は、新たな児童虐待の類型とさえ考えられる。
とりわけ、無断の連れ去りによって、有無を言わさずに親子関係を断ち切られたケース。
これは、拉致、ゆうかいではないのか?
ちょっと論旨が分かりにくい。離婚は仕方ないが子どもの立場を考えろと言われるが、論理は逆ではないか。家庭内のDVで「子どもの心もからだも表情までも凍りつかせている」と思うからこそ、離婚が起こるのではないだろうか? 家庭内のDVは、子どもに対するものでなくても、「目前DV」として児童虐待にあたることが明確化されている(2004年の「児童虐待の防止等に関する法律」の改正)。まさに子どもの立場を考えたら、DV家庭から子どもを救出することは不可欠な行いではないか。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
この馳議員の発言も出典を探したらちゃんとありました。千田氏はちょっとトリミングしすぎではありませんか?
離婚はしない方が良い。
しかし、離婚せざるを得ない事情もまた、それぞれあろうから、絶対してはならないとまで、強くは言えない。
でも、子どもの立場になってよ。
いさかいをし、口論し合う姿を見せつけられる子どもの心理を考えたことがあるか?
家庭内のDVで、子どもの心もからだも表情までも凍りつかせている意識はあるか?
日本は、離婚をしたら、単独親権である。
だいたい、日常的に養育をし、監護している親に、親権が与えられる。
できるだけ、子どもの置かれている日常的な養育環境が安定していることが優先される。
あたりまえだ。
ただ、そのあたりまえの観点の中に、子どもにとっての最善の利益、最善の福祉、最善の教育という、具体的な視点がもり込まれているのか、注視せざるを得ない実態がある。
離婚に至るプロセスやトラブルに子どもは敏感に影響を受ける。そしてとうとう、離婚となれば、どちらか片親とは、別居を余儀なくされる。
会いたいのに、会えない。
あるいは、同居親からさんざん悪口を吹き込まれ、会いたくないと言わされる。
あるいは、ある日を境に、事情もわからずにプッツリと音信不通にさせられる。
DVを毎日見せつけられていたので、憎しみだけが増幅し、トラウマとなり、人間不信に追い込まれる。
本来ならば、家庭教育において人間社会の縮図を学ばなければならないのに、一方的に片親だけという現実を突き付けられ、成長の機会をうばわれる。
まだまだ、あげればキリがない。
「明日、ママがいない」というTVドラマが、児童養護施設の実態をゆがめて表現しているということで社会問題になったが、そもそも、離婚で傷つく未成年の子どもたちの置かれている環境不備や、傷ついた心を何とかしなければならないという、根源的な問題について、あまりにも日本社会は無関心ではなかったか!
14年前から児童虐待防止法の議員立法に取り組み、子どもの親権一時停止、一部停止問題に取り組んできた。そんな私にとって、離婚で心身ともに傷つけられるこの親子断絶問題は、新たな児童虐待の類型とさえ考えられる。
とりわけ、無断の連れ去りによって、有無を言わさずに親子関係を断ち切られたケース。
これは、拉致、ゆうかいではないのか?
もちろん、原因が明確なDVである場合など、それは当然な連れ去りであり、自治体には女性センターなどに一時保護施設もあり、社会通念上、容認されている。
ところが、この制度が悪用され、離婚することと、子どもを確保することだけが目的の「無断の連れ去り」事案が横行しているのである。その連れ去り手法をアドバイスする弁護士まで出現し、あろうことか、その連れ去りを支持する家庭裁判所の調停員までが法の番人として存在するに至っては、開いた口がふさがらない。
平成24年に民法が改正され、面会交流が名文化された。ところがその改正の趣旨(子どもの最善の利益のために安定的な面会交流が必要)が家庭裁判所において徹底されているとは言い難い。
家庭裁判所が監護の継続性を重視するあまり、「先に監護を始め、これを継続している事態を法的に追認している」ことにより、こんな形式的なヘンな裁定が横行しているのだ。
つまり。
自らの同意無く不当に一方の親に子を連れ去られ、継続性の原則のもと、親権や監護権を奪われ、面会交流が認められず、愛するわが子と断絶状態になってしまう-
このような親が多数存在し、その苦しさのあまり、自殺をする親も相次いでいる。
http://apa-appletown.com/nagatacho/802
「同居親からさんざん悪口を吹き込まれ、会いたくないと言わされる」「ある日を境に、事情もわからずにプッツリと音信不通にさせられる」ケースを千田氏は全く無視していますね。
「家庭内のDVで「子どもの心もからだも表情までも凍りつかせている」と思うからこそ、離婚が起こるのではないだろうか?」というのも、離婚の原因はDV以外にありえないという短絡的な決め付けとしか言いようがありません。
子の連れ去りを、「目前DV」という児童虐待から子どもを救出することと正当化しているのもどうかと思います。
DVの対象が配偶者だけの場合、父母が別居するだけで子は「目前DV」から救出できますから、連れ去りは必ずしも必要ではありませんし、連れ去る側がDV加害者である可能性も千田氏は考慮していません。
実際、母親の方が母方実家両親と一緒になって父親にモラハラ・DVをしかけ、その際に子を実家に連れ去り迎えに来た父親を何時間も正座させて詰るというケースもあるんですよね。この場合、DV加害者である母親が子を連れ去っているわけですが、千田氏はこのケースでもDV加害者である母親の肩を持つんでしょうか?
