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被爆点の記録を日本に

10(テン)フィート運動によって10万フィートの記録フィルム入手

1980年は戦後35年。アメリカでは情報公開法で、公文書は原則30年を経つと公開される。戦時下の、占領下の秘密にされてきたアメリカの公文書が公開されはじめ、歴史の重い扉からかすかな情報が漏れ始めた。情報公開は、単に文書にとどまらず映画フィルムなど写真・映像にも適用された。

1980(昭和55)年春、NHK広島放送局へ後に「10フィート運動」の事務局長になる岩倉務さんが訪ねてきた。岩倉さんは原爆投下直後の「アグニュー映像」を発掘した人物で、「アメリカの公文書館にある8万フィートにのぼる広島と長崎の記録フィルムを市民の手で買い取りたいのでNHKにも協力して欲しい」と申し入れた。「市民一人ひとりが、10フィート分に3000円のカンパをしてフィルムを買い戻す」という壮大な思いを持った「10フィート運動」は同年7月から全国に呼びかけられた。そして、翌81年4月には全フィルム10万フィート、アグニュー映像、1946年の米戦略爆撃調査団などの貴重な被爆直後の広島・長崎の映像が市民の手によって日本に戻ってきた。その後、これらの中から長短7本の記録映画が生まれた。

「特殊爆弾」の正体を掴め

戦時下の広島は日本の第2総軍司令部のある軍都であり、約8万の兵士がいたという。これらの兵士らがどのような原爆の瞬間を迎えたのか。原爆が投下されたとき、当時の呉工廠調査隊は被爆当日から調査に広島に入ろうとした。この調査隊の報告が大本営に上がり、「特殊爆弾」は「原子爆弾」だと、日本側でも確認された。※NHK特集「密命〜特殊爆弾ノ正体ヲ解明セヨ〜」(1981)

ドラマ人間模様『夢千代日記』

被爆の現実を知るのはドキュメンタリーやニュース報道によるだけではない。ドラマは人間の内面に分け入り、その現実を生身の人間の思い、悩み、出来事にして見せてくれる。1981年に放送された ドラマ人間模様「夢千代日記」は、胎内被爆した芸者夢千代を主人公にしたドラマで、作家早坂暁は吉永小百合の好演もあり、テレビ史上に残る作品を送り出した。

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