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引退を発表した森崎浩司…「広島の7番」が乗り越えた"地獄"と強い想い/コラム

GOAL 10月21日(金)18時52分配信

「彼は、誰だ」

2009年の夏、広島の練習場である吉田サッカー公園のピッチを歩いている男の姿を見て、筆者だけでなく誰もが首をかしげた。髪はラフに切られ、足元はスパイクでもなくランニングシューズでもなく、裸足だ。何よりも、不自然すぎるほど顔色が白い。

無表情なその顔は、確かに見覚えがない。もう1度、じっと見つめてみた。ピンときた。これまで、何百回も取材してきた男だ。森崎浩司だ。

愕然とした。サッカー選手らしい精悍さも、溌剌さもない。足取りも重いし、表情にも鋭さを欠く。これが、あの浩司か。前年、J2とはいえ14得点7アシストを積み重ね、広島オリジナル・システムの構築に、兄・和幸と共に大きく貢献した。ワールドユースやアテネ五輪にも出場し、チームが苦しい時にも美しいFKや強烈なミドルで危機を救ってきた、あの浩司の姿なのか。

筆者はこの時に初めて、彼を苦しめた「オーバートレーニング症候群」という病気の恐ろしさを実感した。だが、闘病生活の実際を浩司から聞いた時、言葉をなくした。声が出なくなるということを、初めて実感した。

目がかすみ、焦点がぼやけたまま。新聞の文字が揺れて見える。言葉が耳に入っても、その意味が頭に入らない。身体を起こすことも困難になり、喜怒哀楽の感情もなくなった。眠れない。動悸が激しい。立ちくらみもある。手足が冷たい。

2009年の春の朝、彼の中にある焦燥感が激しくなり、身体が極端に重くなり、意識をなくした。気づいた時には生きる意欲すら、存在しない。「地獄でした」。浩司が振り返るこの5文字の状況は、ここに書いた出来事の何十倍の悲惨さ。

「普通の生活ができるように、なってくれれば」

当時、兄が語ったその言葉の意味が、わからなかった。ただ、当時の浩司は、それすら叶わぬ夢のように思える状態だったのだ。

最愛の娘を抱くこともできなくなった浩司は、看病と育児の負担が厳しいだろうと妻を慮り、実家に戻ってほぼ寝たきりの生活を続けていた。だがある時、妻・裕子さんがこう語りかける。

「家に帰ろう。私が治してあげる」

「サッカーもできなくなるかも。仕事も失うかも。それでも一緒にいてくれる?」

「いいよ」

筆者が浩司の姿を練習場で見たのは、その数ヶ月後。言葉を失った彼の姿は実は、家族や仲間に支えられ最悪の状態から脱した証明でもあった。

全てが解決したわけではない。2010年、2012年、そして2013年も発症。「どうして」。自問自答を繰り返しながらも浩司は戦った。2012年には7得点を記録し、広島の初優勝に貢献。近年は足の故障を何度も繰り返し長期離脱が連続したが、それでもトレーニングでは100%以上の力で常に取り組み、背中でプロフェッショナルとしての生き様を見せた。2013年の浦和戦、2015年の松本戦、そして今年のルヴァンカップ準々決勝のG大阪戦。代名詞のFKを叩き込み、サポーターを熱狂させた。

「ユースから数えれば20年間、ずっと広島でやってきた。それは僕自身の誇り。違うチームでプレーすることは想像できない」

李忠成や西川周作(現浦和)ら多くの選手が「日本代表で戦える」と称賛した高い技術と飛び抜けたスキル、個人戦術の高さはまだまだトップレベル。現役続行も考えたという7番だったが、最後は「広島の浩司」で終わることを選択した。それは愛妻や家族、森保監督をはじめとするチームスタッフ、クラブ、チームメイト、そしてサポーター。広島の全てに対する感謝と強い想いの存在故だ。

「想像を絶するほどの苦難と闘い、もがき、這い上がってきた。絶対に続けていこうとする彼の姿を、近くで見てきた。浩司はやれることを全てやりきった。よくやった。その一言です」

7番の先輩である森保一の言葉は、森崎浩司という勇者に対する最高のメッセージである。

文=中野和也

GOAL

最終更新:10月21日(金)18時52分

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