子を連れ去られた親はDV加害者以外にありえないという固定観念
この辺りになってくると、千田氏は子を連れ去られた親はDV加害者以外にありえないと決め付けた論旨展開になってきます。
DVを毎日見せつけられていたことの影響を馳事務局長は、きちんと述べられている。しかしその結果が、「片親だけという現実を突き付けられ、成長の機会をうばわれる」ため、別居した親に会わせろというのだから仰天した。DV親に会わせることを全面的に反対することはできないかもしれないが、そこにはもう少し慎重さが求められるのではないか。この法案を通そうとしているかたたちが、DVをどう考えているのか、不安になってくるのである。子どもと逃げることを、拉致、ゆうかいとまでいうためには、そこをきちんと考えておく必要があるのではないか。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
ところで、親子断絶防止法案の第9条には実際にDVがある場合についてちゃんと考慮されています。その条文では不十分だという指摘ならともかく、その存在すら無視して「DVをどう考えているのか、不安になってくる」とか「そこをきちんと考えておく必要があるのではないか」とか述べるのはフェアとは言えません。
離婚後の親権獲得を目的とした子の連れ去りが問題なのだから、そこに力点があるのは当然です
もちろん、「原因が明確なDVである場合」などは、「それは当然な連れ去りであり、自治体には女性センターなどに一時保護施設もあり、社会通念上、容認されている」と述べられている。「ところが、この制度が悪用され、離婚することと、子どもを確保することだけが目的の「無断の連れ去り」事案が横行しているのである」と力点は後者にある。ここではすでに離婚が問題ではなく、離婚のまえの別居に際して、子どもを連れて逃げることが問題とされている。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
引用されてる馳議員の発言でも割と丁寧に説明されているはずですが、DVから避難するための一時保護施設などの制度を悪用して離婚後の親権を確実化するための連れ去りがあり、それが問題だと言っているわけですよね。だからそこに力点があるのは当然です。
原因が明確なDVである場合など、それは当然な連れ去りであり、自治体には女性センターなどに一時保護施設もあり、社会通念上、容認されている。
ところが、この制度が悪用され、離婚することと、子どもを確保することだけが目的の「無断の連れ去り」事案が横行しているのである。その連れ去り手法をアドバイスする弁護士まで出現し、あろうことか、その連れ去りを支持する家庭裁判所の調停員までが法の番人として存在するに至っては、開いた口がふさがらない。
http://apa-appletown.com/nagatacho/802
千田氏が「ここではすでに離婚が問題ではなく、離婚のまえの別居に際して、子どもを連れて逃げることが問題とされている」というのは、意味が分かりません。なぜ「この制度が悪用され」の部分を無視するんでしょうか。
「この制度が悪用され」ていることは一切ないという認識なんでしょうか?虚偽のDV訴えで「この制度が悪用され」ている事例は結構ありますよ。
例えば、子を連れて“DVを受けている”と主張して一時保護施設に匿ってもらい、その状況で自分を親権者とした離婚を申し立てるやり方です。DVが事実かどうかについては一時保護施設は判定しませんし、家裁も離婚事案での事実判定を避けることがあります。結果としてDVの訴えが虚偽であったとしても、離婚が成立し子の親権が奪われれば、取り戻すことはほぼ不可能です。
こういった事例があるから法律の必要性があるのであって、千田氏など法案に反対する人たちは、虚偽DVは存在しないという決め付けを前提にしていることが多いんですよね。
「家庭裁判所が監護の継続性を重視するあまり、「先に監護を始め、これを継続している事態を法的に追認している」ことにより、こんな形式的なヘンな裁定が横行している」という点を無視。
これは甚だしく疑問である。もしもこの「連れて逃げる」ひとが、母親だと想定されているのだったら、あまり意味のない規定である。馳事務局長が認識しているように、「だいたい、日常的に養育をし、監護している親に、親権が与えられる。できるだけ、子どもの置かれている日常的な養育環境が安定していることが優先される」のだから、親権は母親に与えられるのが普通だからである。そのままにしていても自分に親権が与えられるにもかかわらず、子どもを連れて逃げるというのはどのようなケースなのか、想像力をめぐらしてみれば明らかだ。父親が子どもを連れて逃げるケースを批判できる、女性に優しくむしろ男性に厳しい想定であるが、今の日本の現状を考えれば、その数はあまり多くないだろう。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
保岡議員もそうですが、馳議員も親権者の指定は「監護の継続性を重視」され「先に監護を始め、これを継続している事態を法的に追認している」という実態だとちゃんとかかれていますよね。
千田氏は馳議員発言の都合のいい部分だけを切り取って、「親権は母親に与えられるのが普通」と主張し、「そのままにしていても自分に親権が与えられるにもかかわらず、子どもを連れて逃げるというのはどのようなケースなのか、想像力をめぐらしてみれば明らかだ」と述べていますが、「そのままにしていても自分に親権が与えられる」というのは間違いです。
「先に監護を始め、これを継続している事態を法的に追認している」という家裁の運用実態は、離婚を考えたら先に子を連れ去って監護実績を作れば、それが追認され親権を取れるということを意味します。離婚が成立するまで同居しているようなケースでは「日常的に養育をし、監護している親に、親権が与えられる」でしょうが、連れ去られてしまうと、連れ去った親が「日常的に養育をし、監護している親」として上書きされるわけです。
