【ラグビー】平尾氏死去…若すぎる53歳、松尾氏「膵臓がんと聞いていた」
ラグビー日本代表主将で、日本代表監督も務めたミスターラグビーこと、平尾誠二氏=神戸製鋼ゼネラルマネジャー(GM)=が20日午前7時16分に死去した。53歳だった。最近は体調を崩し、病気療養中だった。死因は不明。平尾氏は京都・伏見工高(現京都工学院高)で山口良治監督の下、1981年に全国高校大会で初優勝。同志社大では史上初の全国大学選手権3連覇に貢献し、社会人の神戸製鋼では日本選手権7連覇を達成した。実力だけでなく、端正な顔立ちでラグビー界の新時代を築いた。葬儀、告別式は未定。
日本ラグビー界の巨星が逝った。日本協会は平尾氏が20日午前7時16分に死去したと発表した。体調を崩して入院したのは昨年9月頃。日本代表がイングランドW杯で過去最多3勝を挙げて、ラグビー人気が高まったのと同じ時期だった。すぐに退院し、今年4月には痩せた姿で大阪市内で講演したが、夏以降は公の場に姿を見せていなかった。
死因など詳細は不明で、神戸製鋼の関係者は「遺族の意向もある」と連絡が取れていないことを明かした。元日本代表SOで現役時代から親交があった松尾雄治氏(62)は「膵臓(すいぞう)がんだったと聞いていた。昨年暮れに最後に会ったときは元気だったのに残念です」と悔やんだ。
1981年、伏見工高3年時の全国高校大会で、ともに中心選手としてチームを初優勝に導いた同校教頭の高崎利明氏(54)は「去年の10月に電話で病気のことは聞いていました。その時、余命3か月と聞いていた。1年たって、もしかしたら奇跡が起きてくれるかもしれないと思ってましたが…。残念です」と声を震わせた。
82年には史上最年少の19歳で日本代表に初選出された。モデルのような端正な顔立ちで口ひげがトレードマークだった。それまでの“男くさい”イメージを払拭するように、SOやセンターで華麗なプレーを披露。80年代後半から90年代前半にかけて、ラグビーブームの立役者となった。
伏見工高では全国高校大会で初優勝を飾った。荒廃した高校のサクセスストーリーは、後にテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」の題材にもなった。同志社大では史上初の全国大学選手権3連覇を果たした。86年に神戸製鋼に入社し、89年からは新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇に貢献した。日本代表としては、87年の第1回W杯から3大会連続で出場。キャップは35を数えた。
97年には史上最年少の34歳で日本代表監督に就任。99年ウェールズW杯で指揮を執り、3戦全敗に終わった。その後は神戸製鋼の総監督、ゼネラルマネジャーなどを歴任。大会組織委員会の理事を務めた2019年日本W杯については、関係者に「これからが大事。開催都市は特色を生かして、成功に導いていかないといけない」と力説していたという。3年後のビッグイベントを前に旅立ったのは無念だったに違いない。