前編はこちら⇒http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49890
トロッコ電車の終点、欅平に着いたのは朝の8時半だった。標高599m、快晴。暑くもなく、寒くもない爽やかなお天気。澄んだ空気が清々しい。
トロッコ電車で黒部川沿いに宇奈月から欅平まで遡って行く途中には、宇奈月ダム、出し平ダム、小屋平ダムと3つのダムがある。そのさらに上流に、仙人谷ダムと、黒部ダム(クロヨン)があるのだが、クロヨンの発電所は地下に隠れている。
仙人谷ダムは第二次世界大戦の前、黒部ダムは戦後に作られたが、両ダムの共通項は、工事が未曾有に困難であったことだ。
昭和11年に小屋平ダム(黒二発電所)が完成したとき、すでに仙人谷ダム(黒三発電所)の建設が計画されていた。富国強兵のかけ声の下、電力の確保に、まさに国の浮沈がかかっていた。
ただ、大きな問題があった。それまでの発電所建設では、資材や作業員の輸送のため、工事に先駆けて下流から上流へとトロッコ電車の線路を徐々に延長してきた。ところが、欅平から上は延長が叶わない。河川の勾配があまりにも険しく、たとえ線路が敷けたとしても、トロッコ電車の力では絶対に登れない。断崖には、調査測量のための小道(現水平歩道)がへばりついているだけだった。
そこで、まず欅平から山の中に垂直に竪坑を造り、そこから今度は、山を水平に貫通するトンネルを掘ることになった。それ以外に、仙人谷に資材を運ぶ方法はない。竪坑の高さは200m(当時、日本一)。仙人谷ダムの建設現場は標高859mで、欅平との標高差が260mだ。
竪坑の工事が難航したという記録はない。それに比べて、トンネルの建設は想像を絶する難工事だった。掘削現場が高熱地帯に突き当たり、掘り進むにつれて岩盤の温度がどんどん上昇し始めたからだ。
ツルハシで掘り進む人に、ホースで黒部川の冷水をかける人がいて、その人に、また他の人が水をかけながら、工事は人海戦術で進められた。
しかし昭和13年、岩盤の温度は100度に達し、装填中のダイナマイトが自然発火する事故が起こり始めた。それどころか、温度はときに166度まで上がった。一方、その冬は宿舎が泡雪崩に見舞われ(前編参照)、就寝中の作業員が建物ごと吹き飛ばされたりもした。
ようやくトンネル(高熱隧道と呼ばれる)が貫通したのは、昭和15年6月。その年の11月には、念願の発電を開始した。
竪坑のエレベーターは巨大だ。下から来た小さなサイズのトロッコ貨車は、そのままこの巨大エレベーターの中に入り、200m上昇し、そのあと、バッテリー式の牽引車両に引っ張られて、高熱隧道を進む。このトンネルは現在、上部軌道と呼ばれている。
バッテリー電車に乗せてもらって上部軌道を進んでいくと、だんだん硫黄の匂いが漂ってくる。車両のドアを開けると40度ぐらいの熱気が吹き込んで、少し気味が悪い。
この上部軌道の途中に仙人谷ダムがあり、その奥には、のちに建設された黒四発電所がある。この発電所も全地下式だし、上部軌道の駅も、そこからもっと上に続く巨大なケーブルカー「インクライン」も、すべて山の中を穿って造られている。外は積雪が多く、雪崩の危険も大きいからだ。
しかし、すべてが山の中に建設されたのには、雪崩の他にも理由がある。自然環境の保存だ。興味深いことに、昭和9年、つまり、仙人谷ダムの工事の始まる前に、すでに黒部峡谷一帯が中部山岳国立公園に指定されている。以後、今日まで、黒部の電源開発は、自然保護と二人三脚で進められてきた。
黒部ダムの建設の際にも、関西電力には、厚生省からいろいろな条件が課せられたという。
たとえば、ダムからの豪快な放水。実は、あの放水と発電は何の関係もない。発電に使われる水は、ダムの取水口から地下の導水路を一気に下り、地中にある黒四発電所の水車を回して電気を作る。一方、観光放水で流されている水は、下の仙人谷ダムまでのあいだの川を流れて、峡谷の自然を守っている。
ダム湖を走る遊覧船や、針ノ木谷~平の小屋間の無料渡船運行も、ダム建設の許可条件だ。クロヨンは黒部の観光に資するところも大である。