したがって、父親が先に子を連れ去った場合は、それまでいくら「日常的に養育をし、監護してい」たとしても。母親側が「そのままにしていても自分に親権が与えられる」という事態にはなりません。
そもそも「そのままにしていても自分に親権が与えられる」のならば、自身がDV被害を受けても子に「目前DV」ではない直接的なDVが加えられていない限り、子を連れ去る必要性がありません。
千田氏の主張内容は矛盾しているわけです。
おそらく千田氏自身は、「そのままにしていても自分に親権が与えられる」ことなどないことを知っていると思います。離婚を巡る親権争いでは家裁に「先に監護を始め、これを継続している事態を法的に追認している」傾向があることは周知の事実ですから。
だからこそ、離婚を考えたら子を連れ去るよう唆す行為が蔓延しているわけで。
「父親が子どもを連れて逃げるケースを批判できる、女性に優しくむしろ男性に厳しい想定であるが、今の日本の現状を考えれば、その数はあまり多くないだろう。」というのもちょっとおかしな部分。子の連れ去りをやるのは別に母親と決まってるわけじゃありませんし、そもそも父親が子を連れ去ったら批判すべきで、母親が連れ去ったら容認すべきというのは、性差別そのものでしょう。
散々言ってたDVが消える
離婚の抑制という意味であったら、効果はあるのかもしれない。日本の法律では相手が拒否している場合、配偶者が証拠を伴う浮気でもしてくれない限り、すぐに離婚することは難しい。特に周囲にわかられにくいモラハラなどを理由にする場合は、なおさらである。したがって多くの人は5年ほどの別居期間を作って、婚姻を継続しがたい重大な事由を客観的に裁判所に証明しようとする。その際に子どもを連れて逃げたら拉致ゆうかいだといわれれば、子どもを取るか、離婚を取るかという選択をせざるを得ない。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
離婚はDVがあるからだと主張していた千田氏が「配偶者が証拠を伴う浮気でもしてくれない限り、すぐに離婚することは難しい」とか言い出すのは理解できませんね。
だいたい「多くの人は5年ほどの別居期間を作って、婚姻を継続しがたい重大な事由を客観的に裁判所に証明しよう」として「子どもを連れて逃げ」るというのは、「拉致ゆうかい」ですし、そもそも「そのままにしていても自分に親権が与えられる」のなら、連れて逃げる必要性自体がないはずです。
連れて逃げる必要性があるということ自体、「監護の継続性を重視」されるという家裁運用の実態を踏まえて離婚時に確実に親権を取得する手段が子の連れ去りであることを認めているようなものです。
「子どものために」する離婚なら、一方の親と子を引き離して構わない?
しかし不仲の夫婦の調査の経験からいえば、多くのひとは自分だけに配偶者からの暴力や理不尽な行いがある場合は、まだ結婚生活を我慢をしている。結婚生活が子どもの養育への悪影響を及ぼしていることに気がついて、離婚を決心することが多いのである(もちろん、私の調査対象者のサンプルバイアスもあるかもしれないが)。決心するのが女性の場合、女性の賃金を考えれば、シングルマザーを取り巻く状況はあまりに厳しいのは周知の事実だ。男性も、家庭と仕事の両立はそう楽なものではない。大きな選択なのである。したがって離婚にかんして「夫婦の問題を親子に持ち込むな」「夫婦は壊れても親子は親子」といった考え方は、短絡的であると私は考えている。それがどれだけ事実を反映しているのかはさておくとしても、子どもがいる場合は「子どものために」離婚する親はとても多く、夫婦や親子の問題は二者の関係ではなく、家族全体のなかで考えられる問題である。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
子どもに対して直接暴力を振るうような親であればともかく、単純に「結婚生活が子どもの養育への悪影響を及ぼしている」というだけで、一方の親と子どもを引き離すことが正当化されるわけではありません。
また、「女性の賃金を考えれば、シングルマザーを取り巻く状況はあまりに厳しい」という視点には賛同できますし、社会的に改善が必要だと思いますが、「男性も、家庭と仕事の両立はそう楽なものではない」という言い方には同意できません。言外に「家庭と仕事の両立」は男性には無理だという含み・否定的な印象が感じられ、性差別的に思えます。
わざと曲解してますよね?これ
子どもを連れて家から逃げるのが女性が多いとすれば、「離婚後に単独親権を求める親が、子どもを連れ去るケースが頻発」しているという保岡会長の言葉は意味がない。問題は、会長も事務局長もが、わざわざ「単独親権」と強調している点にある。あたかも単独親権を求めることが悪いことであるかのように描かれているが、そもそも日本の法律では単独親権しか認められていない。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
日本の現行法が離婚後の単独親権しか認めていないのは周知の事実です。保岡議員の「離婚後に単独親権を求める親」という発言は、“離婚後も自らが親権者となり続けることを求める親”という意味であることは文意から明らかでしょう。こういう揚げ足取りはさすがにどうかと思いますね。
いきなり“保守的家族観”が・・・
この法案をよく読めば附則の部分で、共同親権を導入すべきであるとはっきり書いてある*2。民法の大きな根幹にかかわる変更を、このような法案で簡単に指示することは不適切である。導入には慎重な議論と検討を重ねるべきことである。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
ここだけ読むとまるで伝統的保守の家族観ですね。ちなみに附則に書いてあるのは、共同親権を“検討すべき”であって「導入すべき」ではありません。
「導入には慎重な議論と検討を重ねるべきことである」と千田氏は言ってますが、附則には「政府は(共同親権の導入等について)速やかに検討を加え、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとする」と書いてあるじゃありませんか?
