辛いことや愚痴は共有しやすい。
「そうだね。」
って拾ってあげた数だけ、自分が傷ついてきたことに何か意味があったような、ちょっと人にいいことできたような、そんな気がする。
お互いの愚痴を拾い合うことで助け合えたような、ちょっとひとりじゃなくなったような安心感を得る。
けれど人間、沈めばあとは上がるだけ。
上がろうとしたとき、かつて支えだと思っていたその関係が、気づけばおもしに変わっていたりする。
誰とどれだけ共有しても、這い上がるときは独り
立ち直る手がかりを探しつづければ、優しい言葉をかけ合った仲間とはいつか離れるときがくる。
悩みや不安から立ち直る速度は人それぞれで。
幸せまで這い戻るには、ずっと沼に足を取られる仲間を尻目に自分だけ天を目指すような残酷さがいる。
沼から脱出できるかどうかギリギリという状況の人間に、誰かを一緒に沼から引っ張り上げるほどの力はないのだ。
置いていかれる人
いつしか心の支えになっていた人がいなくなるのは、誰だって寂しい。
寂しいから離したくない気持ちをぶつけても、今までわかってくれたあの人なら許してくれそうな、そんな気がする。
「きっとわかってくれる」という根拠のない自信の中に、不安や戸惑いを拾ってほしい気持ちはあっても、相手の幸せを願う気持ちは正直ない。
絶望の淵にいるとき、そんな自分を醜いと顧みる余裕もない。
いつもわかってくれるあの人の正体は、すぐに沈むただの藁である。
引っ張りあげる力もなく無責任に手を差し伸べる藁に、無我夢中ですがっては沈めにかかっている。
不安って、そういうこと。
幸せから眺めるあの日の沼
「あのとき自分にできることは本当になかったのか。」
「今の私なら何かできることもあるのではないか。」
幸せに一息ついたとき、私はいつも無責任に振り返る。
そしてひとしきり考えたあと、振り返った自分を軽率だったなと思う。
平穏を取り戻した自分の視点から考えたとき、今の平穏を賭けてまであの人に手を伸ばすほど、私たちにたいした絆はなかったことに気づくのだ。
突き放されてショックを受けて、今度は自分が突き放す側に回ったときに気づいたことがある。
一緒に笑っていたあの日、あの人は泣いてばかりの私に夢を見せるために無理をしてくれていただけだった。
それがどの面下げて、私はあの人を笑わせようだなんて思ったのだろうか。
結局自分のことばかり選んできたくせに。
不幸でつながった人は不幸と共に去る。
幸せになった数だけ誰かを見殺しにして、それでも私は何も生まない不幸と決別して生きていく。