速やかに検討してはいけないんでしょうか?それとも千田氏の言う「慎重な議論と検討」というのは共同親権を否定するための議論を指すんでしょうか?
言及している書籍の引用の仕方がおかしい
外国では共同親権を導入している国がすでにある。例えばアメリカでの共同親権を選択した親子の20年後の聞き取り調査としては、共同親権を選んだ親同士の関係は「かなり友好的、協力的だろう」という調査者の思い込みからは遠く、半数以上が、離婚時に対立関係にあり、離婚後も長年にわたって対立関係が続いているというものがある。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/対立関係にある親が共同親権を選択した理由は、母親から離婚を言い出したケースが多く、母親の多くは単独親権を望んでいたが、夫の要求に「屈して」、取り決めに妥協したのだという。離婚原因は、夫のアルコール依存症、虐待などさまざまであるが、訴訟を避けるためか罪の意識からか、共同親権を選択した。父親の多くは家族の住んでいた住居に残り、母親が小さな住居に移っている(当時は家族の住んでいた家には、母親と子供が残るのが通例だった)。共同親権となった場合は母親に支払われる養育費が減額されたり認められなかったりする結果となり、父親に較べると母親は家の維持にかかわる経費を負担する余裕がなかった(『離婚は家族を壊すか―20年後の子どもたちの証言』Constance Ahrons 著よりまとめ抜粋
この千田氏の主張は、アメリカの共同親権の背景を無視しています。
アメリカもかつては単独親権であって1980年代から共同親権に徐々に移行しています(ただし単独親権時代でも、今の日本より面会交流が充実していました。)。千田氏が言及している『離婚は家族を壊すか―20年後の子どもたちの証言』の原著のタイトルは「We're Still Family: What Grown Children Have to Say About Their Parents' Divorce
」で2004年に出版されています。
つまり、この研究は共同親権が広まり始めた時期の離婚後共同親権家庭を対象としているわけです。
で原著タイトルをもう一度見てみましょう。
「We're Still Family」
(私たちはまだ家族だ)
千田氏はこの書を根拠に「共同親権を選んだ親同士の関係は「かなり友好的、協力的だろう」という調査者の思い込みからは遠く、半数以上が、離婚時に対立関係にあり、離婚後も長年にわたって対立関係が続いている」と主張していますが、どうにもタイトルにそぐわないですね。
実際、この書に関する評としてはこんなのがあります。
明治学院大学 野沢 慎司 教授
(抜粋)
原著のタイトルは『私たちは今でも家族(We're Still Family)』であり、邦訳のタイトルにあるような「親の離婚によって家族は消滅する」という(現代日本に根強い)離婚家族観に対する強烈なアンチテーゼとなっている(この点、邦訳書名はややミスリーディングだ)。離婚後の両親による子どもの共同監護を前提とする法制度が普及したアメリカにおいて、離婚・再婚した両親は別居しているが、子どもは両親との関係を維持し続け、両親が親としての役割を果たし続けるネットワーク型家族として機能する可能性を支持している(核家族の核が分裂して2世帯になった「双核家族」という概念を著者は以前から提唱している)。日本社会の離婚後の家族をめぐる議論において、決定的に欠けている重要な視点を提示している。
http://soc.meijigakuin.ac.jp/gakka/about/detail/post-8.html
そもそもこの本を翻訳した人たちもこういうことを述べています。
翻訳者 渡利美重子
本書を読んで驚いたのは、子どもが親の離婚を受け入れている場合が多いことだ。
そしてもっと驚いたのは、離婚後も両親が協力して子どもの世話をし、慈しみ、さらに、再婚して新たに加わった義父母とも、紆余曲折を経たにせよ、実の父母のように、また異父母弟妹とも実の弟妹のように親しんでいる家族があるということだ。離婚後20年を経て、理想的な友人同士となった両親も決して少なくはないと言う。
翻訳者 天冨俊雄
私が訳を担当した第六章では、子どもたちや父母、それに兄弟姉妹(継父母や継子、義理の兄弟を含む)という拡大された家族の複雑な関係が子どもたちとのインタビューを通して追跡調査されています。環境の急激な変化に子どもたちや親たち家族がどのように対応してきたかが丹念に追跡されています。一方で家族たちの関係を冷静に分析し、観察して、拡大した家族の関係に助言しています。
http://www.e-trans.co.jp/riko_t.htm
この本を挙げての感想が「共同親権を選んだ親同士の関係は「かなり友好的、協力的だろう」という調査者の思い込みからは遠く、半数以上が、離婚時に対立関係にあり、離婚後も長年にわたって対立関係が続いている」というのは、さすがに偏ってませんか?
意味不明な主張
共同親権を導入するとしたら、子どもを連れての旅行や転居にも許可が必要となる。転勤を命じられても、受けられないことも起きてくる。養育費の算定も変わってくる。それこそ学校の選択から子どもの歯列矯正まで、すべてに取り決めが必要である。面会交流や子どもの共同監護をサポートが何もない状態で、女性が経済的に自立するのが難しい現代の日本で、共同親権を導入する機が熟しているかどうかにはそれこそ国民的な議論が必要であろう。離婚というのは、夫婦関係の破たんを意味する。共同親権でうまくいく父母は、単独親権であっても協力し合えるだろうというのが偽らざる感想である。うまくいかない夫婦の場合、子どもを媒介として、相手の人生にずっと影響力を及ぼし続けることが何を意味するのかも、考えなければならない。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
この辺りになってくると主張が意味不明です。
共同親権でなければ別居親に異なりなく、子連れで転居して構わないんですか?
もちろん現行法的には良いんですが、離婚後も平穏に交流できてた別居親と子どもを同居親の一存だけで転居を決定して問題ないと考える千田氏の思考回路は理解できません。
転勤の件は、同居親について?別居親について?どっちなんでしょうか?
養育費の算定と共同親権にどういう関係が?
学校の選択や病院について、別居親に相談なく勝手に同居親が決めていいというのはおかしくないですか?だって、学費は別居親も養育費という形で払うんですよ?
「面会交流や子どもの共同監護をサポートが何もない状態で」と千田氏は言ってますが、そのための法律ですよ、これ。
「子どもを媒介として、相手の人生にずっと影響力を及ぼし続けることが何を意味するのか」って、同居親は子どもを自分のものに囲い込んで別居親を排除すれば、別居親からの影響力を消滅させることができますが、子どもと引き離された別居親は“子どもと引き離される”という形で「ずっと影響力を及ぼし続ける」んですが、その視点はなぜ無視するんでしょうか?
面会交流は子どもの権利でもありますよ。
共同親権や子どもの面会交流は権利であるといっていいし、否定することはしない。しかしそれは子どもの権利というよりは、もう片方の親の権利である。この議論での危惧は、離婚したあとに両親と交流することこそが健全で、そうでないと子どもが健全に育たないかのような記述が散見されることである。ただでさえ「健全な」家庭に較べて、シングル家庭は「健全ではない」と差別されがちである。離婚してまでも、両親と会っていないから、片親だけだから「健全ではない」というレッテルを貼るのはどうだろうか。さらなる差別にさらされるのではないか。議論の際に、いまいる子どもたちを傷つけないように配慮していただきたい。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20161018-00063335/
子どもに危害が加えられる恐れが無い限り、子どもにとって「両親と交流することこそが健全」なのは、当然じゃないですか。
この議論でレッテルを貼っているのは千田氏の方で、“子どもと引き離される親はDV加害者であり、面会交流は子どもを傷つける”という決め付けを行っています。
「シングル家庭は「健全ではない」と差別されがち」なのは、シングル家庭はDV被害者だという決めつけが原因の一つじゃないんですかね。
この種の議論の感想
【未定稿】
父母の離婚等の後における子と父母との継続的な関係の維持等に関する法律案
(目的)
第一条 この法律は、父母の離婚等(未成年の子(以下単に「子」という。)を有する父母が離婚をすること又は子を有する父母が婚姻中に別居し、父母の一方が当該子を監護することができなくなることをいう。以下同じ。)の後においても子が父母と親子としての継続的な関係(以下単に「継続的な関係」という。)を持ち、その愛情を受けることが、子の健全な成長及び人格の形成のために重要であることに鑑み、父母の離婚等の後における子と父母との継続的な関係の維持等に関し、基本理念及びその実現を図るために必要な事項を定めること等により、父母の離婚等の後における子と父母との継続的な関係の維持等の促進を図り、もって子の利益に資することを目的とする。
(基本理念)
第二条 父母の離婚等の後においても子が父母と継続的な関係を持つことについては、児童の権利に関する条約第九条第三項の規定を踏まえ、それが原則として子の最善の利益に資するものであるとともに、父母がその実現についての責任を有するという基本的認識の下に、その実現が図られなければならない。
http://nacwc.net/files/houbun.pdf
「児童の権利に関する条約」
第9条
3 締約国は、児童の最善の利益に反する場合を除くほか、父母の一方又は双方から分離されている児童が定期的に父母のいずれとも人的な関係及び直接の接触を維持する権利を尊重する。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html
「父母の離婚等の後における子と父母との継続的な関係の維持等に関する法律案」通称、親子断絶防止法案ですが、これに関する議論を見る限り、賛成派は実際にDVの被害がある場合についても配慮しているのに対し、反対派はDV被害だけを訴え虚偽DVによる連れ去り被害については存在すら認めていないように思えます。
その点で、反対派の議論のやり方はアンフェアだと思いますね。
2000 年ノースダコタ州最高裁判所での判例では、裁判所が「合衆国歴史上最悪の親子疎外症候群」と指摘したほど、監護親の母が非監護親と子どもとの関係を悪化させた事例において、父親に監護権が変更された。また事実審では母親に1 年間の面会交流禁止が出されていたが、州最高裁では面会交流は単に非監護親の特権ではなく、子どもの権利であるとし、面会交流が拒否されるのは子どもの身体的あるいは心理的健康に有害であるときのみであるとして、母親に監督付きの面会交流を認めた。
http://www.moj.go.jp/content/001130860.pdf
*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.oita-press.co.jp/1010000000/2014/12/18/235615591
*2:半分冗談ですが、この話題に関しては反対派の方に問題があるんですよねぇ。ハーグ条約に反対してた層とほぼかぶってますし、日弁連も同類だし。http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20120405/1333645932
2016-10-14
稲田防衛大臣の間抜けっぷりは救いがたいレベル
2010年には参拝しないことを「感謝と敬意を表することができない」とか決めつけて、内閣総辞職を迫った輩
2010年10月6日衆議院本会議で、稲田はこんなことを言ってます。
ことしの八月十五日、菅総理及び菅内閣の閣僚は、ただ一人も靖国神社参拝をしませんでしたが、いかなる歴史観に立とうとも、国のために命をささげた人々に感謝と敬意を表することができない国に、モラルも安全保障もありません。
要は、言葉ではなく、守る意思と覚悟の問題です。その意思も覚悟もない菅内閣にこの国の主権も領土も国民の生活も国家の名誉も守ることができないことが明らかになった今、総理がなすべきことは、内閣を総辞職するか、一刻も早く衆議院を解散し、国民に信を問うことであることを申し上げ、私の質問を終わります。(拍手)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/176/0001/main.html
自分が参拝しなかったことは適切な判断だと主張する二枚舌
で、今はこうですね。
稲田防衛相「靖国参拝するかしないかは心の問題」
2016年10月14日11時22分
(17日から始まる靖国神社の秋季例大祭について)参拝をするかしないかは心の問題と思っているので、行くか行かないかということは、言うべきではないと思っているし、安倍内閣の一員として適切に判断をして行動をしていきたいと思っている。
(閣僚の参拝をめぐる中国や韓国の反発について)心の問題なので、いかなる国であっても、いかなる歴史観を持とうとも、自分の国のために命を捧げた方々に追悼の意を表するということは、私は国民の心の問題であると考えている。(閣議後の記者会見で)
http://www.asahi.com/articles/ASJBG3HS4JBGUTFK00B.html
ああ、ちなみに稲田は2010年10月6日衆議院本会議で菅首相を「間抜け」呼ばわりしてますが、白紙領収書利用やSLAPP失敗、果ては漁船と公船の区別や情報収集艦と戦艦の区別がつかない稲田自身に「間抜け」ブーメラン刺さりまくりですね。
2016-10-09
尊属殺重罰規定の廃止が尊属殺を増加させたとはいえない
こういうコメントがありました。
ロンパース 2016/10/06 17:20
尊属殺罪廃止後の尊属殺増加を見ると、
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20161005/1475689725#c1475742014
尊属殺重罰規定は、刑法200条に規定されていたもので親などの尊属を殺害した場合は通常の殺害よりも重罰(死刑又は無期懲役のみ)を適用すると言う条文です*1。
栃木実父殺害事件(1968年10月5日発生)に対する裁判の1973年4月4日の最高裁判決において、刑法200条の尊属殺重罰規定は憲法14条に違反するとの判決が下され死文化されました。この判決後、法務省は尊属殺であっても一般の殺人を裁く刑法199条を適用するよう通達を出しています。
刑法上に残った尊属殺重罰規定の条文が消えるのは、1995年の法改正によってです。
尊属殺罪廃止後に尊属殺は増加したか?
http://www.kunidukuri-hitodukuri.jp/web/koso7/koso7_column_tamashi_1.html
こちらのグラフを見ると、刑法200条が削除された1995年“頃”から尊属殺が増加しているように見えます。コメンタはこれを根拠に主張しているようですが、そもそも法改正された1995年を基点に見るのが正しいのでしょうか?
1973年の最高裁判決で尊属殺重罰規定は違憲とされていますので、1973年以降に尊属殺人が行われても刑法200条が適用されることはありません。基点とするならむしろ1973年を基点とするべきでしょう。
すると、1973年頃を機に尊属殺人件数はむしろ減っていますね。
これでコメンタの主張の根拠は崩れたことになります。
そもそも法改正の1995年を基点にしてもずれている
グラフをもう一度良く見てみると、尊属殺人件数が増えはじめたのは1995年頃というより1990年頃であることがわかります。ですからこの点からも法改正の影響と見るのは誤っています。
ちなみに殺人件数そのものは1990年頃まで減少傾向を示していましたが、1990年頃に停滞し2003年頃まで緩やかに上昇する傾向を示しています*2。
つまり、1990年頃というのは殺人件数に影響を与える社会的な現象があったことが示唆されるわけですが、感覚的にバブル崩壊という経済状況の影響がまず考えられますよね。
死刑の抑止力
死刑に抑止力があると考えている人たちは、犯人が殺人を犯すか否か判断する際に刑罰の重さを考慮すると考えていることになります。
殺人の動機としては、憤懣、怨恨、痴情、利欲、組織的要請(暴力団の勢力争い等)、口封じ、介護疲れ、自己防衛等がありますが、最も多いのは憤懣でほぼ半数近くになります*3。
死刑が廃止されても懲役刑は当然存続しますから、“捕まったら死刑になるかもしれない”と“捕まったら無期懲役になるかもしれない”との間で、犯行の決意にどのような違いが出るか、が死刑の抑止力とみなせます。
まず、憤懣で殺人を犯す人が捕まった場合を冷静に考慮できるかはかなり疑問です。
怨恨や痴情も後先考えているとはあまり言えないでしょう。
利欲、口封じは冷静に考えているとは言えますが、まず“捕まらないように”という発想が基本でしょう。“捕まっても最悪無期懲役だから、利欲目的で殺人を決行しよう”と考えるのも少し考えにくいですね。口封じに至っては、“捕まっても最悪無期懲役だから”という発想なら何のための口封じなのか意味不明です。
暴力団の勢力争いのような組織的要請に基づく殺人、しかも懲役はむしろ箔が付くという状況ならば、死刑の有無は当人の意思決定の上で抑止力に働くかもしれませんが、そもそも犯人一人の意思で決行の判断を下せるわけではないのが組織的要請です。
介護疲れによる殺人に至っては、一般的に情状が酌量されるのが普通でしょうし、“捕まったら死刑になるかもしれない”とか考えられる精神状態とも言えないでしょう。
刑罰の抑止力を重視する人は“無期懲役は実質5年で出てくる”みたいなデマを何とかすべき
無期懲役って年間1800人中10人程度という倍率180倍の超難関*4で、基本的に帝愛グループの地下帝国並みに出て来れないと思っといた方がいいレベル。
“無期懲役は実質5年で出てくる”みたいなデマ*5が吹聴され、社会に蔓延すると“無期懲役相当の犯罪”はやっても大したことないってことになりませんか?
殺人事件の件数はどのような因子に影響されるのか
個々の殺人事件を想定した場合、事件の発生に影響する社会的な因子とはどのようなものが考えられるでしょうか。
実際、バブル崩壊した1990年頃以降に尊属殺は増加し、全体の殺人件数自体もそれまでの減少傾向に歯止めがかかっています。経済的な困窮が直接、殺害につながることもあるでしょうが、経済的な事情から同居せざるを得なくなった環境下で人間関係が悪化したなどの間接的な影響もあるでしょう。
介護疲れによる殺人などは、経済的な事情の他に核家族化や少子化、晩婚化、介護を“嫁”の務め的に見る風潮の変化など、家族のあり方の変化も影響しているように思えます。
憤懣が動機の殺人は精神的な余裕やはけ口が少なくなることが影響しているかもしれませんし、怨恨の場合も人間関係の不満が適切に調停されることなく合法的な解決方法がすべて閉ざされてしまうことで起こりやすくなるでしょう。
その他、検挙率などの警察・治安に対する社会認識も大きな影響がありそうです。
これら様々の因子の中には、捕まった場合の刑罰の重さに対する認識もあるでしょうが、正直、それが有意に高いとは思えないんですよね。どう考えても経済状況や警察・治安に対する社会認識の方が圧倒的に影響大きそうですしね。
まあ、こういった様々な因子を統計的に適切に考慮した分析でもなされているなら、それは傾聴に値するとは思いますが。
*1:自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス
*2:http://www.moj.go.jp/content/000112398.pdf
*3:http://www.moj.go.jp/content/000112398.pdf
*4:誤記訂正2016/10/10
2016-10-05
死刑廃止論者なのでちょっと書いておく
この件ね。
モトケン@motoken_tw
なんの落ち度もない善良な市民を100人虐殺した人でも死刑にしてはいけない、と言えない人は死刑廃止論者ではない。
17:02 - 2016年10月3日
https://twitter.com/motoken_tw/status/783094879916216320
モトケン@motoken_tw
さらに言えば、何回有罪判決を受けても機会があれば殺人を繰り返す人間であっても死刑にしてはいけないと言えなければ死刑廃止論者ではない。
17:08 - 2016年10月3日
https://twitter.com/motoken_tw/status/783096537081536512
いずれの場合も死刑にすべきではないと考えてますよ、もちろん。
ところで死刑容認論者が特に気にすべきことと思いますが、例えば後者(何回有罪判決を受けても機会があれば殺人を繰り返す人間)の場合って心神喪失とか心神耗弱とかの可能性をどう考えるんですかね?
刑罰法規に触れる行為をした人の中には,精神病や薬物中毒などによる精神障害のために,自分のしていることが善いことか悪いことかを判断したり,その能力に従って行動する能力のない人や,その判断能力又は判断に従って行動する能力がが普通の人よりも著しく劣っている人がいます。
刑法では,これらの能力の全くない人を心神喪失者といい,刑罰法規に触れる行為をしたことが明らかな場合でも処罰しないことにしています。また,これらの能力が普通の人よりも著しく劣っている人を心神耗弱者といい,その刑を普通の人の場合より軽くしなければならないことにしています。
これらは,近代刑法の大原則の一つである「責任なければ刑罰なし」(責任主義)という考え方に基づくもので,多くの国で同様に取り扱われています。
http://www.courts.go.jp/saiban/qa_keizi/qa_keizi_21/
だって、「なんの落ち度もない善良な市民を100人虐殺」するとか「何回有罪判決を受けても機会があれば殺人を繰り返す」とか、まさに「自分のしていることが善いことか悪いことかを判断したり,その能力に従って行動する能力のない人や,その判断能力又は判断に従って行動する能力がが普通の人よりも著しく劣っている人」なんじゃないですかね?
死刑の是非以前に刑罰の対象にすらならないように思いますけど、モトケン@motoken_tw はその辺、どう考えているんでしょうかね。
死刑の有無の影響
モトケン@motoken_tw
死刑廃止論者は、死刑を廃止しても殺人事件(つまり殺人事件で命を奪われる人)は増えない、と考えているか、死刑を廃止して殺される人が増えてもかまわない、と考えているかのどちらかですよね?
17:31 - 2016年10月3日
https://twitter.com/motoken_tw/status/783102186658025472
そういう視点を気にしたことがありませんけど、どちらかと言えば前者ですね。死刑の有無が殺人事件を有意に抑止してはいないと思いますので。
逆に死刑容認論者は、死刑の存在が殺人事件を抑止していると考えてるわけですよね?
だったら何故、他のすべての犯罪、例えば強姦や窃盗、暴行、監禁などの犯罪に対しても死刑を認めるべきだと主張しないんですかね?死刑を導入しても事件は減らないと考えているか、死刑を導入しないことで、強姦、窃盗、暴行、監禁などの事件は減らなくてもかまわない、と考えているかのどちらかですよね?
あるいは、すべての犯罪に死刑を導入すべきだと考えてるんですかね。
更生の可能性
モトケン@motoken_tw
.@potimarimo 私が言っていることは、凶悪無比で残虐で更生の可能性が皆無の常習殺人犯であっても死刑にはしない、と言うのが死刑廃止論だ、ということです。死刑賛成論者は、そういう犯人は死刑にすべきだ、と言っているわけで、「人を殺してやりたいと思って実行に移す人」ではない。
22:22 - 2016年10月3日
https://twitter.com/motoken_tw/status/783175347546132482
「凶悪無比で残虐で更生の可能性が皆無の常習殺人犯」なるものが仮に存在するなら、上述した通り心神喪失や心神耗弱であろうと思いますけど、そもそも更生の可能性が皆無って判断できるものなんですかね。もちろん裁判所がしばしばそういう判断を下していることは知ってますが、更生の可能性が“少ない”ではなく“皆無”って言いきれるものではないと思うんですけどね。
どうにも、死刑になる犯人は、生まれつき殺人行為に快楽を覚える普通の人間とは異質の存在であるかのような考え方には賛同できないんですよね。
普通の人間が様々な環境や本人や周囲の性格・関係性、さらには偶然の出来事などが複雑に絡み合った結果として犯罪行為に至る、というのが私の犯罪理解なので、「凶悪無比で残虐で更生の可能性が皆無の常習殺人犯」なるもの自体、空想の産物にしか思えません。
いや、元検事に言わせれば、“生まれついての犯罪者なるものは空想でなく実在する”ということなのかも知れませんけど、もしそのような“生まれついての犯罪者”が存在するのなら、最善の手段は生まれた直後に死刑にするか、強制的に堕胎にするべきということになりますかね。
価値観の表明?
モトケン@motoken_tw
死刑制度というのは、他人の命を奪えば自分の命も奪われる、つまり他人の命は自分の命と同じく大事だ、という価値観の表明と見ることもできる。
16:50 - 2016年10月3日
https://twitter.com/motoken_tw/status/783091968196870144
傷害事件の犯人には、傷害を負わせるべきということでしょうかね。賛同できませんけど。
制度論であり政策論であり法律改正論
モトケン@motoken_tw
死刑存廃論は、制度論であり政策論であり法律改正論なので、死刑を廃止するためには、国民の多数が死刑廃止を望み、国会議員の多数が死刑廃止を支持しないと実現しない。
19:55 - 2016年10月3日
https://twitter.com/motoken_tw/status/783138405362171904
うーん、法律改正という点では国会議員の多数の支持が必要なのは確かですけど、国民の多数が死刑廃止を望むかどうかは制度論・政策論・法律改正論的にはあまり関係ないと思いますよ。
あと、死刑存廃に必ずしも法律改正は必要ありませんね。裁判所が死刑判決を出さなくなれば、法律上は死刑の規定が残っていても事実上、死刑は廃止されている状態になりますから。
ですから、国民の多数が死刑存続を望み、国会議員の多数が死刑存続を支持したとしても、司法がいかなる場合も死刑を適用すべきではないという判断を堅持すれば、死刑廃止は事実上ではあっても実現はしますよ。
もっと極端な例を言うなら、法務大臣が死刑執行に同意しないという状態を続けることでも事実上の実現はします(まあ、死刑囚の待遇問題が残りますが)。